第六章 第三部 鶏鳴
アタランテに身体の制御を委ねた途端、フィンの体調は目に見えて良くなった。
彼女が言うには、フィンの身体は基本的に
ならばゼノは何なのかと問うと、今の
その割にゼノは体力もなく、何かにつけすぐにサボろうといていた。案外、
フィンの理解するところ、どうやら
ただ
そんな話を聞きながら、フィンは相手が
〈フィン〉
「な、なに?」
〈誰かがあなたを呼んでいます。近づいて来るようですよ〉
「耳がいいね、アタランテ」
〈あなたの耳です、フィン。さっきのは落ち着いたら話してあげます〉
フィンの考えていることが筒抜けになる状況をアタランテに問い質そうとすると、フィンにもその声が聞こえて来た。
「どうしてすぐに郷に帰さなかった。
扉幕が乱暴にたくし上げられ、長身の
メティスより少し年嵩だろうか。怜悧な顔つきの女の人だ。目尻、鼻筋、頬の輪郭が切れるように鋭い。こと
濃い緑の瞳はフィンと同じ色だが、ぷよぷよとしてやせっぽちの自分とは大違いだった。でもなぜだろう、どこか見覚えのある風貌だった。
「フィン」
女の人は名を呼ぶなり膝をついてフィンを抱き竦めた。呆気に取られて抗う間もなく、気付けばすぐさまフィンを突き放して頬を両手で挟み込む。
大きくて、しなやかで、少し冷たい指先だった。
女の人はそのままフィンの瞼を抉じ開け、口の中を覗き込み、挙句はゼノの外套を剥ぎ取ろうした。フィンが我に返って抵抗すると、ようやく手を放した。
女の人が背に立つメティスを振り返る。
「いつこうなった」
半ば呆れたように眺めていたメティスは、心なしか気圧されて応えた。
「四日ほど前だ、と思う」
「そんなに放っておいたのか」
女の人は御山の宮司を怒鳴り付けた。
「いや、それは」
「誰、ですか?」
助け舟ではないものの、フィンは慌てて口を挿んだ。フィンが放置されていたのはメティスのせいではない。フィンが誰も近寄らせなかったせいだ。
「この人はティーアだ。転身の際にこの社に駐留していた縁があってな。エネピアに使いを遣ったら勝手に山に上がって来た。前の名はターヴだ」
「ターヴ? え、ターヴなの?」
フィンは思わず声を上げ、目の前の女の人をまじまじと見つめた。
ターヴは
「転身したの?」
「そうだ。性を変えてから合うのは初めてだな。ようやく
〈家出していたんですか、フィン〉
「えっと」
「ガリオンの奴が気付いていれば、もっと早く来れたのだが」
〈何てこと、本当に児童略取になりかねませんね。郷に確認が必要です〉
「ぼくは
フィンは二人を相手に早口に言った。
「あれは私の連れ合いだ」
「え?」
〈え?〉
呆気に取られたフィンとアタランテを尻目にティーアは立ち上がり、もう一度フィンを上から下まで眺め回した。フィンの抱えたゼノの左腕に顔を顰めたものの、それについては何も言わなかった。
「それより食事が足りていない。湯浴みももっと必要だ」
ティーアはメティスを振り返り、フィンの待遇に注文を付けた。
「わかった、すぐに支度しよう。湯殿は私のを使うといい」
諦めたように応えてから、メティスは盾のように立ち塞がるティーアの横から顔を出してフィンを覗き込んだ。
「山に皆を呼んである。落ち着いたら彼らを居留地に連れ返す術を探すつもりだ。君も同席して欲しい」
フィンが頷くのも待たずティーアはメティスを追い払うように手を振った。
「さっさと用意を。それと誰だろうと男衆は立ち入り禁止だ、分かったな」
メティスは二人に目を遣り諦めて吐息を漏らした。
「仰せのままに」
メティスはそう呟いて扉幕を手繰った。
その部屋の中には
ティーアはガリオンと同じく居留地で審神者に仕える
各々が整理を付ける暫くの間は、言葉少なく多くの情動が飛び交っていた。その一部はフィンの変化と今も抱えた包みについてだ。
