第九章 27

 基地の西側から進攻していたエカテリーナ、マラート、ソーフィア、アラカン、そして十名の兵士たちが、立て続けに聞こえた三発の銃声を聞きつけて、作戦説明室に駆け込んだ。


 息を切らす彼らの目に飛び込んできたのは、倒れている兵士たちと、立ち尽くすオリガと、下半身部分しかない奇妙な強化スーツの前で、床に倒れた何者かを抱きかかえるアレクセイの後姿だった。


 広い作戦説明室の突き当たりにある作戦司令室のドアの前では、二名の実働部隊員と一名の海軍特別強襲部隊員が操作パネルに不正接続して開錠しようと奮闘しており、共に駆けつけた十名の侵入部隊員たちも開錠を支援しようと駆けて行ったのだが、兄弟姉妹三人の視線と神経は、座り込んでいるアレクセイの背中に集中しており、世界の存亡のために作戦司令室のドアを開けようと尽力する隊員たちの姿は目に入らなかった。



「……どうしたの、アリョーシャ?」



 アレクセイの背中に向かってそう問いかけたエカテリーナが、力無く座り込む彼が抱きかかえている人物が見慣れた赤い靴を履いていることに気づいた。


 彼女は、にわかに震え出した肩をその両手で抱きながら、声を振り絞って呟いた。



「あれは、コーリャの靴……」



 その声を聞いて靴を確認したマラートが、大きく息を呑み、そして一気に吐き出すようにして叫んだ。



「コーリャ!」



 エカテリーナとマラートとソーフィアは、息切れしているにもかかわらず全力でアレクセイに駆け寄り、嫌な予感が外れてくれと願いながら、抱きかかえられた人物の顔を見た。


 兄弟の腕に抱かれている、血の気が失せた顔をした男は、紛れもなくニコライだった。


 激しく狼狽する三人の視界に、本能的恐怖を煽る赤色が飛び込んできた。


 ニコライの制服の胸部には、血液によって描き出された大きな染みがあった。そして床には、彼のものと思しき血痕が這っている。


 血痕の先を目で追うと、そこには、主を失った赤色の強化スーツが自立したまま放置されていた。凝視すると、赤色の塗装の上に、艶めく血液が大量に付着していた。


 その血液は重力に従って、装甲をゆっくりとなぞり落ちている。




 兄弟が重傷を負っていることを把握したマラートは、トゥールソンの部下からお守りとして贈られた軍用ナイフを抜き、大量の血液で塗れているニコライの上着を掴んで切り裂いて、胸元を露出させた。


 ニコライの胸部には銃弾によって穿うがたれた穴がひとつ開いていて、その周囲は、流れ出た大量の鮮血によって赤く染まっていた。


 左心室を損傷しているらしく、血液は肺を経由したことで酸素を多く含み、桃色がかっていた。その鮮やかな紅色が、マラート達の本能的恐怖をさらに激しく煽る。



「銃創を塞いで、心肺蘇生をしなきゃ!」



 ソーフィアがそう叫ぶと、アレクセイは項垂うなだれたまま力無く首を振り、消え入りそうな声で言った。



「無理なんだ……」



「そんなことない!」



「違うんだ。もう無理なんだよ、ソーニャ。よく見てくれ」



 重苦しく放たれたアレクセイの言葉に背筋を冷たくしながら、兄弟姉妹はニコライの胸に開いた銃創を再確認した。


 心臓を損傷しているにもかかわらず、その銃創からは血が溢れ出てこない。


 そのことが、ニコライの心臓が機能していないという耐え難い事実を兄弟姉妹に突きつけた。


 彼らはアレクセイに視線を戻し、それでも救命措置を講じるべきだと進言しようとしたが、その意気はすぐに消沈した。アレクセイの青ざめた顔が、ニコライの生存が絶望的であることを如実に物語っていたからだ。


