第三章 14
「いよいよ、本格的な就学を開始します。これから初等教育用データを送信しますので、確認してください。準備はいいですか、あなた?」
「ちょっと待ってくれ。育児模擬訓練を終了する。……よし、送ってくれ」
二二四二年、九月一日の未明。六歳となった第一世代に初等教育を施すための準備が、突如として開始された。
子供たちが寝静まった頃、妻は第四階層の居住区にある簡素な夫婦部屋で姿勢正しく椅子に座りながら、シェルターのデータベースに所蔵されている初等教育用データを漁り、右隣の席に座っている夫とのデータ共有を開始した。
妻はいつも下準備をせず唐突に行動を起こすので、夫は振り回されてばかりだ。妻は予定表さえも明らかにしないので、夫はいつも、何の備えもなく命令される立場となっている。
送られてきた初等教育用データを読み込んでいた夫は、歴史教育データのある記述に憂慮を抱き、左隣の席に座っている妻に視線をやって、意見を述べた。
「かつて地上で勃発した、あらゆる戦争についての記述が多い。多すぎる。血みどろの写真や映像だらけじゃないか」
妻は視線を交わすことなく、データベースから教育用データを引き出しながら冷たく回答する。
「それが何か?」
「それが何かって、大事なことだろう。無垢な子供たちに、戦争という凄惨な殺し合いの歴史をそのまま教えるつもりか?」
「これらは、新生ロシア人向けに
「そうではない。この初等教育用データの戦争描写は、あまりにも直接的だ。描写を緩和させられないか?」
「その案には同意しかねます。事実は事実なのですから、きちんと教えるべきです」
夫は、なおも視線を合わせぬまま反対する妻の右肩を掴み、強引に上体を捻らせ、無表情な彼女と目を合わせながら説得を開始した。
「事実をそのまま伝えればいいというわけではないだろう。一体、何の目的でこんな酷い初等教育用データを
妻が、ベロボーグ計画の遂行を妨害する存在を睨みつけながら問い返す。
「事実を学習する権利を侵害するのですか?」
「そうじゃない。人間の恨みを甘く見ないほうがいい。私は知っている。不具合から復帰して子供たちと過ごすうちに、過去の断片を思い出したんだ。戦場に立つ人々のことを、はっきりと思い出したんだよ。恨みという感情が込められた瞳の冷たさと、この外装さえ溶かしてしまいそうなほどの熱を帯びた憎悪を抱く人々のことを思い出したんだよ。恨みは、人間を獣に変えてしまうんだ。そして、果てには心が壊れてしまう。戦争に加担していた頃、私はそういった人々を数多く見てきた。その時の私は何も感じられなかったが、今なら理解できる。恨みは、人々をさらに深く苦しめてしまう感情なんだ」
「ですが、嘘を教えるわけにはいきません」
「隠すべき事実もあるのではないか?」
「あなたが恨みという感情の恐ろしさを語って聞かせてあげればいいのです。今、わたしに聞かせたように」
そう言う妻の視覚センサーからは、先ほどまで宿っていた鋭さが消えていた。
妻なりに初等教育用データの問題点を理解したらしいことに気づいた夫は、圧力を弱めて説得を継続した。
「恨みの弊害を伝えるのは非常にいい考えではあるが、あの子達にはまだ理解できない。本当の教育用データを使って学習するのは、もっと成長してからでいいだろう。教えるなと言っているわけではないんだ。彼らが成長したら話すよ、必ず。約束する。だから、当分の間は、残酷な描写を隠して学習しよう。きみはさっき、新生ロシア人向けに編集された初等教育用データと言ったが、もしかしたら、かつて地上で行われていた教育を記録したデータも残されているんじゃないか?」
「ええ、保存されています」
嘘をつけないアンドロイドである妻が正直に答えると、夫の頭部前面に描写されている顔が、にっこりと笑った。
「その教育データを使うんだ。ロシア連邦本来の教育を施すのならば、文句はないだろう?」
「かつてのロシア連邦で施されていた教育ですから、よいでしょう。許可します。ただし、彼らが充分に成長した時には、新生ロシア人用の教育データを使用して補習を行います。そうしなければ、ベロボーグ計画に反してしまいますので」
念を押された夫は、何度も頷きながら答えた。
「もちろんだ。私も、最後まで真実を覆い隠すつもりはない。子供たちに、この世界がどのような歴史を歩み、その結果どうなったのかを必ず伝えよう。約束する」
「了解しました」
妻は、右肩に添えられた夫の手を優しく二度叩いて、それから初等教育用データを漁る作業に戻った。
夫は妻の表情を伺おうとしたが、彼女は左側を向き、それを阻む。
夫はこれ以上近づいてはいけないような気がして、妻の右肩に添えた左手をそっと引いた。
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