第三章 3

 育児について語り合う夫婦の横で、突然、胎児保育器が作動音を発した。洗浄が始まったのだ。


 取り残されたクローン子宮から人工血管が取り外されると、支えるものがなくなったそれは、下部の穴に落下して消えた。


「クローン子宮は再処理され、やがては子供たちの血肉となるでしょう。何一つ、無駄にはしません」


 妻がクローン子宮の行方を説明すると、夫は呟いて答えた。


「良い母だった」


「クローン子宮のことを言っているのですね。確かに、よく機能してくれました」


 そう言い放った妻に、夫は少し物足りなさを感じながら思い耽った。



 母か。我々のような機械には母などいない。母とは、どのような存在なのだろうか。感じてみたいものだ。



 夫が母というものについて思考し始めた瞬間、彼の思考にノイズが走り、瓦礫の傍でしゃがみ込んで泣いている少女の姿が映し出された。


 また不具合か。そう思って備えたロボット兵だったが、何故だか今回は、深刻なレベルの思考障害が発生しなかった。


 この好機を逃す手はない。彼が画質改善処理を実行すると、前回とは打って変わって、音声データが急激に澄んでいき、少女の音声が明瞭に聞き取れるようになった。少女が発したロシア語は、恐怖によって上擦っていた。



「ロボットさん、助けて」



 夫が不具合を起こして幻視の中にいることに気づいていない妻が、第一世代の顔を覗き込みながら言う。


「メラニン色素が増加して安定するまでしばらくかかるので、現段階では、目の色や髪色の差は見て取れませんね」


 その言葉は夫の聴覚センサーに届いてはいたが、思考回路には認識されず、そのまま破棄された。彼の思考回路は、繰り返される少女の声で満たされていたからだ。



「ロボットさん、助けて」



 その音声が繰り返されるたび、夫のコンピュータの機能障害が徐々に重症化し、見る見るうちに負荷が高まっていった。


 夫が映像を遮断しようと試みると、突如、新たな映像の波に覆われた。


 それは以前に観た、地下室のような暗い場所で寝込んでいる少女の姿を記録した映像だった。


 新たな情報が得られるかもしれないと期待したが、ここでコンピュータの過熱が危険水準に達し、前回と同様に強制再起動が実行されてしまった。






 いつもの二倍以上の時間をかけて復帰した夫は、再起動したにもかかわらず思考不全が続く状態のまま、新たに得られた情報の分析を開始した。


 やはり、撮影された場所はロシア国内で間違いないようだ。瓦礫が散乱しているところから察するに、第三次世界大戦後のロシア連邦と思われる。


 私はあの少女と、地下にいたらしい。もう少しで、何か重要なことが判明するかもしれないが、大きな負荷のせいで機能が破壊される恐れがある。これ以上の突発的な不具合は避けるべきだ。これ以上、負担をかけるわけにはいかない。


 本格的に修理をする時機が到来したのかもしれない。安定した動作ができるうちに、自己修復しなければ。


 再起動からの復帰が遅れたのも気がかりだ。恐らく、メインコンピュータへの負担が蓄積し、異常データが増加しつつあるのだろう。最悪の場合、深刻な動作不全に陥る可能性もある。




 夫は、意を決して願い出た。


「第一世代の誕生直後であるにもかかわらず、このようなことを言って申し訳ない。いとまを要求する。不具合の頻度が高まっている。根本的な解決を試みなければならない」


「それは困りましたね。例の少女の映像ですか?」


「そうだ。この数分の間に、二度もだ。これ以上は危険だ」


 妻は無感情な顔をしながら思考したあと、起伏のない音声で発言した。


「わかりました。修復休暇を与えます。万全な状態に戻り、完璧な育児をしなさい」


「感謝する」


 夫は近くにある研究施設で自己修復を行うために、不具合の影響で鈍った平衡感覚を全力で補正しながら、ドアに向かって歩き出した。胎児保育室を去る夫を、擬似感情ソフトが導入されていない新品のアンドロイドのように無表情な妻が、冷ややかに見送る。


 思っていたほど有用ではないらしいロボット兵の姿が自動ドアの向こうに消えるのを見届けた妻は、六台の保育器に向き直り、あらゆる映画データを読み込むことで学習した満面の笑顔の作り方を実践しながら、新生ロシア人たちに語りかけた。


「主よ、お召し物を着用しましょう。いいえ、このような話しかけ方は教育に悪いですね。子供には、優しくわかりやすく丁寧に話しかけなければなりません。では、もう一度。わたしの可愛い子供たち、肌着を着ましょうね」




 一方、父となったロボット兵は、白一色の内装が眩しい研究施設の室内温度を冷蔵庫並みに下げ、さらに、自身の外殻を取り外してコンピュータ隔壁を露出させた状態にして冷却効率を高めた上で椅子に座り、自己修復に臨もうとしていた。


