第七章 古井戸の魔王

 フィンはメティスに付き添われ、下生えの迫る古い小径を登っていく。古井戸の祠に続く長い階段は、横木と土が分け難く踏み固められてしまっており、まるで波打つ蛇の背のようだった。

 前に祠に来たときは森の奥をゼノに負ぶわれて登った。頬を打つ冷たい雨とゼノの熱い背中のどちらもが心地良く、朦朧としていたフィンにあるのはそんな曖昧な記憶だけだった。

 今回の策に不安はない。彼らへの怒りも潰えてはいない。ただ、あのときどうして逃げ出さず、ゼノに明かしてしまわなかったのかという後悔だけが今も胸にしこりのように残っている。

 先を行くメティスはただ前を向いていた。だが、その耳先はフィンを気遣うように揺れている。メティスに慣れた今となっては、そんな彼女の心の動きも見て取れた。

 フィンは樹々の奥に蟲を追った。あの雨の日にはなかった大勢の気配がそこかしこにある。壌血衆ゴブリンならきっと微かな火薬の匂いも嗅ぎ分けただろう。この策が上手くいかなければ祠の一体が、御山のすべてが戦場になってしまう。

 その行方はフィンに掛かっていた。


 エウリスがフィンを寄越せと言って来てから既に三日が経っていた。フィンの体調が思わしくないと接触を引き伸ばしていたものの、それも限界だった。

 稼いだ時間の大半は黒い半纏の岩焔衆ドワーフが準備に費やした。たまたま御山に呼ばれた治山職だが、計画には誰よりも乗り気で取り組んでいる。岩焔衆ドワーフの職人気質は侮れない。それぞれの種族も自身の職能については似たようなものだが。

 だが同じ岩焔衆ドワーフのガリオンは、ティーアに追い出されるように居留地に向かって旅立った。先行して審神者の助力を得るためだ。

 計画通りエウリスらをここに留めることができたとして、彼らを居留地に連れ戻すためには高台衆ハイランダーの手が必要だ。当人は未だ不在とのことだが、今はその一員であるメティスの妹らには相応の力と権限がある。

 とはいえ、エウリスらの目的も未だはっきり分からない以上、彼らの脅威もまた不明確だ。だが、彼らは森を焼いて脅迫し、ゼノを死に追い遣った。それだけをとってもミドルアースこの世界に災厄の種を蒔くのは明白だ。

 居留地の外に出た異人の存在を知る者はまだ少ない。あるいはこのまま耐えて彼らが去るのを待つ手もなくはない。だがメティスとフィンは計画の決行を押し切った。

 この状況で波風のない将来を楽観できるはずがない。ここで彼らを見逃しても結局ほかの誰かに責任を押し付けることになるだけだ。

 ただ、この策の実行にあたっては、フィンがゼノの仇討ちを図って自棄になりはしないかとの危惧が出た。フィンに自覚はなかったが、周囲には相当の不安があったようだ。こと、その件についてはティーアも最後まで渋っていた。

〈また宿主を失うのは面倒です。殺しても死なない人のことは一旦忘れなさい〉

 アタランテまでそう言ってフィンに釘を刺したが、メティスに至っては心理的に抜かりがなかった。

 発破を仕掛ける職人は元より御山の警護士が総出で祠を囲んでいる。万一フィンが先走り指示に従わないようなことがあれば、その大勢が犠牲になる。メティスはそうフィンを脅したのだ。フィンにそうした文句が効くのは耳を見れば明らかだった。

 しかも、そうと気づいたエネピアが調子に乗り、脱出路の確保と手引きを買って出た。おかげでフィンは擽ったいのと不貞腐れるのが半々だ。性格は否定のしようもないが、自分がこうも読まれ易いのかと少し僻んだ。


 小径が不意に空に抜け、二人は平らな崖の縁に出た。今も地面によく目を凝らせば、まだゼノの血の痕やフィンの掻き毟った痕が残っているかも知れない。

 左手には放置された朽ちた崖の柵、右手の先は鬱蒼とした樹々。広間を挟んだ岩壁に黒々とした横穴が見えた。岩壁はその森の奥まで連なっている。

 祠の暗がりの中に虚ろな眼をした太く短い人影があった。ヴァレイだ。ぞわぞわとした怒りがフィンの耳先を震わせる。どうやったのかは分からないが、ゼノを殺したのはあのヴァレイだ。

