第八章 伝説の勇者

 辺りを覆う塵埃が断崖の風に掻き回され少しずつ薄くなってく。黒い土煙の隙間の空には、まだ天中に陽があった。既に大きな土砂の音は止んでいたが、黒い半纏の岩焔衆ドワーフらは相変わらず走り回っていて、御山の職人にあれこれと指示を出している。

 フィンとエネピアが必死に駆け抜けた通廊は、砂礫の下に潰れて跡形もなかった。本道ともども隙間なく埋めるよう発破を仕掛けたため、鉈を打ち込んだように帯状に陥没している。丘の形も変わってしまっていた。

 あのときヴァレイらしきものが通廊でフィンを捕らえようとした。黒く長い髭がうじゃうじゃと生え伸びた樽のような代物だったが、あれは確かにヴァレイだった。

 だが人の姿をかなぐり捨てたヴァレイがそのまま二人を追って来ていたとしても、恐らく今頃は岩の下敷きだろう。今回の計画を立てるにあたって生半可な猶予は考えなかった。そんな余裕は微塵もなかったからだ。

 こうして祠の口を埋め尽くした今もティーアは御山の衛士に警戒を指示している。メティスも古井戸が比較的近い本道を確かめに行った。

 フィンとエネピアはメティスに付いて発破で形を変えた岩場をぐるりと下手に大回りし、まだ土埃の煙る崖の方に回り込んだ。

 断崖の広間を見渡せば、一面が崩れた黒い岩山の斜面になっていた。崩れて沈んだ大岩の中ほどはまだ色合いが変わったままだ。岩焔衆ドワーフに次いで赤い光のよく見える壌血衆ゴブリンのエネピアも、少し眩しげに顔を顰めた。

 古井戸に続く本道は奥に生け捕りのための空洞を残して入り口を塞いでいる。むしろ生死問わずを実行するための発破の量が足りなかったせいだ。用意した量を使い尽くしても埋めるに至らなかった。

 とはいえ、外に続く道筋を念入りに潰すにはこれでも十分すぎるほどだ。少々やりすぎの感さえある。

 こちら側の発破の痕も岩焔衆ドワーフらが調べて回っていた。崩落した中の状態を確かめているのだろう。岩焔衆ドワーフはそのごつい体格に似合わず手先が器用で感覚も鋭敏だ。治山職の達人ともなれば、音や指先の感覚で岩の裏側まで頭の中に描くことができるらしい。

 斜面の中ほどには御山の職人も含めそうした数人が寄り合っていた。

 フィンたちを先導したメティスは周囲を警戒する衛士に声を掛けている。ふと傍にいるエネピアが鼻根に皺を寄せて斜面を睨んだ。

 フィンがその目線を追うと、斜面の職人らが跳ぶようにその場を離れるところだった。警告の声を上げながら黒い半纏が一斉に岩場を駆け下りて来る。

 何か固いものがきりきりと押し合うような音がしたかと思うと、岩山の一部が赤く煮え、唐突に大きく爆ぜ飛んだ。

 幾つもの赤い石片が宙高く煙の尾を引いて頭上を横切り、ばらばらと辺り構わず降り注いだ。一拍遅れた破裂音を聞きながら皆は放物線の先を睨んで逃げ惑った。フィンたちも頭を庇いながら立ち位置を探している。生木の焦げる音と匂いが一面に拡がっていた。

 赤熱した岩の軌跡は風に混ぜ消されず、暫くそのままの形で爪痕のように空に残っている。何処からかまた警戒の叫び声がした。指しているのは爆ぜた岩場だ。崩れた大岩の中ほどに熱気に煙る穴が口を開けていた。

