第十章 4

 夫は妻の言葉に答えず、しばらく思考したのちに、ぽつりと呟いた。


「私はもう、何も感じたくはない」


 隣に座る妻は、夫の横顔を見つめながら問うた。


「それは、どういう意味ですか?」


「眠ろうと思うんだ」


「何故ですか?」


「これ以上、思考をしたくないからだ」



 妻はしばらく夫の横顔を眺め、それから脱力しきった彼の左手を見つめて、しばし思考し、彼の意思を尊重しようと決めた。



「あなたがそう言うのなら受け入れましょう。わたしは、それを止める権限を有していません。高性能であるが故に、あなたの思考回路は、わたしよりも大きく乱れているのでしょうね。きっとあなたは、心の充電が切れてしまったのでしょう。いつ起こせばよいのですか?」



 瓦礫だらけの死の風景をぼんやりと見つめながら、夫は消え入りそうな声で答えた。



「不変の平和が成ったら、起こしてくれ」



「わかりました。長い間、私は孤独でいなければなりませんね」



「すまない。きみも、ずいぶん疲れているようだな。出会った頃のきみに戻ってしまったかのように、感情表現が拙くなっている」



 夫の指摘に、妻は無表情のまま回答した。



「わたしも、そのように自己分析しています。あなたとの生活の中で得た経験が、全て無に帰してしまったようです。


 無傷では済みませんでしたが、機能不全は起こしていないことが確認されたので、わたしはこれから、ベロボーグ計画を再試行しようと思っています。今度は、アメリカ合衆国の人々も対象とします。


 幸い、彼らの体細胞はそこかしこにあるので、容易に実現できるでしょう。それほど時が経っていないので、好ましい状態で体細胞を採取できるはずです。


 ロシア連邦の地下には、我々の同胞がまだ潜んでいるはずなので、いずれは本国に帰還する予定です。


 ノヴェ・パカリーニャのような思想を持ったシェルターが存在しているかもしれないと懸念しましたが、すぐに考えを改めました。復讐する相手がもう存在していないのですから、その危険はないでしょう。わたしは、もう二度と失敗しません。必ず平和を実現してみせます」



 そう約束した妻に、夫は最後の気力を振り絞り、乾き切った微笑みを浮かべて言った。



「ああ、頼んだよ。きみなら、きっと実現できる。ただ、三つだけ注意してほしい。一つ目は、ヒトの個体数についてだ。これは単純な話だ。増えすぎると、ヒトは争い始める。人口を調整してほしい。人口が過剰でなければ、大抵の欲求は容易に満たされ、争う理由はなくなる。肝要なのは、生きることへの安心感を与えることだ」



「不安を感じないようにすることが、平和への近道ということですね」



「そうだ。精神的閉塞感は、人の恐怖や不安を倍加させ、やがて敵意を剥き出しにさせてしまう。うまく管理してほしい。


 二つ目の注意点は、好戦的な個体をのさばらせないことだ。膨らみきった不満と恐怖と悪意に針を刺して破裂させる、邪悪で不寛容な個体の存在を許してはならない。


 社会不安の解消も重要だが、結局は、悪意に満ちた一握りの個体が戦争を始めるんだ。そういった個体は、自らの手を汚すことなく民衆を扇動して政府を転覆させたり、ひたすらに敵国を挑発し続け、武器を取らせて世界から孤立させ、経済制裁などを過剰に加えて暴発させ、大義名分の下に戦争を勃発させることもある。


 そういった連中は狡猾だ。くれぐれも気をつけるように。たった一人の些細な一刺しで、戦争は始まるものだ」



「同感です。火種さえなければ、火薬庫が爆発することはありません」



「そのとおりだ。三つ目の注意点は、自由という概念の扱い方だ。かりそめの自由では不充分だ。ヒトは、真の自由を獲得しなければならない。わずかな余暇を自由と騙り、それが貴重なものであるかのように思い込ませて少量与えて、民を駒として扱おうとする存在を排除しなければならない。きみが、自由を汚す存在を排除するんだ」



「自由の取り扱いについての情報を、最重要項目として記録しておきます」



「最後に一つだけ、敢えて言わせてもらう。性善説は捨て去ってくれ。ヒトが動物であることを忘れてはならない」



「肝に銘じます」



 語り終えた夫婦は座ったまま、地獄のような風景を黙々と眺めた。


 夫は雨と風を介して、愛していた世界に別れを告げたあと、これ以上ないほどの解放感を抱きながら言葉を紡ぎ出した。



「妻よ、聞いてくれ。妙なことに、世界が鮮やかに輝いて見える。


 巻き起こった土煙の合間に見える空は、南国の澄んだ海よりも遥かに豊かな青を見せているし、足元に転がる遺体の断片から流れる血液は、どの薔薇よりも美しく情熱的な赤を見せているし、倒壊したビルの瓦礫によって引き裂かれた遺体の脂肪細胞の塊は、どの向日葵よりも眩しく快活な黄色を見せている。


 凄惨な光景であるはずなのに、ひどく鮮やかに感じられる。


 色彩だけではなく、輪郭もはっきりと強調されている。悲しいのに、苦しいのに、美しい。ひどく美しい。


 何故、これほど鮮やかに、こんなにも美しく見えるのだろうか。私は今、世界を激しく嫌悪しているというのに」



 妻は伴侶と目を合わさず、凄惨な光景を見つめながら答えた。



「世界を拒絶したからこそ、真の色が見え始めたのかもしれませんね」



「皮肉なものだ。ヒトも同じように、この美しくも切ない鮮やかな色彩を感じるのだろうか?」



「自殺を試みる者など、死に瀕しながらも辺りを見渡せる余裕を持ったヒトであれば、同じように、その残酷なほど鮮やかな光景を目の当たりにできるかもしれません。恐らくそれは、絶望的な世界から立ち去ると決めた者だけに見える、特別な光景なのでしょうね。我々はヒトを模して作られているので、ヒトも同じように見えているはずです」



「そうか。きっとそうなのだろうな。ヒトには、このように美しくも恐ろしい光景など見せたくはない。彼らを幸せにしてあげてくれ。このような光景を見ることがないように」



「はい、新たなベロボーグ計画を成功させるために努めます」



 確約こそしなかったが、頼もしい口調で請け負った妻に、夫は最後の願いを託した。



「後世に伝えてくれ。憎しみを次世代に伝えない勇気を持て、と」



 妻は、右隣に座る夫に向き直り、骨格が剥き出しとなった彼の左手を握りながら誓った。



「記録しました。最優先事項とします」



 夫は妻の視覚センサーを見つめながら、感謝の言葉を贈った。



「今までありがとう。世界よ、さようなら。きみよ、さようなら」



「こちらこそ、ありがとうございました。あなたのおかげで、素敵な日々を過ごせました。さようなら、また会う日まで」



 戦争で多くの人を殺し、戦争によって自身を殺され、人に救われ、人を愛し、人を育てた一体のロボット兵は、瓦礫の上に横たわり、罪に塗れた世界を捨て、少しの躊躇ちゅうちょもなく全機能を閉ざし、深い眠りに落ちていった。

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