堕天使

三津凛

第1話

蛙のように股を開いた結果がこれだ。胤はいらない。ならば堕ろすまで。

結子は不機嫌に歩き続けた。

薬の匂い。点滴の規則的な刻み。銀色の器具たち。罪悪感はない。

無責任な母親になる方が罪深い。それよりも、もっと無責任な父親たちの存在を知らせる方が罪深い。

ならば堕ろすまで。

自我はまだない。生命はまだ溶けそうに小さく弱い。

ならば堕ろすまで…。


病院は思ったよりも分かりにくい。結子は段々いらいらとしてくる。もう一人自分の中にある分だけ、身体が重くなる。過去が重くなる。倫理が重くなる。

ならば堕ろすまで。

散々迷った後で、不意に袖を引っ張られる。

丸顔の男の子だった。結子を見上げて不安そうに瞳を揺らす。迷子だろうか。

つい舌打ちしそうになるのをなんとか堪える。あぁ、早く身軽になってしまいたい。

「…どうしたの?迷子?」

「どこ行くの?」

思いがけず、明るい声で言われる。

「…どこでもいいでしょ」

「僕も一緒じゃなきゃだめなの?」

「は?」

結子はそっと男の子から離れる。男の子は親しげに結子の手を握る。母親に甘えるように馴れ馴れしい。

気持ち悪くて指を解こうとしても、絡まった知恵の輪のようになって解けない。

「僕も一緒じゃなきゃだめなの?しょうがないなぁ」

得体の知れない不気味さを感じながらも、結子は歩き出した。タチの悪いいたずらなのだろうか。

気持ち悪い。あぁ、だから子どもなんて産まなくてよかった。

結子は都合よく考える。

何度か隙を見て手を解こうとしても、男の子は思いの外強い力で握っている。ふと、胎盤と臍の緒で自分と繋がっているもう一人を思い浮かべる。嫌なものが込み上げてきて、唇を噛む。

「これからどこ行くの?」

結子は幼い頭を見下ろす。ちっとも可愛くなんてない。ふん、と鼻を鳴らす。脅かしてやれ。

「病院」

「…どこか悪いの?」

「そうだね」

無駄なものを裁断するまで。堕ろすまで。そんなことを思いながら、応えてやる。少しだけ怯えたように男の子のは首を引っ込める。


病院はまだ見えてこない。道のつくりがみんな同じに見えてくる。

「どうして、僕も一緒なの?」

「…は?勝手に着いてきてるんでしょ。いい加減、帰ったら?」

男の子は応えない。あぁ、気持ち悪い。

ふと視線を遠くにやると、ビルの群れの向こうに目当ての白い建物が見えた。結子は振り返って、男の子を見下ろす。

「あれ、病院だよ」

握った手に力が込められる。結子は脚を早める。子どもは病院が嫌いだ。早くあの病院をくぐってやろう。まさか中までは着いてこないだろう。

次第に病院が見えてくると、男の子は明らかに嫌がりだした。

「ねぇ、ねぇ、ねぇ。僕はどこが悪いの?どこも悪くないよ、痛くないよ。ねえってば」

結子は無視した。指はまだ解けない。

「怖い、怖い、怖いよ。ねえってば!」

病院の目の前までくると男の子は憚らず絶叫しだした。結子は怪物を移植されたような心地になる。必死になって手を解こうとしても、固く結ばれたようで一向に離れられない。

まるで、子宮の中に漂うもう一人みたいだ。ぞっとして結子は異様な男の子を見下ろす。不意に男の子と目が合う。

「お母さん!お母さん!嫌だよ!嫌だよ!捨てないで!」

誰かに似ている。結子は見開かれた男の子の瞳を覗き込む。よく似た女が薄い瞳の膜に映り込んでいる。

「捨てないで!捨てないで!捨てないで!」

鏡を覗き込むようだった。この子は私によく似ている。結子は背中が粟立つのを感じた。

「お願いだから捨てないで!」

重い、もう一人はこんなにも重い。

「私はまだ産んでない!」

思わず絶叫する。病院の窓に看護師が張り付いてこちらを見ている。

「お願いだから捨てないで!」

「知らない!知らない!まだ産んでない!」

「良い子になるから!良い子になるから!お母さん!お母さん!」

結子は必死になって、自分とそっくりな男の子を解こうとする。離れることはない。胎盤と臍の緒で繋がっている。このままでは気が狂ってしまうと思った。メスでもノコギリでもいい、早く分離してしまわなければ大変なことになる。

まだ母親になんてなれない。自我のないうちに、こんなことになる前に堕してやらなければ!

そう思った瞬間だった。それまで絶叫していた男の子が不意に静かになる。呆気ないほど指が解けた。

結子は後ずさる。男の子は低い声でたった一言、呟いた。


「良い子になるからお母さん、堕さないでよ…」


耳を塞いで結子は蹲る。しばらくすると足音が近づいて来て、声をかけられる。

「大丈夫ですか?」

顔を上げると、さっき窓に張り付いていた看護師だった。

「…男の子は?」

「え?」

「私の隣に男の子がいませんでした?」

結子は疲れ切って呟く。

「いいえ…」

看護師が怪訝そうに辺りを見渡す。結子はお腹を押さえた。

ならば堕ろすまで。

生命の裁断は思ったよりも、残酷だった。誰かの視線を感じる。

子どもは天使のようだと、誰かが言っていた。堕ろされた子どもはどうなるのだろう。

「…大丈夫ですか?」

「はい、貧血起こしたみたいです…」

結子は立ち上がった。目に見えない十字架を背にかけられた気になる。罪悪感なんて微塵もなかったのに。

ならば堕ろすまで。ならば堕ろすまで。

結子は看護師に付き添われて病院をくぐった。

落ち着きを取り戻した視界の中でふと思う。


あれは堕天使だった。

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堕天使 三津凛 @mitsurin12

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