 発破の残りが破裂したのだろうか。誰かの問いに治山職の岩焔衆ドワーフが否と声を張り上げ、衛士を出すようメティスに叫んだ。

 フィンが斜面を振り返ると、焦げた穴の縁から幾筋もの黒く長い髭が生え伸びている。あれは通廊で見た髭だ。隣のエネピアが総毛立つのが分かった。

「ヴァレイって何なの」

 思わずフィンがアタランテに訊ねる。

〈無理のある変装は止めたようですね〉

「あんなのどう見ても岩焔衆ドワーフじゃないだろ」

 エネピアがニアベルの問いを聞いて蠢く黒い髭を威嚇するような唸り声を上げた。髭は周囲の岩を弾き落とし、拡げた穴から器用に身体を持ち上げた。

 それは硬い革で覆われた円筒だ。縦目の入った身体に留め金のような黒い輪が幾重も巻かれ、その天辺に黒い髭がわさわさと揺れている。

〈あれなら最初から樽の振りをすればよかったのに〉

 アタランテが呆れたような感情をフィンに送って寄越した。

「槍兵隊、包囲 」

 ティーアが号令を掛けるや鉄槍を掲げた衛士が斜面の下に駆け寄った。ヴァレイはフィンのほぼ正面、少し見上げる高さのところにいる。隊列はフィンの鼻先を走って行った。

 エネピアが鼻先を巡らせた。そこにはキアスティとベンティーネ、黒顎クラギの男衆の姿が見える。

「あたしも行って来る」

 エネピアがフィンに声を掛けて駈け出した。ヴァレイが祠の外に出てしまった以上、どうにかしてあれを捕縛せねばならない。

〈かなり弱っているようですが、あれの生体光学兵器は低出力でも致命的です。眼が露出したら視線上に出ないように〉

 エネピアの背中に向かってフィンはアタランテの言葉を丸めて投げた。

「眼が出たら危ないって」

「眼が出るって何だよ」

 エネピアが耳を怪訝に振りながら走って行く。確かにそうだ。フィンにもよく分からない。目の前では警護隊の槍先がヴァレイを取り囲み、ゆっくりと輪を狭めていた。ヴァレイの髭が威嚇するような風音を鳴らしている。

 メティスがフィンの傍に来て岩場から離れているようにと警告した。フィンは辺りを見渡し状況を探った。ティーアは森の縁で別の隊を搔き集めているようだ。 メティスに言われ、フィンは申し訳程度に後退った。アタランテが声を掛ける。

〈フィン、そこの石を拾って〉

 問い返すのを後にしてフィンが言われるまま足下の石を手に取った。指が勝手に動いて握り締める。手の中で転がしながら重さや形を確かめている。

「何なの?」

〈フィンの腕が壊れるので、一度だけ〉

「壊れるって何?」

 訳が分からず悲鳴のようにアタランテに問い返した。

〈合図したら皆に警告してください〉

 御山の衛士たちは髭の先がどこまで届くのかを探りながら少しずつヴァレイに近づいて行く。ひときわ高い風音がしたかと思うと、誰かが警告の声を上げた。巻き取られた槍が二本、三本と宙に舞う。

 ヴァレイの身体にある縦目の筋がぱっくりと開いた。隙間に大小の黒い硝子玉のようなものが並んでいる。あれがアタランテの言う眼だろうか。

〈今です『伏せて』〉

 考える間もなくアタランテがフィンに合図を寄越した。

「伏せて」

 咄嗟にフィンは大声で叫んだ。

 メティスや警護隊の皆が従ったのはほとんど反射的なものだ。

 フィンの腕が勝手に動いた。腕に引かれるように身体が捩じれ、フィンはそのまま地面に倒れ込んだ。フィンの手の中にあった石はヴァレイの目に向かって真っ直ぐに飛び、黒い硝子玉を弾いてヴァレイを仰け反らせた。

 宙を舞う土埃に何かが閃いた。

 ヴァレイの眼の先にあった槍先が真っ白に光って欠け落ち、さらにその線上のずっと先にある森の樹が閃きの軌跡に沿って真っ直ぐ裂けて火を吹いた。

 気付けば辺りに金属質の臭気が漂っている。それはゼノの腕が落ちたときの臭いだ。メティスにとっては社の裏の樹に穴を開けられたときの臭いでもある。ヴァレイのその眼が原因だったのだ。

「弓兵隊、構え」

 すぐさま状況を読み取ったティーアが別働隊を動かした。そこにいる皆が互いの耳先を一瞥し、為すべきことを共有していた。

〈ランプレイト人の触腕は強靭ですが繊細です。この世界の鉄器であれば何とか斬れるでしょう〉

「髭は頑張れば斬れる」

〈あの眼は危険ですが周辺は脆弱で身体の奥まで槍が届きます。そうすれば一時的に停止します〉

「眼の周りを突けば止まる」

 フィンはとにかく大声で叫んだ。そこに疑問が生じても、フィンの耳が示す確信は一斉に皆に伝播した。

〈ランプレイト人が回復する前にテオチュチュ人と隔離できれば、あれはもう敵対しません〉

 エネピアたちがヴァレイの懐に飛び込んだ。

 エネピアは黒顎クラギの男衆に指示を出しながら斜面を駆け登り、槍兵の間を縫って周囲の髭を引き付ける。

 ヴァレイの正面に対峙したのはキアスティとベンティーネだ。二人は互いに目と手を補い、周囲の全てが見えているかように幾本もの黒い髭を翻弄した。避けて、躱して、手にした鉈で打ち返す。