 アレクセイは、兄弟姉妹の中で最も行動力がある。その彼が、青ざめた顔で無理だと言っているのだ。それが何を意味するか、兄弟姉妹はよく理解していた。



 もう助からない。



「でも、蘇生させなきゃ!」



 心の声を打ち消すようにそう叫んだエカテリーナに、アレクセイが無感情に反論する。



「無理なんだ。無理なんだよ。納得できないなら、コーリャの背中を触ってみてくれ」



 その言葉に恐れおののいたエカテリーナの肩に、マラートが優しく手を添えて言った。



「カーチャは下がっていて。僕が確認する」



 マラートはしゃがみ込んで、ニコライの背中とアレクセイの前腕との間に、恐る恐る右手を差し入れた。


 ぬるついているが、べとついてはいない。そんな異様な液体が、マラートの指を滑らせる。


 それはまるで、溶き油を注ぎすぎた絵の具のような感触だったが、決定的に異なる点があった。温かさだ。


 その温もりは瞬く間に指をなぞり、やがて右手全体を包み込んだ。



「やはり、そうか。そうだよね。本当はわかっていたんだ。もう、助からないんだ」



 マラートはそう言うと、右手を差し入れたまま顔を伏せ、腹筋を痙攣させて小刻みに息を吸い、そして子供のように泣き出した。


 それを見た三姉妹の心の中で、恐れと驚きによって覆い隠されていた悲しみが一気に膨張し、それまで表に出てこなかった涙と悲鳴が、押し出されるようにして放たれた。


 堰を切ったように溢れ出した涙が、愛する兄弟の亡骸を見えなくさせる。


 嘘のような光景は、紛れもなく現実だった。


 これ以上ないほど残酷な、受け入れがたい現実だった。




 マラートはニコライの背中を確かめる前に、銃弾を撃ち込まれた人体がどのように破壊されるのかを計算し、その答えを導き出していた。


 三姉妹も同様に予測を済ませていたが、その答えをどうしても受け入れられず、確認を拒んだのだった。




 彼らが予測していたとおり、ニコライの背中には直径八センチほどの大きな窪みが形成されていた。


 彼の心臓を撃ち抜いた大口径の拳銃弾は、その強力な運動エネルギーによって彼の筋組織と骨組織を激しく圧迫して崩壊させながら突き進み、大きな穴を残して貫通した。


 左心室と直結したその銃創からは、挽き肉のようになった筋組織と砕けた骨組織が、多量の血液と共に放出され、彼は即死した。


 唯一の慰めは、兄弟が苦痛を感じる前に意識を失ったであろうことだけだった。




 五人は、残酷な運命を噛み殺すかのように歯を食いしばり、唸るような泣き声を上げた。



「俺のせいだ……」



 アレクセイはそう呟き、事の顛末を語り始めた。


 人員が足りなくなり、トゥールソンが呼び出されたこと。


 彼がいたことで、ニコライが激高したこと。


 ニコライの説得に失敗し、睨み合い、銃口を向け合ってしまったこと。


 そして、我が身を庇って瀕死状態に陥ったトゥールソンが最後に撃った大口径拳銃の銃声によって跳ねてしまった人差し指が、意図せず引き金を引いてしまい、ニコライの胸を撃ち抜いてしまったことを告白した。


 アレクセイは己を責めるが、兄弟姉妹は誰一人、彼を責めようとはしなかった。




 全てを告白したアレクセイは、涙をぼろぼろと流しながら、氾濫する後悔を放った。



「どうして、どうして俺は、コーリャに銃口を向けてしまったんだ……。コーリャ、目を開けてくれよ……。俺をアリョーシャと呼んでくれよ……。コンテナ船の独房で話したとき、愛称で呼ばなくなったこと、謝るから……。コーリャ、頼む……」



 ニコライの亡骸を抱くアレクセイが、脱力しきった兄弟の右手を強く握りながら叫んだ。



「俺たちが思い描いていた未来は、どこに行ってしまったんだ!」


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