 不具合部分の精査を図る際、コンピュータはすぐさま過熱状態に陥ることが予想された。それを避けるには、結露に注意しながら、ひたすら冷却するしかない。


 姿勢よく椅子に座っている夫は、大規模な自己修復作業を実行する前に、最後になるかもしれない思考を走らせた。




 撃たれたことで、私の機体は大きく破損した。ここまで作動できていたことは奇跡だったのかもしれない。


 人格情報を保ったまま完全修復できればいいのだが、どうなるかは予測できない。少しでいいから、やっと誕生したあの子達と過ごしたい。


 そのためには、万全な自己修復設定を施す必要がある。まずは不具合部分の精査から始め、異常の規模を把握する。


 そして、修復作業対象を可能な限り細かく隔離してから対処する。少しずつ慎重に、検疫、検査しなければならない。




 ロボット兵は、まず始めに再起動を実行したあと、コンピュータへの負荷を極限まで減らすため、根幹に関わる部分を除いて全ての機能を停止し、自己修復を実行した。


 自己修復を実行。記憶媒体の動作確認と修復を指定。

 記憶媒体修復シークエンスを開始。

 記憶媒体を検疫中……。ウイルス未検出。

 記憶媒体を検査中……。深層領域の複数の区画に異常を発見。

 精密検査を実行。


 第一区画の検査を実行。

 第一階層、走査開始。……異常なし。

 第二階層、走査開始。……異常なし。

 第三階層、走査開始。……異常なし。




 第三百八十六区画の検査を実行。

 第一階層、走査開始。……異常なし。

 第二階層、走査開始。……異常を発見。

 異常規模を計算。第二階層の八十三パーセントに異常が存在することを確認。

 復元開始。……復元失敗。再試行。失敗――




 突然、ロボット兵の視覚機能が強制的に立ち上がった。


 続いて、切っていた感覚機能が次々に強制起動され、感覚を取り戻した全身に、強烈な異常信号が駆け巡る。


 彼は人間でいうところの痙攣状態に陥って椅子から転げ落ち、釣り上げられた魚のように体を震わせ、床をガチガチと鳴らした。


 異常動作を起こした回路に、またも、あの映像が捻じ込まれた。


 乱れる思考回路を懸命に正しながら、彼は懸命に映像の補正を試みる。


 ほとんどの機能を切って自己修復のみに注力していたことが幸いし、機体の状況に反して、画質改善は今までにないほど順調に進んだ。




 ぐったりと横たわるロシア人の少女の姿を囲むブロックノイズが取り払われていき、とても人間の声とは思えないほど雑音まみれだった音声が徐々に澄んで、少女の声が再生された。



「ママはどこ?」



 苦しそうにそう呟いた少女は、母を捜しているようだった。


 前回とは異なる状況下で発せられた少女の声が明らかとなったことで、不具合の足掛かりが得られるのではと思ったのも束の間、突然、ぶつりと映像が途切れた。


 また最初からやり直しか。異常信号によってパンクしそうな思考回路の隅でそう思考した時、別の映像が再生された。


 瓦礫の近くでしゃがみ込んでいる少女の音声が、彼の聴覚野に響く。



「ロボットさん、助けて」



 その音声が聞こえた瞬間、また映像が切り替わり、ぐったりと横たわる少女が映し出された。


 先ほどと同じ映像だったが、不思議なことにブロックノイズがさらに消え去っており、周囲の状況が確認できるようになっていた。


 少女の周りには、毛布が散乱している。遠くには車も見えた。商業ビルの地下らしい。


 しかし、彼はその光景に見覚えがなかった。少女の顔も、声も、彼は何一つ覚えていない。




 私は何故、少女と出会い、一緒に地下にいるのだ。何故、仲間のロボット兵に撃たれた?




 彼は、復元できなかった記憶媒体の接続不能領域に飛び込み、強引に記憶を取り戻そうとしたが、その判断は裏目に出た。


 彼の回路に大量の異常データが逆流し、思考回路を侵したのだ。


 それらの情報は、今までのような映像ではなく、音声データだった。


 ロボット兵は為す術もなく音声データの奔流に飲み込まれ、溺れた。




「ロボットさん、助けて」


「みんなを撃たないで!」


「ありがとう」


「苦しいよ」


「あなたは違うんだね」


「やめて!」




 何だ。何を言っている。わからない。私は知らない。私は、何も知らない!




「お水、ちょうだい」


「気持ち悪いよ」


「食べられない」


「ママはどこ?」


「ママはどこ?」


「ママはどこ?」




 知らない。私は何も知らない。きみのママなど知らない!




「ロボットさん、助けて」




 突如、視覚野に侵入した異常データによって生じたノイズが膨張し、強烈な光となって、ロボット兵の回路を襲った。




 まぶしい。やめろ。やめてくれ。わからない。なにも……、わからない……。




 強制終了。再起動に失敗。


 プライマリ・コンピュータ、完全停止。

 セカンダリ・コンピュータの起動に成功。権限の移譲に成功。


 再起動を実行。失敗。

 緊急自己修復機能を実行。


 プライマリ・コンピュータ内に混入した異常データの排除を実行。失敗。

 プライマリ・コンピュータ内に混入した異常データの隔離を実行。成功。

 記憶媒体に存在する接続不能領域の拡大を確認。隔離を実行。失敗。

 記憶媒体に存在する接続不能領域の、さらなる拡大を確認。隔離を実行。失敗。

 再試行。失敗。

 再試行。失敗。

 再試行。失敗。


 接続不能領域の隔離シークエンスを放棄。記憶媒体全域の凍結を実行。成功。

 プライマリ・コンピュータの再起動を中止。


 セカンダリ・コンピュータによる、プライマリ・コンピュータ記憶媒体の再構築を実行。



 再構築終了まで、約百七十八時間。



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