埃まみれの紫苑

いけだまどか

第1話

 時は寛政六年。天下泰平の世の中であった。

 「嫌でございます」

 父に広間に呼び出されたおりんは父の眼を真っすぐ見つめながら、きっぱりと言い出した。

 お凛の父、相川礼三郎あいかわれいさぶろうの年は五十を越えている。妻は体が弱く、三十代半ばまで、二人は子宝に恵まれなかった。そのため、礼三郎はようやく授かったお凛を、それこそ掌中の珠のようにかわいがってきた。五年前に妻を亡くして以来、礼三郎は更に全ての心血を注いでお凛を育ててきた。

 「何故そう頑なに嫌がる。智之進とものしん様の人となりは、お前も知っておろう。あんな美男子はなかなかおらんぞ」

 「もちろん存じております。しかし、それでも嫌です」

 そして少し前に、礼三郎のところに、お凛のいい縁談話が持ちかけられてきた。

 相手は江戸城の大番頭、松澤正兵衛まつざわしょうべえの次男。名を智之進とものしんという。凛々しい風貌にその義理堅さのおかげで、ここ日本橋界隈では多くの人望を集めている。父の七光りだ、などという声もちらほら聞こえるが、それだけではないと、この界隈で住む人なら誰もが知っている。

 しかしそんな智之進は、まるでお凛の眼中になかった。

 「大番頭の松澤様がここまで目をかけてくれているのだ。なかなかない話じゃぞ。家のために行けとは言わん。ただお前が良縁に恵まれて、幸せになるのをこの目で見るのはわしの、そしてお前の母のせめてもの願いじゃ」

 「家のために行けというのなら行きます。違うのなら、嫌でございます」

 礼三郎が長い溜息をついた。この縁談話を礼三郎が持ち出したのはこれで四度目だ。大番頭の息子が相手など、身に余りすぎた話だ。だがお凛がなかなかその話を飲み込んでくれない。

 お凛がこの話に頷いてくれない、もとい、松澤智之進のことに興味関心すら示さないのは、彼女がその辺の町娘より腹が据わっているからだけではないと、礼三郎は知っている。

 もしかすると、最初から家のために嫁いでくれとお凛を黙らせることができたのなら、こんな面倒事になることもないかもしれない。庭に一面咲いている紫色の花を遠目で眺めながら、礼三郎はこっそり心の中で後悔していた。

 

 紅職人の橋本定八はしものじょうはちは朝起きて、長屋から出ると、玄関の隣に紫苑の花が一本転げ落ちていたのに気づいた。

 その花を拾い上げて、定八の顔に満面の笑みが浮かび上がった。

 今夜もお凛に会える。そう思うだけで胸の鼓動が止まらない。

 旗本の娘、お凛と出会ったのは昨年の春のことだった。自分の作品が置かれている問屋で、紅を買いに来たお凛とばったり会ったのであった。お凛の端正な顔立ちと落ち着いた口調、そして何よりも武家の出と思しき態度に、定八はすっかり惹きつかれた。

 例の紅屋に足を運ぶたび、お凛は定八が手掛けた紅に魅せられ、やがてそれを仕上げた定八本人に心を寄せるようになった。

 定八は智之進に負けないくらい、朗らかな性格の持ち主だ。智之進より、器用な手先と腰の低さを持つ定八はお凛にとってよほど魅力的であった。

 今より半年前、お凛と定八の二人は定八の作業場の近くで再び出会ったのだった。茜色の夕日に染まった、お凛の可愛げな笑みが定八の記憶に深く焼き付いた。

 それ以来、二人はこうして一本の花を合図に、密会を重ねるようになった。半年前は木蓮、三か月前は桔梗、そして肌寒くなったこの時期は紫苑。四季折々の花に込められるお凛の想いに、定八は心を動かされていた。

 しかし近頃、そんな定八にも気がかりなことが一つあった。

 相川家のお凛にいい縁談話が持ちかけられてきたという噂は、定八の耳にも入った。

 相手は大番頭の息子。町職人ごときの自分が一生をかけても手が届かない天辺に居座る男。それにお凛は武家の娘。町職人の定八より、いずれ父の跡を継ぎ、世間を見下ろす座に就く松澤智之進の方がお凛に似つかわしいのは言うまでもない。

 だからと言って、そう易々とお凛を手放す定八でもない。

 二つの相反する思いが胸に燻りながら、定八は作業場へ走り出した。

 

 夕日が暮れ、六つの刻になると、お凛は人の目を忍んで、江戸の離れ、柳島村の川沿いへと来た。そこに他所では見かけないような高さの榎が一本ぽつんと生えており、お凛はいつもそこで定八と逢瀬を愉しんでいた。

