終章 二人の家路

 空は蒼く、遠く、どこまでも果てなく、すこんと何処かに抜けていた。放り投げた白い石のように、欠けた月だけが木立の上の方に引っ掛かっている。

 留子ルシの郷から見おろした緑の草原は、フィンの目の前の草原をなだらかに下って、綺麗に揃った森の縁ですっぱりと途切れていた。樹々との間際には、細い土色の小径が森の輪郭をなぞるように延びている。

 フィンはひとり丘の上にぽつんと一本だけ立った大きな樹の木陰に座り込み、ぼんやりとその小径を眺めている。左手首に着けた黒い帯を無意識に撫でながら、焦がれたり拗ねたり呆れたり、物思いにくるくると表情を変えていた。

 草原の端に連なる一本道は、ここから山を二つ越え、海側の街道まで続いている。居留地の高台から郷に入るならこの路を通るのが近道なのだ。三つきほど前のフィンのように、守り人のいない山を抜けて来ない限りは。


 御山の出来事から間を置かず、フィンは留子ルシの郷に帰って来た。半ば強引に連れ戻された形だ。分化の直前に逃げ出したフィンは、身体を整え、樹蟲衆エルフ大人の在り方を学ぶ必要があった。

 フィンはティーアに教えてもらうだけでも十分だと主張したのだが、そのティーア自身やアタランテまでもが郷で学ぶべきだとフィンを諭した。

 かくして、それから幾月もが経っている。

 エウリスたちを捕らえたあの戦い後、御山では幾つかの騒動があった。

 ベダはもとより、頭だけのエウリス、生きているのか死んでいるのかも分からないヴァレイを無力化したまではよかったが、ガリオンが居留地から連れて来た戦力が余計な混乱を招いてしまったのだ。

 それは人より何倍も大きな三体の平土鬼トロルだ。そいつらは人目も憚らず街道を走破し、里を駆け抜け、薬師のための山道も手入れの行き届いた山門も悉く踏み壊しながら御山にやって来た。

 人のように器用に動く留子ルシ平土鬼トロルは、審神者の裁定でも皆を震え上がらせた最強の兵士だった。

 とはいえ、ガリオンが辿り着いた時には事態も既に終息していた。皆も祠の収拾に必死で留子ルシに使いを出すのを忘れていたのだから目も当てられない。

 結局、派手にやって来た平土鬼トロルたちは自分たちの壊したものの後片付けに終始することになってしまった。

 気の毒なのはガリオンで、御山に駆け付けたとたんゼノと一緒に居留地に取って返すことになった。捕らえた三人を連れ帰るためだ。当然それがゼノの役目なのだが、ここに至ってフィンはティーアに同行を阻止されてしまったという訳だ。

 死んだように動かない、あるいは動きようのないエウリスとヴァレイは今度こそ荷物として荷車で運ばれることになった。さすがのゼノも相乗りは嫌だったらしく、乗るのは諦めてベダと歩いて帰ることにしたようだ。

 あれから終始項垂れていたベダも、ゼノのあまりの能天気さに時おり苦笑いを見せるくらいにはなっていた。何より真摯に謝罪しつつも、いつか遠い世界の話をしたいなどと浮ついたことを言ってメティスを狼狽させたほどだ。

 ゼノによればそれが本来のベダの性分なのだそうだが、その点ゼノはフィンに何もなかった。

 もちろん関係は途切れていない。何よりアタランテがそのままフィンの中に留まっている。フィンの左手の黒革の帯はアタランテに必要だからとゼノがくれたものだ。ティーアは郷への帰還を一時的なものだと約束したし、万一そうでなかったとしても、今さらフィンを留め置ける者はいなかった。

 問題は何よりゼノの態度だ。別れ際、まるでまた明日とでも言うように手を振っただけで、そのまま歩いて行ってしまったのだ。

 ちなみに平土鬼トロルの騒動もあって、ゼノの左腕が何ごともなかったようにくっ付いたのは比較的些細な部類の出来事だった。

 フィンの留子郷ルシへの行程にはティーアはもちろんエネピアたちも付き添った。気遣いは有難いが、どうやら逃げ出すかも知れないと危惧したに違いない。

 少々心外だが、企んだのは事実だ。

 御山と留子郷ルシの間に路はないが、実際は海側を回るより遥かに距離は近い。留子郷ルシは霊山八峰の南の麓にあり、いわば目と鼻の先だ。守護職と一緒なら堂々と山を越えて行くこともできた。

 エネピアたちには鎮守の様子を見がてらの山歩きだった。途中、主さまは知った匂いに自ら顔を見せたが、一行がゼノの約束した土産を持っていないと知るや早々に姿を消してしまった。

 それもあってかエネピアはゼノに腹を立て、あまりに会いに来るのが遅いようならこちらから居留地に押し掛けようとフィンに持ち掛けた。

 もっともフィンにしてみれば、そんな理由も不要だった。機会があればいつでもエネピアと一緒に居留地に行く。噂の審神者の第一夫人に興味があったからだ。

 エネピアとそんな約束をして、同行してくれたキアスティとベンティーネにも礼を言い、自分もいつかあんな身体になれるのかな、と今の自分を眺めて少し悶々としながら、フィンは郷の手前で黒顎郷クラギの守護職たちを見送った。


 フィンの帰還の当初、留子ルシの郷は大騒ぎになった。成長したフィンを見てすぐさまフィンの夫を募ろうという話になったし、今度こそそのまま郷に閉じ込められそうにもなった。

 だがそれもティーアの話を聞き、メティスの書状を読むまでのことだ。郷の大人たちは掌を返してフィンに旅立ちの自由を保証した。

 理由は容易に想像できた。外の世界で様々な繋がりを得たフィンが遥かに扱い難い存在になっていたせいだ。もはやこのまま郷に留めるのも危うく、御山や居留地との余計な軋轢を恐れてさっさと追い出そうさえしていた。

