第十章 3
「妻よ、きみに伝えておかなければならないことがある。生物が抱える根本的な問題についてだ。これから言う風景を思い浮かべてほしい。三つのチンパンジーの群れが生活している、とても穏やかで平和な森を想像してみてくれ」
「コンピュータ上での模擬実験を開始します。条件を入力し、状況を映像で描写しました」
「その平和な森に暮らす三つのチンパンジーの群れは、年々、頭数を増やしていく。ただし、その森から得られる食物の収穫数は変動しないものとする」
「実際の繁殖データを元に、徐々に頭数を増やしながら観察します」
三秒後、妻が結果を報告した。
「模擬実験の結果が出ました。チンパンジーの群れ同士が、殺し合いを始めました」
「そして?」
「全体の頭数が、当初の数に戻りました」
「殺し合いは?」
「発生しなくなりました。あなたが伝えようとしていることが理解できました」
「チンパンジーだけではない。形は違えど、全ての生物が、この法則の下に生きている。ヒトもまた然りだ」
母だったアンドロイドは、伴侶が人間のことをヒトを呼ぶようになったことに気づき、すぐにその理由を把握した。
彼は、目を背けていた人間の本質を見据え、高度な知性を持つ霊長としてではなく、ただの動物として扱い始めたのだ。
夫は、妻が法則を理解したのを受けて、解説を開始した。
「ヒトとチンパンジーは違う。私はそう思っていた。
ヒトは分け合い、助け合って進化してきた。複数の部族が食料を持ち寄り、互いに酒を酌み交わして親睦を深めた痕跡がある遺跡もあるくらいだ。
心理学の分野においても、共感によって絆を深めるという特性が確認されている。名も知らぬ親子の触れ合いを眺めるだけで、心が安らいだり、愛情に関連するオキシトシンが分泌される仕組みまで備わっている。遺伝子に刻まれた、祖先の遺産だ。
しかし、ヒトはその遺産を有効活用できなかった。
実際は、ヒトはチンパンジーと同質の本能に縛られた存在でしかない。いや、同等どころか劣化しているのかもしれない。
前にも子供たちに言って聞かせたことだが、ヒトは、高い知能によって怨恨や執着や復讐心が増大し、敵から与えられた苦痛を語り継ぎ、争いの火種を次世代へと繋ぐようになってしまった。
チンパンジーもヒトと同様に、共感や協力によって群れを強くする習性があるが、怨恨や執着や復讐心までは共有しないし、語り継ぎもしない。だからチンパンジーは、争いの火種を継承せず、ただ悲しみだけを心に秘め、復讐というリスクを負わず、恐怖を意識しながら争いを避け、可能なかぎり日々を平和に生きようとする。
だが、ヒトはそれができなくなってしまった。ヒトは進化し、あらゆる情報を継承する能力を得たが、争いを防ぐという面では、図らずも退化してしまったんだ。
あらゆる怨恨と恐怖は、口伝だけに留まらず、映像によって鮮明に記録されて保存され、受け継がれてしまう。
その記録を目の当たりにしたとき、ヒトは深く悲しみ、大いに恥じるが、その裏で強烈な恐怖を覚える。このような悲劇が、我が身にも降りかかる日が来るのではないかと、無意識のうちに恐れを抱き、怯え、恨み、戦いに備えてしまう。
この連鎖を止める術はない。争いを抑えることなど、ヒトには不可能だったんだ。私はヒトを信じていたのではなく、直視すべき問題から目を逸らしていただけだったようだ」
興味深く聞いていた妻が、夫に問う。
「ヒトが正しく平和に生きるには、どのような対策を講じればよいのでしょう?」
「対策を講ずるのは困難だ。進化をやり直すわけにはいかないからだ。
戦争は、生物が行う呼吸のようなものだ。
社会を肺に、恐怖や不満を空気に
息を吸えるうちは何の差し支えもなく繁栄できるが、やがて限界を迎えた肺は、溜め込んでいた空気を勢いよく吐き出し、あらゆるものを吹き飛ばしてしまう。恐怖と不満を溜め込みすぎた社会は、むせ込んで、激しく咳き込んでしまうんだ。
それこそが戦争だ。為政者は、民衆の心の歪みを常に意識し、限界値に達してしまわないように管理しなければならないのだが、ヒトにはそれが出来なかった。民衆と社会にかかった圧力を低下させることに失敗したのだ。
その結果、中華人民共和国は暴発し、各国は冷静に対処できずに中華人民共和国とロシア連邦を壊滅させた。やがて新生ロシア人が復讐を企て、ほとんどの国を壊滅させてしまった。
馬鹿げているんだ。第三次世界大戦が起きたきっかけも、それに至る経緯も、大戦後に自動反撃機能を復活させていなかったことも、復讐に飲まれてしまったことも、全てが馬鹿げているんだよ。
あまりにも愚かしい。何故、こんなにも愚かしいんだ。どうして、あんな馬鹿げた理由で大戦を誘発したんだ。誰もそれを本気で止めようとしなかった」
「ええ、どうしようもなく愚かしいことです。今後の対策は、困難を極めるでしょうね」
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