第三章 8

 育児日記。二二三六年、十一月八日。午後十一時。


 それでは、子供たちの免疫を強化するため、第二階層の畜産場に連れて行きましょう。そう通達して新生児保育室を出た妻の後ろを、生後六ヶ月になった子供たちを乗せた六台の自動乳母車が一列に並んで追い、私はその後ろに追従した。


 卵の形をした車輪のない自動乳母車は、底部の球体をモーターで回転させることによってバランスを取りながら走行する仕組みで、一見すると不安定そうだが、揺れは一切生じない。


 貨物運搬用としても使用される広いエレベーターに続々と乗り込む、六つの卵と私たち夫婦。


 静粛性と免震性に優れたエレベーターは、腹の中にある卵たちを少しも揺らすことなく、殻の中にいる雛たちの安眠を邪魔することもなく、目的地である第二階層に到着した。


 私たちはまた一列になってエレベーターを降り、畜産場の入り口前に設けられている検疫室での検疫と局所的紫外線消毒を経て、家畜たちが暮らす広大な生産農場に足を踏み入れた。




 妻が自動乳母車に命令を出し、横回転開閉式の透明天蓋を開いた。


 親指の爪に似た透明天蓋が横開きすると、環境の変化を本能的に感じ取ったのか、子供たちが目を覚ました。


 高い天井には擬似太陽光を注ぐ照明が一面に並び、家畜の健康を助け、牧草を育んでいた。


 左側には巨大な緑の絨毯のような放牧場が広がり、右側には畜舎が建ち並んでいて、その奥には、第二階層の存在意義を象徴する食肉処理場と加工場と魚類養殖施設が見えた。


 私にとっては慣れ親しんだ場所だが、子供たちは驚いたような表情を浮かべながら、興味深そうに辺りを眺めていた。


 このシェルターの畜産場は発育効率を重視していないので、一般的な畜産場とは違って肥育したりはせず、昼間は常に家畜を放牧している。


 広い場所でゆっくり過ごせるので、家畜たちは門が開くとすぐに放牧場に向かう。今日も、肉牛、乳牛、羊、山羊が、思い思いの場所で命を謳歌していた。




 妻は無線接続で乳母車に命令を出し、子供たちを放牧場のど真ん中へと引き連れていった。


 免疫力を向上させるエンドトキシンを作り出すグラム陰性菌は、家畜の糞の中に潜んでいる。畜舎の糞尿は速やかに除かれるが、放牧場は清掃ロボットが取りきれない糞尿が多く残されているので、充分な量のエンドトキシンが空気中に漂っている。




 家畜たちは草をみながら、見慣れない六つの移動球体を遠巻きに眺めていた。


 妻はこちらを眺める家畜たちを見回し、ほどなくして一直線に歩き出した。


 その先にいたのは、淡褐色のジャージー牛の仔牛だった。


 彼女は子供たちに間近で観察させるために、仔牛を捕まえに行ったのだ。


 どれほど荒い手段で連れて来るつもりなのだろうと仔牛の身を案じたが、その懸念は好ましい形で払拭された。


 妻は足元の牧草を素早く摘みながら仔牛に近づき、目の前で牧草の束をちらつかせて誘導して、予想以上に丁寧な所作で仔牛を連れて来た。


 彼女は第一掌握パーツ、つまり人間でいう親指を仔牛から吸われて困惑しながらも、その指をおとりにして、六台の自動乳母車の前に誘導した。


 鹿にも似た可愛らしい仔牛の黒目が、見慣れない物体の中にいる見慣れない生物を捉える。


 第一世代の小さな体は、仔牛にとって何よりも興味を引く存在だったらしく、何の躊躇ためらいもなく妻の掌握パーツを吸うのを止めて、自動乳母車に顔を近づけた。


 仔牛の湿った鼻がマラートの頬に近づいた瞬間、妻のコンピュータに潜在していた戦闘用プログラムが起動した。


 妻は仔牛の口に掌握パーツを突っ込んで無理やり吸わせ、口の内部から上顎を押して、強引に引き離した。


 彼女は仔牛を力ずくで誘導しながら後悔を口にしたが、私は心配ないと諭した。仔牛に驚かされたマラートは、恐怖を抱いていないどころか、初めて目の当たりにした大きな顔の動物に視線を注いで観察しているようだった。弱虫かと思われたが、そうでもないらしい。


 失敗しました。まだ早すぎたようです。妻は苦笑いして肩をすくめながらそう言うと、子牛の尻を撫でたあと、軽く二度叩いて解放してやった。


 その所作を見た私は感心し、家畜の扱いが上手いんだなと賞賛すると、妻は打って変わって真顔になり、平坦な調子で、次のように述べた。


 いいえ、家畜に関する学習映像に出演していた中年男性の真似をしただけです。


 妻は真似が上手いだけで、性能はそれほど高くはない。彼女の機械然とした様子を目の当たりにするたび、私は少しだけ孤独を感じる。


 通じ合っているようで、全く通じ合えていないことが寂しい。

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