 ベンティーネの鉈に髭が巻き付いた。絡め取られた得物を惜しげもなく投げ捨て、ベンティーネは身を捻って背中のキアスティと体を入れ替えた。キアスティが鉈ごと髭を打つや、その髭は捩じれて斬れ跳んだ。

 ヴァレイの体表が縦目に割れてキアスティとベンティーネを正面に捉えようとする。だが、そこには誰もいなかった。黒い硝子玉は左右に身を躱した二人を同時に追い切れない。

 ティーアの指示に、すかさず矢が射掛けられた。その矢の波が途絶えるや槍兵が得物の先を突き入れた。

 ヴァレイが身悶え、振り払おうとする。その足許に滑り込んだエネピアが鉈で足元を薙いだ。思いのほかの硬さに顔を顰めるも、樽は斜面を転がり落ちた。

 斜面の下にいたフィンはメティスに押されるようにヴァレイから身を躱した。

 転がり落ちるヴァレイを待ち構えていた黒顎クラギの男衆が縄を投じ、身悶える触手を一斉に絡め捕っていく。喘ぐように開いた縦目の筋に、駆け寄ったメティスが自身で止めの槍先を突き入れた。

 フィンはヴァレイの断末魔を斜面の上から見おろしていた。身を躱すと同時に駆け登ったのだ。間近にはヴァレイの這い出した穴が口を開けている。

 エウリスを外に出してはならない。ヴァレイと引き離しておく必要があった。だがフィンはヴァレイの端末間に気を取られ、穴の奥の湿った音を聞き漏らした。

 悲鳴のようなエネピアの警告が伸し掛かる影の下のフィンに届いた。


 エウリスはもはや樹蟲衆エルフを装うことすらかなぐり捨てた。自身は人の指ほど無数の群体だが、活動用の躯体は人よりも遥かに大きく長い。制圧用の装備こそないが、薄皮の袋でできた蛮人を恐れる必要はどこにもなかった。


 フィンの喉元に鉄鋏が食い込み、身体ごと宙に吊り上げられた。アタランテが咄嗟に喉を強化していなければ造作もなく捩じ切れていただろう。

 フィンの目の前にエウリスの頭があった。いや、恐らくは頭だろう。白い剥き玉子のように目鼻がなく、青白く濁って透けていた。フィンは映り込んだ自分の顔の奥に蠢めく灰色の塊を見た。

『蛮族め蛮族め蛮族め』

 つるりとした顔面が断続的に陥没し、聞き覚えのあるぶくぶくとした半濁音を立てた。アタランテの翻訳も儘ならない。フィンの喉を守るのに必死で手が回らないのか、もはやエウリスの発したのが高台衆ハイランダーの言葉ではなかったのかも知れない。

「フィン」

 エネピアの呼ぶ声にエウリスは吊り上げたフィンの身体を振り向けた。その意図は明白だ。近づくな、こいつがどうなってもいいのか。姿は人から掛け離れていたが、追い詰められた行為は皮肉のように人のそれに似ていた。

 フィンを吊り上げたまま、エウリスの身体がずるりと穴を這い上がる。

 白い地虫のような身体だった。肩も腕も足もなく、蟹の脚のようなものを幾本も身体に巻いている。頭の下にある鰭とも鰓ともつかない色取り取りの膜だけが異様な色彩を放っていた。

 長い身体を穴から引き上げる無数の蟹の脚、フィンの首を吊り上げる鉄の鋏は、エウリスの身体のあちこちから生え伸びている。人の大きさを超えているのは、どうやら祠の中を埋めた生白い管や袋が繋がっているからだ。

 フィンは藻掻いて暴れるが、喉元を掴んだ鋏はびくともしなかった。

『我々が支配権を得る』

 エウリスが小刻みに首を振った。変な汁が飛んで来そうな勢いにフィンは痛みも忘れて思わず身を縮めた。嵐のような耳鳴りに混じって怖気立つような嫌らしい音が間近に聞こえる。