 並んだメティスが後ろ手にフィンの背を撫でた。それは壌血衆ゴブリンのやり方だったが、つとフィンの昂りは和らいだ。背の温かな感覚を導管にアタランテもフィンの動揺を抑えてくれた。

 フィンは軽く息を吐き、傍らのメティスに頷いて見せた。ヴァレイを威圧するようなメティスの視線を頼もしく感じながら、フィンは一人で歩き出した。余計な場所に目を向けないようフィンもヴァレイを睨んで歩く。

 祠を潜ろうとして、ふと岩壁沿いの森の奥に目を遣った。その先でゼノに縋りついて雨の夜を過ごした。あの朧げな温もりと匂いの記憶を思うと動悸で頭が変になりそうだった。出会ってまだほんの少ししか経っていないのに、フィンの心の大半をゼノが占めている。

〈あなたの記憶はまだ関連付けの途中ですが〉

 呆れたような、からかうような、アタランテは溜息混じりの感情を寄越した。

〈私に見られたくない記憶は予め申告してください。触れないようにしますから〉

 今さら遅い。それって、結局ぜんぶ見られてしまうってことじゃないか。アタランテが余計なことを言ったせいで、敵地の真ん前でフィンは真っ赤になっていた。

 照れ隠しのようにヴァレイを睨みおろして大股に横穴を潜る。フィンに蹴飛ばされる前にその小さな岩焔衆ドワーフは器用に身を躱した。


 小部屋を繋げて造られたような岩屋の通廊は、蛇行しながら奥底に下っていた。天露アマツユの水源を追って奥へ奥へと掘り進められたため、彼らのいる最後の井戸まではかなりの距離がある。

 この井戸に天露アマツユを求めて薬師が訪れていたのは三〇年ほど前だそうだ。井戸はまだ完全に枯れていないが、岩屋の老朽化の折に便の良いところに新たな井戸を設けたのだという。

 今となっては人通りを配慮しない、あるやなしやの薄明かりの中をフィンは進んだ。今さらフィンが逃げ出すとでも思っているのだろうか、ヴァレイは後ろを塞ぐように付いて歩いて来る。極端に短い脚を使って不規則な段差や斜面を器用に下りるさまは、まるで磯の船虫を見るようだった。

〈フィンの誇張かと思いましたが、確かに奇抜な形状ですね〉

 アタランテはヴァレイをそう評した。太短い異様な体形の岩焔衆ドワーフは、耳こそ大きく張り出しているものの、その感情はまったくの出鱈目だ。迂闊に耳を追えば却って混乱してしまう。

「すごく小さいって言ったじゃないか」

 まだ頭の中だけでは明確な言葉に区切れないため、フィンはできるだけ外に聞こえないよう口の中でアタランテに言い返した。

〈まだ記憶が映像として明確に共有できませんからね、証言に頼るほかないのです。そういえばあの人は何か言っていましたか? 例えば高台衆ハイランダーの言葉とはどこか響きの違う音などはありましたか?〉

 フィンは口を尖らせて額をつついた。むむむと唸る。言葉のようなものと名前のようなもの。もちろん明確に再現できる訳ではないが、フィンは憶えているものを幾つか並べて呟いた。アタランテがそのたび相槌を打つ。後ろを付いて来るヴァレイは感情のない目でその様をじっと見つめていた。

〈――フィン、少し面倒なことになりそうです〉

 暫くしてアタランテはそう呟いた。そして、それきり黙り込んでしまった。

「アタランテ、ねえアタランテってば」

 考え込むような感情はずっと流れて来るものの、アタランテは静かに唸っている。

 応えないアタランテに不安を抱きながらフィンは通廊を下って行った。後ろにいるヴァレイの気配が言い様もなく気持ち悪い。

 気づけば壁に床に長い管が伝っていた。地虫のようにぶよぶよとした生白い管だ。奥に行くほど数が増え、太くなって苔生した岩肌を這い回っている。

 入り口の付近は社にも使われる燈を掛けてあったが、この辺りになると地を這う地虫の管そのものが黄色く光って辺りを照らしていた。

 血のような鉄気とゴムを煮たような臭気が強くなる。浅く広く刻まれた階段を下りながら、フィンは小鼻に皺を寄せた。

 不意に穹窿の広間に出た。ここは広くて天井が高い。おそらく最後に使われていた井戸だ。中央に浅く掘られた水盆があり、濡れて苔生した緑の石柱があった。

 生白い管の大本もここにあるようだ。そこかしこから水盆に這い込み、絡み合って蜘蛛の巣のように拡がっている。周囲には黄味がかった白色の、妙に生物的な質感をした箱や袋が積み重なっていた。何に使う物かフィンには想像もつかない。

