第三章 9
育児日記。二二三七年、一月十九日。午後十一時。
ついに、この日が来た。
生後八ヶ月となった新生ロシア人の六人が、言葉らしきものを話し始めたのだ。
ただの鳴き声のようなものではあるが、その言葉らしきものには、彼らの本能的欲求が含まれている。私は、これを言葉として認識した。意思こそ通じないが、積極的に他者と関わろうとしているのだ。ただの鳴き声として片付けたくはない。
恐らく、言語能力と物理的感覚の強化が、功を奏したのだろう。
対話しながらボールを上に投げたり、床に落として弾ませるという動作を繰り返し見せて、今度はボールを転がし合い、慣れてきたら少し跳ねさせて投げてやり、その動きを目で追わせた。
そうしているうちに、子供たちは複雑な運動の予測訓練を積み重ね、脳が発達する。ボール遊びをしながら子供たちに話しかけるという作業は、彼らの脳の発達をすこぶる促したに違いない。
対話の成果が出たと喜んだ妻は、早速、英語の授業を開始した。
私は、まだロシア語も満足に話せないのにと言って妻を止めようとすると、妻は聴覚センサーを閉ざし、私が黙るのを待ってから反論を開始した。
妻が言うには、複数の言語を覚えるには物心がつく前から聞かせておくことが肝要で、多言語の使い分けを当然のものとして認識させれば、自然と身に付くのだそうだ。ここからは音声記録で残しておこう。大事な思い出だ。
「妻よ、きみと出会ったときに言われた言葉を思い出した。狼と暮らすなら狼のように吠えろ、だ。子供たちは複数の言語が使用されている環境に適応し、話せるようになるのだな?」
「その通りです。人は順応していく生物ですから、自在に使い分けるようになるでしょう。現在は、わたしをマーマと呼ぶように仕込んでいるのですが、なかなか上手くいきません」
「仕込むという心構えで接するから駄目なんだ。丁寧に教育を施すという気持ちで――」
「マンマ」
「……妻よ、聞いたか。ニコライがマーマと言ったぞ!」
「ええ、無事に仕込めたようです」
「私のことも呼んでくれ、ニコライ!」
「あだあだあだ、だあ、マンマ」
「違う、パーパだ。さあ言って」
「んー!」
しつこい私を、ニコライは拒絶した。
パと発音するのは難しいようなので仕方ない。パーパと呼んでくれるのは、まだ先のことになりそうだ。
音声データの最後のところに雑音が入っているが、あれはニコライが、おもちゃを床に投げつけた音だ。
しつこい私に愛想を尽かした彼は、マラートが転がして遊んでいたセルロース製の車のおもちゃを掴んで投げてしまったのだ。
巻き添えにしてしまったマラートには、本当に悪いことをした。
しかし、その直後のマラートの振る舞いには驚かされた。なんと、あの子は泣かなかったのだ。寛容なのは良いことだ。
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