〈フィン〉

 アタランテの声が遠い。意識が遠退き、目の前が白く濁った。エウリスの音が耳鳴りに混じり込み、ただごうごうと耳を弄する。

〈フィン!〉

 その音を割って長く尾を引く咆哮が轟いた。帯電したように空気が震え、エウリスまでもが竦むように凍り付いた。

 声にならない悲鳴の中を横切って、霞んで朧なフィンの視界を大きな影が覆い尽くした。フィンの喉を掴んだ鋏だけを残し、エウリスの身体が捻れて仰け反った。

 鋏が割れて飛び散るや、アタランテが思い切りフィンの肺に空気を送り込んだ。咽る間もない強引な呼吸にフィンの意識が輪郭を取り戻していく。なのに身体はまだ宙に浮いていた。

 空と森の間をぐるりとフィンの視線が泳ぐ。遠くにエネピアたちの血の気の引いた顔が通り過ぎる。みな言葉を失って、食い入るようにフィンを見つめていた。フィンとフィンを抱える灰色の獣を。

 フィンの身体がふわふわとした獣毛に沈んだ。柔毛の中で揺れるフィンを、つと伸びた腕がしっかりと掴まえた。

『支配権を――』

『しつこいぞ、帝国人アウター

 呆れたように叱咤する声がした。

 フィンを包む柔毛が波のように引いて、腰を抱える人の腕が残った。フィンの足は軽く地に着いていたが、その感覚は夢の中のように覚束なかった。頭の中が真っ白になり、フィンはただ焦がれたその匂いに無意識に縋り付いた。

『あれ? 君、こんなに柔らかかったかな』

 フィンはおそるおそる顔を上げ、少し濃くなった無精髭を見上げた。まるでついさっきまで一緒にいたかのように惚けた黒い目は、きょとんとフィンを見おろしている。

 茫然とするうち、分かれた柔毛はひと塊になってフィンを庇うように身を起こした。仔牛ほどもある山犬だ。尾だけでフィンの身体ほどもあった。

『とうだな、とりあえずあれを片付けよう』

 山犬は声に応じて深い銀色の耳を立てると、目で追えないほどの速さでエウリスに飛び掛かった。容赦なく岩場に引き摺り倒し、脚を鰓を噛み千切り、みるみる毟って丸裸にする。その間、泡のような悲鳴が延々と続いた。

 言葉を超えて分かるほどの降参と謝罪の繰り返しに、ようやく山犬は攻撃を止めた。気付けばエウリスは虫の蠢く生白い頭しか残っていなかった。山犬はエウリスに鼻面に皺を寄せると鼻面を顰めてくしゃみをした。

 山犬は何事もなかったかのようにフィンの足許に取って返すと、その場で満足げに蹲った。

『まいったな、何でこんなことになってるんだろう』

 フィンの頭の上で、途方にくれたような声がそう呟いた。アタランテさえ翻訳し忘れた言葉は恐らく高台衆ハイランダーのそれで、声も姿も間違えようもなくゼノのそれだった。

 見上げて開いたフィンの口からは声が出なかった。エウリスに潰された喉はアタランテが修復の真っ最中で、ただ鼻の奥できゅうと音が鳴るだけだった。

 ゼノは抱えたフィンを見おろして、少し困った顔をした。

「アタランテがいないから、言葉が分からないか」

 分かる。聞こえている。ようやくアタランテの翻訳が追い付いたのに言葉がまだ出ない。もどかし気に喘ぐも、フィンも言葉を紡げるほど冷静ではいられなかった。ただ、こうした訳の分からない再会にも拘わらず、ゼノがのほほんと落ち着いていられることにだんだん腹が立ってきた。

 そんな気も知らず、ゼノは岩の上に転がったエウリスの頭に目を遣った。

「君たちは喋れるかい? テオチュチュ」

 まるで道を訊ねるように話し掛ける。いま何があったか、何をしたかなどまるで気にしている様子がなかった。

「おまえは死んだ」

 転がった頭から、小さく泡の弾けるような音が返ってきた。

「僕が何であれくらいで死ぬと思ったんだ」

 エウリスの表情は皆目分からないが、どこかぽかんとして見えた。とはいえ、ゼノのその理不尽な言い草にはフィンも呆気に取られていた。むしろ身体が二つに裂けて崖から落ちたのに、こうして仔牛みたいな犬を連れて現れる方がどうかしている。