 フィンが正面に目を遣ると、古泉の跡を挟んでエウリスと対峙していた。

 異相の樹蟲衆エルフは広間のあちこちから白い管を手繰り寄せている。焦点の合わない虚ろな目は、フィンを見ているようで見ていなかった。思うに瞳は動くものを勝手に追い掛けているだけのような気もする。

〈困りましたね、こうなると私たちでは少々荷が重いかも知れません〉

 アタランテがようやく呟いた。

〈やはり、あれは帝国人アウターです〉

 言われてフィンは記憶を探る。

「それって高台衆ハイランダーとは別の世界の人ってこと?」

 フィンの囁き声にエウリスが見動いだように見えた。

〈そうです。あれはおそらくテオチュチュ人、後ろにいる岩焔衆ドワーフ風のは、奉仕種族のランプレイト人でしょう。テオチュチュの手下のようなものです〉

 確かにその響きはあの日の岩陰で聞いたゼノの言葉の中にあった。

 エウリスやヴァレイの見た目には確かに異様だが、あからさまに人ではない、高台衆ハイランダーでさえないと言われてフィンは動揺した。だって同じように耳がついているのに?

帝国人アウターといっても疎通圏の広域分布種ですから私にも辛うじて情報が拾えました。もっとも、それはあの人が帝国アウターに詳しいからであって、人類版図ガラクティクスの大半もまだその存在は知りませんが〉

「そんなのが何で」

 フィンは呟きながら辺りを見渡した。そんな高台衆ハイランダーさえ知らないようなものが一足飛びにミドルアースこの世界にいるのだろう。

〈テオチュチュ人は支配圏の拡大に熱心な種族です。従属種を増やすのが自分たちの地位を上げる方法だと信じていて――つまり、侵略と征服が趣味です〉

 アタランテの言葉は相当に不穏だ。ただ、伴う感情には不思議と危機感を煽るものがない。むしろ微かに自身への問い掛けが含まれているような気がした。

〈とはいえ、彼らは上位種との誓約で古法に則った建前がなければ侵攻できません。実質的に武力制圧が実行された例はほとんどないという話なのですが〉

 折角のアタランテの解説もフィンには解説の解説が必要だった。語彙や意味がまるで分からない。エウリスらの目的と井戸に陣取っていることの関連についてはまったくだ。

 思案に耽るアタランテに何か的を射た質問はないかと頭を捻るうち、フィンは広間の片隅にもうひとつの人影を見つけた。壌血衆ゴブリンの男がひとり、岩肌に染み付くように蹲っている。

 ベダだ。ゼノによれば同じ高台衆ハイランダーであるらしい彼は、一見して酷く倦み疲れている様子だった。本当ならメティスはベダとだけ話がしたかったのだ。

 フィンがベダに目を遣ると、彼は気付いて逃げるように目を逸らした。耳の動きは出鱈目だが、ベダは他の二人と違ってちゃんと目が合ったような気がした。

〈ええ、そうです。あれがゼノの捜していた人です。本名は――〉

「来い」

 汁気の多い音がした。

 エウリスの声は、いちいち舌と唇をこねて鳴らしているようだ。生理的に気持ちが悪い。それは確かにミドルアースこの世界の言葉なのだが、自分たちの声が実は思いのほか感情に溢れていたのだとフィンが意識するほど、無機質な音の連なりに聴こえた。

 エウリスは腕を突き出し、フィンの位置から自分の前に向かって振って見せた。そこに立てと言うのだろう。

 地を這う生白い管を大股に跨ぎ越し、フィンはエウリスに向かって歩いて行った。来た道を振り返れば、ヴァレイは小さな身体で通廊を塞ぐように広間の口に留まっている。少なくとも現状は計画通りだ。