 腹が立たないといえば嘘になる。だがフィンにはそれを見返す余裕もあった。

 今となってはフィンは郷の誰より広い世界を知っている。この世界よりずっと広く、信じられないほどたくさんの世界があることも知っていた。

 何より、一緒に行こうと言ってくれた人がいる。

 当人はフィンに不安を残したまま、未だ居留地の向こうに行ったきりだけれど。

 居留地に戻ったゼノが何処にいるのかは分からない。本来がミドルアースこの世界ではなく、人類版図ガラクティクスにいた人だ。

 もしも足止めされているとしたら、それは帝国アウター という人類版図ガラクティクスにさえ秘匿された世界の問題か、あるいはミドルアースこの世界の住人の、ことにフィンに関わる異種接触憲章についての問題のせいか。

 いずれフィンには手の届かない複雑な障害があるのだろう。

〈どうでしょうね、案外あの人のことですから鎮守の手土産を捜すのに手こずっているだけかも知れませんよ?〉

 アタランテは笑ってそう言うが、それならそれでゼノに腹が立つ。ゼノはあんな山犬よりフィンを優先すべきなのだ。今はまだこうして普通でいられるが、あれからずっとそわそわが止まない。

 フィンの髪を擽る無精髭や、解れた前髪に覗く真っ黒な瞳を思い出すたび胸の中が空になってしまうくらい息が逃げていく。フィンの抱えたこの悶々とした思いは、ゼノに会わないことには解消されそうにない。

 しかもティーアもアタランテも、そんなフィンにただ重症だとだけしか言ってくれず、それが何なのか、どうすればよいのかさえ説明してくれなかった。


〈そろそろ行かないとまたティーアに叱られますよ?〉

「うん」

 アタランテに生返事で草原を眺めた。

 留子郷ルシに帰ってきて以来、フィンは手習いや作法、先の暮らしに必要なあれこれの勉強に飽きると、この樹の下に来るようになった。見晴らしの良い丘の上から郷に続く小径を眺めるのがフィンの日課だ。

 勉強が楽しくない訳ではない。ティーアもフィンの面倒をよく見てくれいる。ティーアはフィンが郷を抜け出したことについては庇ってくれなかったが、フィンを郷に留めようとする意見には頑として異を唱えた。

 フィンはティーアでなければ教えてくれなかったこと、ティーアだから教えられることを沢山学んでいる。楽しくて嬉しくて、何だか少し擽ったかったが、それには何の不満もなかった。本来がターヴに弟子入りしようと郷を抜け出したのだから。

 気がつくとフィンはまた無意識に左手首の腕環を触っていた。

 ゼノに貰ったそれはカーボネイトのモノリングだ。分子サイズの俯瞰次元端子が織り込まれていて、フィンの中のアタランテはそれを介して人類版図ガラクティクス汎銀河ネットワークストリームとリンクしている。

 そうした言葉のほとんどを、フィンはまだちゃんと理解できていない。ゼノの抱えている謎も、今のフィンには想像さえ及ばない。

 知りたい。もっと教えて欲しい。

 ゼノが帰るのはいつだろう。帰るという言葉さえフィンの身勝手だろうか。考えるほど不安で苦しくなる。フィンが縋るのは小さな約束だけだ。

〈フィン〉

 アタランテがフィンを急かした。

「うん、行くよ」

 それでも、とフィンはつんと口を尖らせる。フィンがこうなってしまったのはゼノにも責任がある。せめてそれを分からせなければ、フィンの気が済まない。

「そういえば、ぼくが変わったことゼノにちゃんと言ってない」

 ふと思い出してフィンは呟いた。

 あのときは恥ずかしくて最後まで言えなかった。フィンクをフィンに呼び替えたことさえ有耶無耶にしたままだ。

〈その格好を見れば分かりますよ〉

 フィンは自分を見おろした。着るように言われた成人の衣装は足許がふわふわしてまだ慣れなかった。かといってエネピアのように脚を出すのもまだ恥ずかしい。

「ゼノだよ?」

 フィンに憮然とそう言われ、アタランテも少し考え込んでしまった。きっとあの人のことだから、高台衆ハイランダーに因んだ民族衣装だなどと言い出しかねませんね。アタランテもそう思い直したに違いない。

〈分からなかったら、殴ってやりなさい〉

 フィンは笑って頷いた。立ち上がり、スカートから草を払う。ゼノが留子ルシの郷に来たら最初に何て言おう。そんなことを考えながら歩き出した。

 そうだ、いっそエネピアが言ったようにこっちから会いに行こうか。自分から押し掛けた癖にお帰りなさいなんて言ったら、ゼノはどんな顔をするだろう。困って頭を掻くだろうか。それともただいまって応えるだろうか。

 フィンの耳先は物思いに弾んだ。とにかくぼくから先にそう言おう。そうしたらきっと、もう少し大人になれるような気がする。


 *****


 その丘の麓の小道の端に、二つの影がありました。

 その高い方の人影は、陽射しに手を翳して立ち止まり、草原の上の樹を見上げました。前にどこかで見た景色に似ていたのか、ぼんやりと考えて少し笑います。先導する小さな人影は振り返って急かしました。予定を押せば、きっとまた彼の連れ合いは怒るでしょう。彼女が彼でいたときはあれほど理知的だったのに、一緒になったとたん手に負えなくなってしまったのです。今では完全に尻に敷かれていました。背の高い人影はのほほんと笑っていますが、彼にはわかるのです。おまえだってどうせすぐそうなるんだからなと、小さな人影はそっと耳先を振って見せました。

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王の前庭 marvin @marvin

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