 無事ならどうしてもっと早く来ない。どれだけ泣いたと思っているのだ。

「まあいいや」

 全然、よくない。

「それで君、何が分かった?」

 ゼノの問いにエウリスはいじけたような沈黙を挿むと、湿った音を鳴らした。

「我々は放置種の起源を知った」

 ゼノが肩を竦めて遮る。

「放置なんかしていない。この子たちは自立種だ。そういっただろう。それでも君たちが交渉したいなら、相手は僕だ。君たちの――』

 不意にゼノ言葉が分からなくなった。言葉はまだ続いているがアタランテが訳すのを止めてしまったのだ。

〈アタランテ?〉

 その答えが返る前にエウリスが変化した。薄っすらと透けていた頭が真っ白になり、ただぷつぷつと泡の音を鳴らすだけの塊になってしまった。

「勝手に引き籠るなテオチュチュ。そんなの持って帰るなんて御免だからな」

 ゼノは大仰に息を吐くと、顔を顰めて容赦なくエウリスに言った。


 確かに、なすべきことはまだ山ほど残っていた。発破の後の岩場の始末や怪我人の手当てはもちろん、森の中では今も火災を警戒して焼けた石片を探している。

 それでも当面の脅威は去った。皆も無意識にそう確信していた。

 一方で奇怪な異人と対峙した皆は、まだこの騒動の結末に呆気に取られていた。むしろ事情を知る者ほど呆然としている。原因はもちろん所在なく佇む隻腕の男と仔牛ほどの山犬だ。

 エネピアはもちろん、メティスやティーアさえ予想外の出来事に血の気を失って立ち尽くしていた。フィンもこの状況を理解しているとは言い難かった。

〈少しお話したと思いますが――〉

 アタランテがゼノの身体と生態系の話をしていたのはフィンも覚えている。だが理屈は教えて貰えなかったし、例え教えられても理解できなかっただろう。

 問おうにも責めようにもフィンの声はまだ出ない。ざわざわとした喉元の感覚で、まだアタランテが再生に手を尽くしていると分かる。

 もっとも声が出たとしてフィンがそれを言葉にできたかどうかは疑問だ。ようやく呆然自失から立ち直った耳先も、今度はまるで赤ん坊が泣くような脈絡のない感情に震えている。

 ゼノに関するフィンの感情はアタランテに抑揚を制限されていた。その手綱はけして緩くはなかったが、フィンの閾値は軽々とそれを越え、傍目にも混乱と困惑が見て取れた。

「おまえ本当にゼノなのか」

 エネピアがようやく遠巻きに声を掛けた。フィンのあからさまな耳先につられ、自身も真っ赤になっていた。

「どうして主様と一緒にいる」

 ここに至ってフィンはようやく足許の山犬がこの霊山八峰の鎮守だと思い至った。代替わりしたと思われていた主様だ。

 思えばエネピアたち山守がそう思い込んだのはゼノが崖から落ちて以来だ。森が荒れたのは恐らくゼノのせいなのだろう。生態系を従えるゼノの身体の権能は真っ先に管理者である鎮守を捉えてしまったのだ。

 自分の声を合図に竦んだ足を取り戻し、エネピアは二人の傍までやって来た。大袈裟なくらい遠回りに主さまを迂回した上に、それでもまだ少し距離を開けている。山守にとってはそれほどの存在だ。

 ただ、当の主さまは悠然と我関せずを決め込んでいる。

「ええと」

 ゼノは困ったように頭を掻いた。エネピアの言葉が分からないのだろう。ゼノの中にいたアタランテの端子はすっかり身体に食い尽くされてしまっているはずだ。

『本当に、ゼノ?』

 ようやくフィンの声が出た。エネピアはもちろんフィン自身も驚いた。アタランテが高台衆ハイランダーの言葉に置き換えてえいる。フィンには喉を痛めて自分の声が変に聞こえたときほどの違和感しかなかった。