 父との話が長引いてしまい、お凛は慌てて約束の場所へ駆けつけてきた。頬の汗を拭くと、背後から男性の声がした。

 「女子一人がこんな辺鄙な場所でうろうろしていい時間ではありませぬぞ」

 予想外の来客に、お凛の身体がびくんと跳ね上がった。目線を集中させると、その人が松澤智之進だと認識した。

 「あら、ま、松澤様!これは、お見苦しいところを、申し訳ございません。その、お凛と申します、相川の…」

 「知っておる。それから、智之進でよい」

 「そう、なのでございますね。智之進様は、何故こんな場所に?」

 「町でお前を見かけたのだ。これから自分の女房となる人を知る良い機会だと思ってな。しかしお前こそこんなところで何をしておる。もしや、私とは別の、意中の相手をお待ちかな?」

 図星を突かれたお凛は目を泳がせ、震え出した手を胸元に当てた。そんなお凛の反応を目にし、智之進は足を寄せ、お凛をじわじわと追い詰めた。

 お凛は息を整える余裕もなく、武家の女の冷静さが跡形もなく消えていった。

 「何をしておる!」

 ふと遠くから、定八の一喝が聞こえた。その声を耳にし、安堵した顔になったお凛は智之進を振り解こうとしたが、腕を智之進にしっかりと掴められ、身動きが取れなかった。

 「お公家様こそ、こんな場所は相応しくありませぬぞ」

 定八の言葉に、智之進は挑発した目で見返した。

 「口の利き方に注意なされ。この人は私の妻になる人だぞ。姦通の罪で町職人の貴様を糾弾しないだけ、ありがたく思え」

 「しかしその話は、お凛殿はまだ頷いておりませぬ!」

 「お凛が頷こうが頷くまいが、どうでも良いのだ。私もお凛も、そしてもちろん貴様も、この縁談話に口出す権利はないからな」

 「おのれ…!」

 怒りと悔しさで腹いっぱいになった定八は背中から護身用の脇差しを取り出し、智之進に向かって構えた。

 「定八殿、挑発に乗ってはなりません!」

 武士の間の私闘は許されざる行為だ。ましてや定八は武士ですらない。

 しかしお凛の訴える声は定八に届かなかった。どっしりと構えた定八は鋭い眼差しでお凛の隣の智之進を見据えた。

 智之進の態度は依然として変わらない。軽佻な眼差しと僅かに歪んだ口元が、いっそう定八の嫉妬と闘争心を煽り立てた。

 「これは面白い。では、この身の程知らずを成敗させてもらおう」

 お凛の腕を無造作に振り離し、智之進は腰に刺さっている刀に手をかけた。

 

 流人を乗せた船はゆるりと八丈島へ向かって出航した。その船影が次第に小さくなり、やがて水平線の向こう側に消えてなくなるまで、礼三郎はそれに注視していた。

 大きなため息をついて、足を引き返した。

 明日はお凛の月命日だ。お凛の墓参りのついでに、亡き妻の墓も一緒に掃除しておこうと、早く帰って仕度をせねばと思った。

 まさに生き地獄のような一か月であった。妻を亡くした時と同じ気持ちをこうして再び味わうことになるとは、夢にも思わなかった。

 一か月前の夜。用人が汗みどろで柳島村で起きたことを報せに来た。

 用人の言葉通りに、江戸の離れにある柳島村に大慌てで駆けつけてくると、目の前の光景に、礼三郎はその場で膝をついた。

 娘のお凛は仰向けに血だまりの中に倒れて、とっくに息が途絶えていた。胸には血まみれの脇差が一本、どっさり刺さっていた。その隣に、松澤智之進は腹を切り、自決したようだ。

 その場の唯一の生者に、礼三郎は見覚えがあった。その人こそ、お凛が縁談話を拒み続けた理由であった。

 それから間もなくして役人が押しかけてきて、まるきり放心状態の橋本定八を捕らえていった。

 定八の供述を、その後礼三郎は旧識から聞いた。

 定八は脇差を持って智之進に飛びかかり、智之進も迎撃しようとして刀を抜いた。その瞬間、お凛が智之進を庇うように、二人の間に飛び入ったらしい。

 智之進へと向かった剣先はお凛の胸元に刺さり、定八を切ろうとした刃はお凛の背中に大きな爪痕を残した。

 本来、定八は死罪に処されるべきであった。しかし、過失致死であった点、また智之進の挑発による犯行であった点を考慮して、最後は遠島に処すと決定された。

 帰り道で、礼三郎はお凛が生前通っていた紅屋の前を通った。中を覗いてみると、すっかり生気がなくなったように感じた。そして普段血のように見えた紅も、今日だけはその色が褪せ、暗澹な色合いとなった。

 若い者は皆、死に急ぐ。そして自分が更に彼らを後押ししてしまったように感じる。

 我が家に戻り、庭に盛んに咲き誇る紫苑を見渡し、礼三郎は静かに亡き妻と娘への想いを馳せていた。

 その花は、今遠い島への船に乗せられている定八が、そして運命の夜に定八がしっかりと手に握りしめた花と同じ色をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

埃まみれの紫苑 いけだまどか @madokarakuen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