時おり見せるフィンの態度や独り言に危うさを感じる者もいたが、フィンはアタランテの存在を明かさなかった。
フィンを気遣う皆の耳先に自身が戸惑っているうち、エネピアがフィンの傍に寄り、少し迷ってから、その包みごとぎゅっとフィンを抱きしめた。
〈あなたたちの情動の交感は複雑ですね。不随意と随意の表現の組み合わせは文学的ですらあります。あの人との会話なんて案山子と話しているようなものだったでしょう? フィンはよく平気でしたね〉
「平気だったよ? どうしてかな」
フィンは口の中で小さく呟いてアタランテにそう訊ねた。
〈どうしてでしょうね。今度会ったら聞いてみては?〉
アタランテは自分から訊ねたくせに、含み笑いをするようなもどかしい感情をフィンに送って寄越した。
「この際、審神者の手を借りるのは問題ない。厄介なのはむしろお前の妹だ」
こうして始まった協議の冒頭、ティーアは真顔でメティスにそう言った。
「ゼノのことが知れたらこの御山ごと消し飛ばしかねん」
ガリオンを除く皆はティーアの耳先をまじまじと見つめた。冗談の気配がまるで感じられなかったからだ。
〈信じられないかもしれませんが、執政官の第一夫人には力も権限もあります。どういう訳かゼノには懐いているので、恨みを買えばただでは済みません〉
アタランテは溜息混じりにフィンに囁いた。
〈私たちが居留地を出たとき執政官は不在でした。今もそうなら歯止めが不在です。端的に言えば、不機嫌極まりない猫の尾を掴むようなものです〉
ティーアに言葉を向けられたメティスも、やがて微かな理解を示した。宮司はエウリスらの示威行為として森の一部が消え失せるのを目の当たりにしている。
「ともかく居留地との往復に六日は欲しいな」
ガリオンが遠慮がちに言った。居留地までの三日、何らかの対抗手段が得て戻るまでのもう三日がガリオンの試算なのだろう。
ガリオンの口調が妙に大人しいのは、ティーアの様子を窺いながら喋っているせいだ。どうやらフィンの一件で相当に責められたらしい。居留地も
「今のところ連中に動きはないのだろう?」
ティーアが訊ねる。
「ベダによるとそうなのだが」
メティスの耳先は複雑だ。
メティスが最初に接触したのは
ただ、ベダはそうした下達以外の情報もメティスに寄越しているらしい。それがメティスへの贖罪のつもりかは分からないが。
「そこだ宮司殿、連中はいったい何をしている」
問うたのはキアスティだった。エネピアの二人の副官は
「見当も付かん。我らと
〈社会学的な調査かと思いきや、何ともはや。本気で
アタランテが呆れたように呟いた。
「本当にそれだけなら、居留地に帰るまで待ったらどうかしら」
ベンティーネが相変わらず気怠げな口調で言った。
「ゼノが追って来たことを知っているのに、居留地に帰るはずがない。きっとここに居座るか逃げるかすると思う」
フィンがそう意見する。胸があんなに大きいと喋るのも考えるのも億劫になるのだろうか。フィンはぼんやりと、だが半ば真剣にそう思った。
「それなら森に追って捕らえるのはどうだ。多少はこちらにも地の利があるだろう」
ティーアの意見に
「いまは駄目だ、何が起こるか分からない」
エネピアは憮然とそう言った。まるで言葉足らずだが、メティスの傍で緊張しているのが丸分かりだった。ベンティーネにからかわれて余計に真っ赤になっている。
「森がざわついているのは知っていると思うが、鎮守が代替わりしたらしい」
キアスティが見かねてエネピアの言葉を補足した。
「この時期にか」
メティスは素直に驚きを表した。
「まだ四百年ほどの御勤めだろう。代替わりは私より後だと思っていたが」