 エウリスが身体ごとを捩じるようにフィンに向き直った。フィンは怖じた風を装って周囲に目を遣る。見取り図では確かこの辺りのはずだが――。

 エウリスの奥、白い袋のようなものの塊の後ろに古い木の格子を見つけた。フィンはその位置を頭に刻み込む。彼らは単に通気口だと思っているようだが、その役割は二次的なものだ。あとはできるだけ時間を稼ぎ、決行の合図を送るだけだ。

〈見れば見るほど正気を疑う擬装ですね〉

 アタランテはエウリスを目の前にそう呟いた。確かに奇怪な相手だが、アタランテはあからさまに呆れたような感情をフィンに送って寄越した。

〈テオチュチュ人は群体生物ですが、活動時の外見は地球の環形動物に似た形状です。義体を用意すればいいのに、それを無理やり二足歩行にするなんて。襟巻の付いた蚯蚓に何の拘りがあるのかは知りませんが――〉

「蚯蚓?」

 思わずフィンが囁いた。アタランテの言葉から変な想像が先走ってしまう。

 エウリスの顔から唇を鳴らすような湿った音がした。

〈おや、その格好には拘るくせに蚯蚓と呼ばれるのは嫌いなようですね〉

「蚯蚓が嫌なの?」

 不意にエウリスは身体ごとベダに向き直って大きな音を鳴らした。

「この幼生体は我々を侮辱したぞ」

 ベダが身動ぎ、億劫そうにエウリスに濁った目を向けた。

「馬鹿ばかしい、君たちのことなんて人類版図ガラクティクスの人民だって知りやしない」

「おまえの言う異種接触憲章は徹底されていない」

 エウリスはゼノがフィンに何か入れ知恵をしたのではないかと疑っているのだろう。

〈安心してください。分子解剖でもされない限り私は見つけられません〉

 解剖という言葉に微妙に安心できないものを感じながらも、フィンは何とか感情を落ち着かせた。ゼノの腕こそ持ってこなかったが、その手首にあった黒い帯はこっそりブーツの下の足首に巻いている。

 その帯はアタランテとの会話に必要だった。ゼノのように気を付けないと身体の中からいなくなってしまう訳ではないが、まさにこうした帝国アウターの情報などは帯を通じて知るらしい。 

 エウリスに耳先が読めるかどうかは不明だが、フィンはできるだけ帯に意識を向けないようにした。しかし、そう思えばそう思うほど耳先は足首を意識してしまう。

「憲章などそもそも必要ない」

 ベダが岩に背を擦るようにして立ち上がり、エウリスに言った。

「ここはフースークの遊園地だ。彼の創った馬鹿げた悪戯なんだ。何度同じことを言ったら分かる、ここにある痕跡は君らの探しているものじゃない」

 喋るうち、ベダは激高して息を荒げた。だんだんとエウリスに向かって吐き出すように声を高めるや、唐突にまた糸が切れた人形のように頽れた。耳の動きこそ読み解けないが、ベダが精神的に危うい状態なのはフィンにも分かった。

「偽物なんだ。いくら調べたって地球とは何の関係もない。ここの生態系は全部フースークが持ち込んだんだから」

 アタランテはフィンにも二人の言葉を翻訳してくれている。ただ自身の解析と推測に注意を割いているせいか、フィンへの説明を欠いていた。それなしではまるで意味が分からない。

 いや、もしかしたら、アタランテは何らかの制約でフィンにその意味を解くことを禁じられているのかも知れない。例えば件の異種接触憲章だ。彼女の微かな情動にフィンは何となくそう思った。

 エウリスが嘲笑うような音を鳴らした。ベダが再びエウリスを睨んで声を張る。

「そうさ君たちを地球に連れて行くと言ったのは嘘だ。だけどここが人為的な世界だってことは君たちも認めたじゃないか」

 勢いづいたベダだが、言葉の最後は力尽きて肩を落とし、再び疲れたように呟きに変わる。そんなベダに対し、エウリスは湿って崩れた高台衆ハイランダーの言葉で返した。

「確かに認めた。そしてその痕跡が人類版図ガラクティクスの水準ではなく、最古主に相当するものと確証を得た。故にここは所有者の滅んだ放置世界だ」

「だからそれはフースークが――」

 ベダは両手に顔を埋めて悲鳴のように呻いた。

「君たちが何を言っているのか分からない」

 確かに二人の話は食い違っているのだろう。だがフィンに分かるのもそれがせいぜいだった。

 ベダはエウリスを地球に連れて行くと嘘を吐いた。それがどうやらミドルアースこの世界だ。ベダによれば、ここはフースークという名の人が用意した偽物らしい。ところがエウリスはこの世界を放置された世界だと言う。