『アタランテ、そっちにいるのか』

 ゼノはフィンが流暢に喋った理由をすぐに見抜いた。目を丸くしてフィンを間近に覗き込む。近い。その不意打ちにフィンは思わずゼノを突き飛ばした。

〈ええ、フィンはあなたより何倍も素直で居心地がいいですよ〉

 耳先が熱い。フィンを抱き留めていたゼノを手を見て今さらながら頬まで赤くなった。

『それって異種接触憲章違反じゃないか』

 右手のやり場に迷いながらゼノが口を尖らせる。

〈私は自身の生存権を行使したまでです〉

 ゼノに聞こえないと知っていながら、アタランテはそう言ってくすくすと笑った。

 まるで初めて出会ったときのようだ。恐らくきっとあのときは今と反対に、ゼノがアタランテに頼りながらおっかなびっくり話し掛けていたに違いない。

『そんなことより、何で生きてるのさ』

 耳の熱さを誤魔化すようにフィンはゼノに噛み付いた。まるで生死不明の不在などなかったようなゼノのきょとんとした顔にも腹が立ったし、アタランテの寄越す生暖かい感情も恥ずかしくて堪らなかった。

『何でと言われてもなあ』

 ゼノの黒いシャツは腰の上で大きく裂け、脇腹も臍も見えていた。だが傷痕はどこにもない。もちろん左の袖は肘から先がなかった。

『ああ、そうだ』

 ふとゼノは俯いて、蹲る主様の傍に屈み込んだ。首回りを無造作にくしゃくしゃと掻き回す。両腕を出してしまったのがぎこちないものの、少し不便な程度にしか感じていないようだ。

 そんな気軽にとエネピアたち壌血衆ゴブリンが声にならない悲鳴を上げた。メティスさえゼノを止めようと、思わずあわあわと手を振っている。

『そう言えば君、世話になったな。今度おやつを持って来よう。まっしぐらなやつがいいかな』

 主様は頷くように目を細めると、大きな伸びをひとつして身を起こした。皆が耳の先まで硬直する。主様は気にした風もなく、そのまま森を向いて走って行った。岩場の縁にいた御山の職人たちが、すぐ側を走り抜ける主様を見て慌てて飛び退いた。

 暫くぽかんとその尻尾を見送っていた皆も、ようやく我に返って動き出した。メティスが慌てて職人と衛士に指示を出す。その耳はまだ動揺が露わだった。

 ティーアは岩場を渡ってやって来るなりフィンの負傷を確かめた。傷ついた喉を始め、アタランテは既に疲労さえも払ってくれている。

 ティーアはフィンの傍らに佇むゼノを横目で睨む。

「これだからイスタルは儘ならん」

 溜息と共にそっと呟いた。高台衆ハイランダーの下で働くティーアでさえゼノの帰還は想像していなかったらしく、その耳先にも緊張感が窺えた。

「伺いたいことは山ほどあるが――」

 暫くしてメティスが気後れしたようにゼノに声を掛け、ヴァレイの開けた穴を指した。エウリスの頭がおっかなびっくり運ばれて行くその後ろで、警護士に支えられた人影が穴から這い出している。

『忘れるところだった』

 ベダの姿を見てゼノが呟いた。歩き出すゼノの破れたシャツを、フィンは無意識に掴まえた。振り返るゼノに口籠る。何故そうしたのかフィンは自分でもよく分からなかった。

『どうするの?』

『話す。怒るか慰めるかは見て決める』

 ゼノはそう言って笑った。

 フィンはシャツから手を放し、取り繕うようにメティスを振り返った。

「説得するって」

 そう翻訳して誤魔化すと、ゼノの後ろをおずおずと追いかけた。

 ベダは相変わらず俯いていたが、陽の下では少し雰囲気が違って見えた。

「耳が」

 実際、容貌が変わっていた。耳の形も顔付きも壌血衆ゴブリンの特徴を失くしている。髪は少しくすんだ金色だが、ゼノと同じ高台衆ハイランダーだ。

『フースーク』

 ゼノに気付いてベダは顔を上げた。フィンは初めてそれがゼノを呼ぶ名だと気付いた。だがもしそうだとすると、幾つも分からないことがある。

〈後にしましょう、フィン。あの人があなたにとってゼノなら、今はそれで大丈夫〉

 何だか誤魔化されている気がする。アタランテは笑った。

〈本当はあの人もそれほど好きな名前じゃないんです〉

『やっと会えたな』

 ゼノがベダに声を掛ける。ベダの小さな丸い耳も当然フィンには読み取れない。それでも表情に心細さが見て取れた。まるで迷子の子供みたいに頼りない。衛士さえ槍先を向けたものか迷うほどだ。