「あたしらも守護職を拝任した折に挨拶に伺ったが、よもやだな。ともかく代替わりが落ち着くまで森で事を起こすのは避けた方が無難だ」
そう言ったキアスティの後を継いでベンティーネが口を挿む。
「だから薬師も麓で止めているの。今は森もまだ吃驚するくらい大人しいけど、怖くて誰も近寄れないのよ? 当分はご挨拶も無理じゃないかしら」
「つまり山を下りたところを狙うのも」
「無理ねえ」
ベンティーネの言葉にティーアが返し、そのテンポの違う掛け合いに皆が唸った。森がその状態では守護職も地の利を活かせない。むしろ行動に支障が出る恐れも多分にあった。
「アタランテから居留地に連絡はできないの?」
フィンは口の中でそう囁いた。
〈あなたの理解力は素晴らしいですが、居留地の外は異種接触憲章に則って交信が無効化されています。第一夫人のような
議論が泥濘に嵌っている間に扉幕の端が揺れた。側仕えの
メティスの耳先が微かに強張る。抑えた困惑と苛立ちの中にフィンは自分を指しているのを見て取った。
「ぼくのこと?」
メティスは一拍ほど躊躇ってからフィンと皆に告げた。
「エウリスがあのときの子供を寄越すようにと言ってきた」
怒りと困惑の情動が飛び交う。
「残念だったな。四日前ならまだ子供だったのに」
ティーアが肩を竦めた。その仕草はゼノにも見たことがある。
「どうしてぼくなんだろう」
〈彼らが
「子供に用があるってこと?」
「おまえはもう子供じゃない」
ティーアは頑なだ。
「少し血を取られるくらいならどうってことないよ。それに、それだけ足止めできるなら時間も稼げる」
フィンがそう言うとエネピアが口を尖らせた。
「待て、それならあたしだってその、小さい」
さすがに自分を子供とは言い澱む。フィンは意地悪く耳を揺らして見せた。
「血を取るのは一瞬だ。祠を塞ぐくらいでないと足止めにはならん」
メティスもあっさりフィンの申し出を却下した。
フィンはふと耳を欹てた。
「ここに来たとき見かけたんだけど、治山職の
何を問うのかとメティスが怪訝な耳をする。
「その人たち発破は使えるの?」
訊ねる際に皆がフィンの耳を読み取り、唖然とした。揃ってフィンに反論するなか、メティスだけが考え込んでいる。
「仕掛けの時間は少ないぞ、準備の間に気付かれたらおしまいだ」
呟くメティスにフィンが応える。
「ぼくが中にいる間は、あいつらだって中に籠ってるはずだよね」
「待て待て待て」
フィンの案を払い除けるようにティーアは首を振った。しかしメティスは更に思案する。
「フィンならあるいは」
「メティス」
口を挿むティーアを制し、メティスは
「祠には二つの口がある」
ひとつは断崖に面した洞門。もうひとつは山の裏に掘り抜いた細い通廊で、随分前に閉じられたものらしい。古く、崩れる恐れがあったためだ。今は幾つも斜交いを天井に咬ませ、通気口として放置しているのだという。
「先に表を崩したとして、裏の通廊は柵は隙間が狭い。ヴァレイの身体でも太くて通るのは無理だ」
メティスはフィンを見た。子供なら、と言い掛けてメティスは言葉を選んだ。
「フィンなら出られる」
*****
前を向くこと。責任を負い、責任を果たすこと。フィンは身体に追い付こうと、必死に大人になろうとしています。ほんの少しばかり手助けもありました。それは知識や健康ではなく、ゼノと再会できるかもしれないという希望でした。多少、効きすぎたかも知れません。むしろゼノの役割を担うことで、彼との距離と時間を縮めようとフィンは全速で走り始めてしまいました。
例え傍目に危うく映ろうと、フィンは皆を説き伏せて前に進んで行きます。原動力は呆れるほど単純でしたが、それ故にフィンは無敵でした。
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