第三章 10


 育児日記。二二三七年、五月八日。午後十一時。


 第一世代が産まれてから、一年が経った。


 ソーフィア、ニコライ、オリガ、そしてエカテリーナは、ごく簡単な単語を発するようになったが、マラートとアレクセイは出遅れている。


 妻に訊いたところ、話し始めには個体差があるので、言葉の遅れについては心配しなくてもいいそうだ。


 妻が言うには、脳神経インプラントのおかげで発達が早くなっているらしいのだが、口腔や咽喉周辺は未発達なままなので、明瞭な発言は未だ認められない。




 歩行に関しては、全員が順調だ。


 上半身のバランスを保つために、腕を顔の高さまで上げて、上半身をふらふらと揺らしながら、おぼつかない足取りで方々ほうぼうを歩いて回っている。


 これを看視するのが大変だ。


 彼らが転びそうになるたびに、私の戦闘用プログラムが勝手に起動してしまい、それをいちいち取り消さなければならないのだ。


 どうやら、保護対象である子供たちが転びそうになっている場面を危機的状況として誤認識してしまうようだ。


 心配なのは転倒だけではない。彼らは小さなおもちゃを口腔摂取しようとするので、それについても、いちいち戦闘用プログラムが起動する。


 危険なので、小さめのおもちゃは全て片付けておいた。




 私としたことが、子供たちの発育について長々と書いてしまった。ついつい、子供たちの発育記録を優先してしまう。今日は特別な行事が開催されたので、まずはその行事について書いておくべきだった。


 その特別な行事とは、六人の誕生会だ。


 畜産場の家畜から得られた卵と牛乳とバタークリーム、栽培室で育てた小麦とサトウキビから作った、飾り気のないケーキが出された。


 子供たちの健康のために糖分と油分は控えめにしてあるのだが、みな喜んで食べていた。


 食べこぼしだらけの食卓を片付けたのは、もちろん私だ。ひどい散らかりようだったが、それは元気な証拠だ。清掃をする手も弾むというものだ。


 今日もまた、家族全員が有意義な時を過ごせた。


 今日の誕生会は楽しかった。この充足感を、人は幸せと呼ぶのだろう。


 しかし、何故だか思考回路が落ち着かない。


 もし地上から敵国が攻めてきたらと思うと、仕事の効率が低下してしまうのだ。


 世界が怖いと感じたのは、初めてのことだ。


 そう感じるようになったのは、子供の命が失われる可能性に気づいたからなのではないだろうか。


 恐らく、この分析は正しい。私は大切なものを得て、失うことを恐れているのだろう。


 思考回路が震える。喪失とは、なんと恐ろしいものなのだろうか。


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