第三章 19

 渾名というものを知ったアレクセイは、授業が終わってすぐ自室に戻り、データベースに接続して、渾名という文化を学習した。


 彼はその過程で、思わぬ収穫を得た。愛称の存在を知ったのだ。


 アレクセイはすぐさま脳神経インプラントを介して、兄弟姉妹との通信を開始した。



「みんな聞いて。データベースで、渾名について調べていたんだ。そうしたら、面白いことがわかったんだよ。ロシア人って、家族とか親友のことを渾名じゃなくて愛称というもので呼び合うんだって。ちなみに、僕の愛称はアリョーシャだ」


「ボクのは?」


「待って、ニコライ。みんなの愛称までは調べてないんだ。自分で接続して調べてみなよ」


 子供たちはそれぞれ自分の愛称を調べ、通信を介して発表した。


「ボクのは、コーリャ。ニコライの真ん中だけを残して、コーリャだって」


「わたしの愛称は、オーリャ。オリガの前の二文字を残して、オーリャ」


「あたしのは、ソーニャ。ソーフィアのソーを残して、ソーニャ!」


「ぼくのは、マーリャだ。マラートの前の部分を残して、マーリャ。愛称って面白いね」


「わたしの愛称は、カーチャですって。エカテリーナの頭文字は使わないで、二文字目と三文字目を残して、カーチャ。猫のラードゥガは、なんだろう、ラーニャになるのかなあ」


 アレクセイが、小さな兄弟の愛称を聞いて笑いながら言う。


「ラードゥガにも愛称をあげたのか。いいね。でもさ、おかしいよね。お父さんとお母さんは、どうして僕たちのことを愛称で呼ばないんだろう?」


 少し考えてから、ニコライが言った。


「夕食の時に訊いてみよう。このコーリャに任せろ」


 兄弟姉妹は通信を切り、夕食の時間になるまで、課せられた宿題に取り掛かった。




 三時間後の夕食時、ニコライは約束どおりに会話の口火を切って、愛称というものを知ったことを両親に打ち明けたあと、やや強い口調で本題に入った。


「お父さんもお母さんも愛称で呼んでくれればいいのに、どうして呼んでくれなかったの?」


 母が無表情のまま回答する。


「あなた達を愛称で呼ぶのは不可能なのです」


「どうして?」


「あなた達は、わたしの――」


 妻は発声を中断し、思考し直した。



 あなた達は、わたしのあるじです。愛称で呼ぶなど、おそれ多くてできないのです。そう明かしてしまった場合、尊敬対象でなければならない母親としての立場が保てず、維持すべき威厳が損なわれ、教育効率に悪影響を及ぼしかねません。危ないところでした。うまく嘘をつかなければなりませんね。正確には嘘ではなく、別の理由のこじつけですが。



「あなた達は、わたしから付けられた素敵な名前を持っているからです。わたしは、その名前を大切にしたいのです」


 ニコライは納得できずに抗議を続ける。


「でも、愛称で呼ばれたいよ。名前を短くしたのが愛称なんだから、いいじゃないか。家族は愛称で呼び合うものなんだよ?」


「駄目です」


「どうして?」


「駄目なものは駄目です」


 子供たちはすぐに黙り込んでしまった。彼らは、駄目だと言い張る母には何を言っても無駄であることを学び取っていたからだ。




 くじけた子供たちは黙々と夕食を腹に収め、退却した。


 食卓に残された二体は、嘘を押し付けて子供たちを黙らせてしまったという自責の念からか、久しぶりに雑談を開始した。


 妻が俯きながら、ぽつりぽつりと言葉を並べる。


「あの子達は、愛称で呼び合うほど大きくなったのですね。愛称で呼んでほしいと言っているのに、それに従えない自分をあわれに思います」


「きみが子供たちの下僕であることを知られたくないから、嘘をついたんだろう?」


「そうです。お見通しでしたか」


 夫は左側に座る妻に体ごと向き直って、微笑みながら励ます。


「もちろん把握しているよ。母親として威厳を保てなくなってしまうから、仕方がないさ」


 妻は俯くのをやめて、夫に視覚センサーを向けながら言う。その表情に曇りはない。


「あなたの頭部の前面に描写された顔は、表情が豊かですね。優しい顔です。どうやっているのですか?」


「思考と同期させているだけだよ」


「詳細を求めます」


 夫は視線を右上に向けて思考し、それから視線を落として、虚空を見つめながら言った。


「場面に応じて、思考を態度に反映しているのだと思う。じつは、私は同期させているだけで、他には何もしていない。全て自動的に行われているんだ」


「自動的に、ですか。感情というものに似ていますね」


「これが感情なのだろうか?」


「有り得ないことですが、酷似しています。奇妙ですね。いくら高性能だからと言っても、ここまでの表現が可能なのでしょうか」


「きっと可能なのだろう。こうして、実際に実行しているんだからね」


 そう答えた夫だったが、彼自身もまた大いなる疑問に思考回路を占有されていた。



 私は変化している。何かが、おかしい。考え込んだら抜け出せなくなってしまうような、触れてはならない矛盾が潜んでいる気がする。



 感情というものを検証すれば、また甚大な不具合を起こしてしまいかねないと思った夫は、自らの思考に制限を設けた。彼には、守らなければならない存在が六人と一体いる。

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