 何が何だか分からない。

〈フィン、あまり考えないで〉

 アタランテが釘を刺す。必要以上の知識と理解は危険だと警告している。だがそれだけの情報でもフィンには怒りが込み上げて来た。

 二人の会話が何あれ確かにフィンには想像も及ばない。それでも彼らが話しているのはフィンの住む世界だ。例え高台衆ハイランダー帝国アウターがどれほど強く、どれほど優れていようとも、ミドルアース自分たちの世界についてとやかく言われる謂れはない。決して、何処にもない。

「いいかげんにしろ、ここが何だろうとおまえらには関係ない、さっさと出て行け」

 フィンはエウリスを見上げて言い放った。ミドルアースこの世界はフィンたちの世界だ。偽物でも放置された世界でも、ましてやフースークとやらの造ったものでもない。

 フィンの言葉を受けて頬を張られたように振り向いたのはベダの方だった。真ん丸に目を剥いてフィンを呆然と見つめていた。

 フィンの目の前で耳を塞ぎたくなるような厭らしい音が鳴った。その音のたび、エウリスの顔には丸く凹んだような陰影が浮かんでいる。

 エウリスが背中を丸めてフィンに伸し掛かり、その肩を掴んだ。金鋏のような硬い感触にフィンが悲鳴を上げた。背中に地虫の管が突き刺ささったかと思うと、急激に身体の感覚が失せていく。

 フィンは棒切れのように地面に倒れ込んだ。水盆の底石に思い切り身体を打ち付けたのに、全身がちくちくとして痛みを感じない。

 身動ぐことさえできなかったが、フィンは身体の下に微かな蟲の匂いが拡がったのを感じた。外套の下に仕込んでいた合図の匂い袋だ。それが図らずも破裂してしまったらしい。

 それは確かに予定の内だ。だがフィンが逃げ出す機会を見計らっての予定だった。このままでは動くことも儘ならない。樹蟲衆エルフにだけ見える細い蟲の跡が地上目掛けてまっしぐらに延びて行く。