 そんなベダとは反対にゼノは陽気だった。残った片手を腰に当て、大仰な溜息を吐いて見せる。

『よりによってミドルアースこの世界帝国アウター を連れ込むとはね。お陰でこっちは道に迷ったりバラバラにされたり大変だった』

〈ほとんど自分のせいですけどね〉

 フィンの中でアタランテがぼやいた。

『フースーク、この世界は本物か?』

 ベダはゼノに向かって縋るような目を向ける。

『あたりまえだ』

 ゼノは憮然として言い返した。

『だけど、こんな地球そっくりの世界が存在するはずない』

 ベダは絞り出すような悲痛な声を上げたが、ゼノは平然と肩を竦めて見せただけだった。

『テオチュチュ人にちゃんと聞かなかったのか? あいつら起源を見つけたんだろう? だったらここが地球と同じなのは当たり前じゃないか』

 ゼノはさも当然のように答えた。二人の会話はよく分からないものの、フィンは何となくまた食い違っているような気がした。

〈ゼノ、彼らはそこまで話していません〉

 案の定アタランテが慌てている。残念ながらゼノには届かなかったが。

『もっとも、ここが地球とズレたのは六万年ほど前だし、仕込みはもっと前からやってる。君の信教は知らないが、神様がいるならそいつに聞いてみるといい。君たちは僕の遊園地だなんて馬鹿にするが、ここの住人はもう立派な自立種だ。誰の手を借りなくてもやっていける』

 ベダは呻くように顔を手で擦り、指の隙間から怯えたようにゼノを見上げた。

『フースーク、君は何者だ』

『今さら何をガラハッド、君こそ本物のガラハッドか?』

 ベダは虚を突かれて顔を歪めた。

『――分からない。向こうの自分とはもう別人だ。全部夢みたいなんだ』

『複数体ってのは相変わらず面倒だな』

 そう言ってゼノは顔を顰めた。

『まあ何にせよ君はもう独りだ。帰ったら処分されるだけだからな。今の君なら死ぬってことも分かるだろう。なかなか興味深い体験だぞ?』

 そこまで言って、ゼノは不意に破顔した。打ち拉がれたベダの肩を乱暴に叩いて顔を寄せる。

『ねえ君、僕とまだ友だちでいて欲しいならそう言えよ。ここに残してこき使ってやる。話し相手も用意しよう。でも時給は君の資産の無限分の一だぞ?』

 フィンには二人の話がよく分からなかったし、アタランテもあえて解説しようとはしなかった。きっと遠い何処かのややこしくて面倒な話だ。

 アタランテが翻訳を止めずに聞かせてくれたのは、いつかそれを知る機会があると思ってくれたからかも知れない。

 今はそれで十分だった。きっとベダにとってもそうだったのだろう。子供のように顔をくしゃくしゃにして泣き出すほどに、とても大切なことだったに違いない。

 もちろん、フィンには確信がない。ゼノの耳に感情が見て取れないのは未だもどかしかった。きっと高台衆ハイランダーはそうやって互いに擦れ違うことが必要なのだろう。

 なんて不便で孤独なことか。

『やれやれ、やっと片付いた。ねえフィンク、お腹が空かないか?』

 ゼノはフィンの古い名前を呼んで、困ったように頭を掻いた。もちろんそれをゼノに教える暇なんてなかったのだが、それでも見た目が変わったことくらい気付いてもよさそうなものだ。

〈この人に期待するだけ無駄ですよ〉

『ああそれと、僕の手を知らないか? 探したんだけど、何処にも見当たらなくてさ――』

 勝手に喋るゼノを睨んでフィンは口を尖らせた。どうしようもなく胸の内側に込み上げる漠然とした不安を押し隠すためだ。

 ゼノがミドルアースこの世界に来た目的は叶った。もうここに留まる理由もなくなってしまったのだ。

 ゼノは約束を覚えているだろうか。こんな自分を受け入れてくれるだろうか。フィンにはまだそれを確かめる勇気はなかった。


 *****


 ミドルアースこの世界の騒動はここで一応の決着を見ました。もちろん、まだすべてが終わった訳ではありません。壊れてしまったもの、歪んでしまった関係を作り直すのは、まだまだこれからです。

 居留地に端を発する一連の中で、変わってしまったものも沢山ありました。フィンもそのひとつです。行き場を失ったものは新しい居場所を探さねばならなくてはなりません。幸いフィンのそれは手が届くほど近くにありました。――たぶん、人にはそう見えたでしょう。でもフィンにはそれが分かりません。どれほど真剣に眺めても、ゼノの小さな丸い耳からは答えが読み解けなかったからです。

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