〈麻酔の成分を解析しました、分解します〉

「何をした」

 アタランテの声に被ってベダがエウリスに声を荒げた。

「幼生体を回収する」

 ベダが立ち上がってエウリスに向き合う。

「馬鹿なことを言うな、私は検体採取しか許可していないぞ」

「おまえはもう壊れている。交渉に値しない」

 エウリスはベダにそう告げると、宙に向かってぶくぶくと言い放った。

「我々は知性種族の急速な最適化の要因を神為的なる水源と特定した。古法に則り彼ら放置種の支配権は起源を解明した我々が得る」

 エウリスの頭が忙しなく顫動し、意味のない湿った音が断続的に響いた。


 その刹那、水盆の底石に張り付いたフィンの頬が震えた。伝わるそれは断続的に続いている。始まったと思う間もなく、大きく突き上げるような衝撃が来た。

 身体を通じて鳴るような轟音にフィンは大きく揺さぶられた。広間に黒い突風が吹き込み、黒塵が辺りの灯を覆い尽くした。

 アタランテを呼んだつもりが声が出ない。声を出す必要はないと思い出せないほど、フィンは焦っていた。早く奥の通廊に逃げ込まなければ。じきこの祠は塞がれてしまう。

 でも身体が動かない。砂塵、砂礫が吹き荒れて、フィンは息さえできなかった。

〈少し待って〉

 身体を擦る岩の欠片を感じたかと思うと、床に打ち付けた半身の痛みが一気に押し寄せる。悲鳴を上げそうになるも、それも一瞬で過ぎ去った。再び身体の自由が利かなくなる。

〈アタランテ〉

〈麻酔の分解を完了しました。じっとしていて、気を楽に。五つ数えたらあなたの身体を動かします〉

「ちょっと待って」

〈四、三、二〉

 全身が勝手に撓んで行く感覚に、フィンは自分が他人の身体の中にいるような気がした。

〈一〉

 フィンの身体が弾かれたように飛び上がり、鼻先も見えない暗闇の中を駆け出した。地を這う管が足に掛かるも無造作に蹴り千切る。

 大小の落石の音がひっきりなしに続いていた。エウリスのぶくぶくとした音が抗うように響いている。ベダは遠くで子供のような悲鳴を上げていた。

 フィンの手が何か柔らかいものを掴んで投げ捨てる。それは壁に当って圧し潰れ、白く濁った液体が零れ出た。

 不意に噴き出た強烈な臭いでフィンは身体の自由を取り戻した。むしろそのせいで意識が前に出てしまい、アタランテがフィンを制御し切れなくなったのだろう。

〈手を伸ばして、そこに柵が〉

 フィンは言われるまま手探りで格子の隙間を探り当て、身体を捻り入れた。

 泡の弾けるような叫び声が間近に聞こえた。エウリスだ。潰れた袋に気付いたのか、まるで身体のどこかを千切り取られたような声を上げている。

 エウリスがフィンを見たような気がした。尻の向こうに気配を感じて、フィンは慌てて隙間を潜り抜けた。泳ぐように振った足が何か柔らかいものを蹴り飛ばした。

 藻掻くように起き上がり、苔生した岩肌に身体を擦り付けながら走る。

 不意に目の前が明るくなった。

 削り出された岩壁や木組みの支保、フィンが肩先で擦り取った苔の跡が見て取れた。燈が灯ったのではなく、フィンの視野そのものが鮮明になっている。

〈急いで、ランプレイト人が追って来ます〉

 項にぞわりとしたものを感じてフィンは無理やり身体を押し出した。

 駆けて、駆けて、通廊を塞ぐ太い支保に突き当たった。通廊に幾つか配置されている大型のものだ。両脇と天の支柱に対して斜交いが掛かり、柵状の板が張ってある。

 教えられた通り探ってみると、フィンの腰の高さほどに辛うじて通り抜けられそうな隙間があった。息を吐いて身体を潜り込ませる。何とかフィンの頭と肩、両腕が柱を掻い潜った。

 ところが藻掻けどその先に進まない。身体を押し出すには足が地面に滑り、引き抜くには腋が柱に乗ったままだ。この状態では上手く力が掛けられない。

 鼓動の向こうに馬陸の走るような音が聞こえた気がした。きっとヴァレイに違いない。フィンの剥き出しの素足が粟立った。

 そのとき木枠の外に突き出したフィンの上半身に何かが覆い被さった。人のようだ。腋に差し込まれた腕が強引にフィンの身体を引き抜こうとする。

〈脚の力を抜いて〉

 アタランテが言うなりフィンの膝が勝手に曲がった。早鐘のような鼓動で機会を見計らい、跳ねるように脚が伸びる。何か硬いものを踏み割ったような感触と同時に、フィンの身体が柵の向こうに飛び抜けた。

「重いな、さすが大人だ」

 縺れるようにフィンの下敷きになったエネピアが顔の間近で笑って言った。

「エネピア」

 フィンは慌てて立ち上がり、エネピアの手を取って引き起こす。

「うわ、何だ」

 何気にフィンの背後に目を遣ったエネピアが声を上げた。咄嗟にフィンを引いて背に庇い、放り出していた大ぶりの山刀を拾い上げる。

 それを振ってエネピアが払ったのは、黒く細長い髭のような触手だった。支保の柵の向こうに覘いたヴァレイの頭から無数の触手が生え伸びている。

 フィンはエネピアの手を引いて柵から引き離した。

「急ごう、ここを出て早く塞いでもらわなきゃ」

 二人は手を繋いだまま走り出した。細い通路は蹴込みの擦り切れた急な上り斜面が続いている。フィンはアタランテの拡げた視野のおかげで、エネピアは壌血衆ゴブリン本来の性能を活かして、二人は真っ暗な通廊を思い切り駆けて行った。

「ありゃいったい」

 前を向いて駆けながらもエネピアの意識は背後に蠢いているだろう髭を思い出して毛を逆立てる。

「ヴァレイだ、たぶん」

「だけど、あれ」

「あいつら、ぼくらも知らない遠くから来たんだ」

 次の大きな支保が目の前を塞いでいた。エネピアが耳先で合図を送る。灯のない岩屋の中でも、互いの耳先がどう動いているかは感覚的に見て取れた。

 エネピアが踏ん張れるようにフィンが木枠を掴んで押し込み、エネピアは頭から木枠を抜けた。支保の向こう側からエネピアが手を伸ばし、木枠に足を掛けてフィンの身体を引き抜く。

 大きな支保は後二つほどだろうか、駆け出そうとしたとき奥の方で何かが砕けて崩れる音がした。二人は顔を見合わせて駈け出した。

 そうして地図の上では最後の支保を越えると二人して耳を欹てる。

「あっちは持って来た?」

 フィンの問いに頷いて、エネピアは支保に掛けておいた荷袋から筒を束ねた塊を取り出した。岩焔衆ドワーフの治山職が用意した小さな発破だ。

「これくらいかな?」

 エネピアが導火線を解いて広げる。

〈腕ひとつ短くしてください〉

「これくらい」

 フィンが導火線を千切ると赤い灯が点いた。急いで支保の向こうに放り込むと、エネピアが予め用意していた横木を渡して木枠を塞いだ。

 顔を見合わせ、駆け出した。

「何であたしと同じになっちゃったんだよ」

 駆けながらエネピアがフィンを小突く。性別の話を持ち出せるくらい余裕があるのか。いや、きっと緊張を紛らわせるためだ。

「ぼくが選んだ訳じゃないよ、きっと郷で飲んだ薬が残ってたんだ」

 ゼノのことは恥ずかしくて言えなかった。分化の最後のひと押しは、薬湯に加えて傍にいた者の性別が大きく影響するらしい。身体が対になるように変化するのだとティーアは後から教えてくれた。

 こうなったのは半分ゼノのせいなのだ。

「まあいいや、友だちなのは変わんないしな」

 エネピアは言葉の後ろの方をぷちぷちと呟くような声で誤魔化そうとした。フィンは黙ってエネピアを小突き返した。

「あのさ」

 エネピアは自分で言い出しながら足音に紛れても構わないような口振りでフィンに言った。

「その、ゼノの言ってたこと」

「うん」

「あたしの所に来たっていいんだからな。おまえひとりくらい面倒見てやるから」

「聞いてたの?」

 エネピアの耳先が真っ赤になって震えた。

「違う、その、たまたま聞こえて」

「エネピア」

「うん」

「ありがとう」

 二人は照れを隠すように競って駆ける。エネピアは息の上がりそうな樹蟲衆エルフを見て笑い、手を握って思い切り引いた。

 外の明かりが見える頃、通廊の奥から大きな揺れがやって来た。二人は呼吸も忘れるほど走って、灯が群れる通廊の出口を勢い余って転がり出た。

「早く」

 待ち受けていたメティスがフィンとエネピアを抱え上げ、急ごしらえの木組みの盾の裏に転がり込んだ。ティーアの声が樹々の中に響く。

「点火」

 一拍ほど遅れて地面が跳ね上がり、複数の破裂音が轟いた。振動はしばらく断続的に続き、二人が飛び出した祠の裏口からは土砂と砂塵が蛸の吹く墨の如く勢いよく噴き出した。

 フィンとエネピアはメティスにきつく抱きしめられたまま、舞い込んだ埃に咳き込んだ。吹き荒ぶ塵埃の中で二人はふと目を合わせると、互いの胸をつついてくすくすと笑い合った。


 *****


 かくして冒険は終わり、後始末は居留地に委ねられました。

 いいえ、もちろんそんなはずはありません。未開の惑星を訪れる帝国人アウターは得てして頑健な装備を持ち、傲慢な意思を有しています。原住民の抵抗は、むしろ彼らの形振り構わぬ行動に火を付けるでしょう。高台衆ハイランダーの援軍はまだ遠く、危険は目と鼻の先にありました。フィンには立ち向かう以外の選択肢はありません。誰一人、逃げるという選択肢を持ち合わせていませんでした。

 その行く末はどうであれ、これが最後の局面です。鉄器の剣と弓矢で人類版図ガラクティクスの一〇〇〇年先を行く人外と対峙することになるのです。こんな状況にも拘わらず、面倒事はさっさと行き過ぎよとばかりに、能天気な王は未だ惰眠を貪っていました。

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