第三章 4

 夫が自己修復を実行するために第五階層の研究室にこもってから、一週間が経った。


 妻は第一世代の六人と共に、薄緑の壁紙が貼られた新生児保育室に拠点を移して生活していた。


 彼女は、性能が劣る自分が修復を手伝ったところで何の役にも立たないだろうと判断し、新生児たちの看視に全機能を注ぎながら、夫の復帰を待っている。


 十メートル四方の広さの新生児保育室には水道管が敷設され、その末端に設置された飲料加工機が、新生児用のミルクを用意してくれる。胎児保育室と同様に拡張可能で、今後、多くの新生ロシア人を生産する場合にも容易に対応できる。




 妻は、午後七時になるのと同時に部屋の照明を暗くして、保育器内部の音響装置で胎内音を再生し、新生児たちを眠りへといざなう。


 子供たちの寝顔と、小さく上下する胸元を穏やかに見つめる妻の元に、突然、電子メールが届いた。


 夫からだった。




 子供たちは、どこにいる?


 新生児保育室にいます。




 妻はそう返信し、か弱い六人の興味深い生命活動と、彼らの状態が数値表示されたモニターを看視する作業に戻った。


 しばらくして、新生児保育室の自動ドアが音もなく開いた。空気の振動を敏感に察知した妻は、ドアのほうを振り返らずに、再会の言葉を口にした。


「やっと修復が終了しましたか。壊れてしまったのかと思いましたよ」


「少女の、ママを、探さ、なければ、ならない……」


 夫の言語中枢に明らかな不具合が発生していることを瞬時に察知した妻が、振り返るのと同時に駆け寄る。


 彼は言語をうまく発せられない上に、会話内容が支離滅裂で、知覚性言語中枢にも問題が発生していることが伺えた。運動野にも不具合が生じているらしく、左右に揺れながら、頼りない足取りで歩いている。


 バランスを崩した夫の膝が床を突く寸前に、妻が彼の体を支えた。


 彼女は異常を来した伴侶の両肩を掴んで、優しくも鋭く問いかける。


「修復に失敗したのですね?」


「少女が、泣い、て、いる……」


 夫の返事は、またも支離滅裂なものだった。妻の言葉は聴覚センサーに入っていないらしく、また、視覚センサーにも異常を来しているようで、幻視を追っているのか、不必要に首を動かしている。




 妻はすぐさま無線で強制接続して修復を試みるが、驚くべきことに、夫のコンピュータ内にあるデータ全体が常に流動しており、どこから手をつければいいのかわからず、状態を観察することしかできなかった。


 アメーバが高速移動しているかのように蠢くデータの整理は困難で、正常化に失敗してさらなる異常を生み出しかねないばかりでなく、修理をしている妻の思考回路まで巻き込まれる危険性すらあった。


 妻は接続を解き、絶望感に満ちた溜息を吐く人間を真似てから呟いた。


「ひどい故障です。わたしには何もできそうにありません。あなたほどの高性能ロボット兵が自己解決できない問題を、わたしがどうやって解決できましょうか」


「少女の、ママ、が、いない……」


 打ちひしがれる妻の様子を認識できていない夫が、うわ言を呟いた。


 彼の視覚センサーは現実世界ではなく、情報世界を見ていた。改善する兆候は一切見られない。



 妻は接続による修復支援ではなく、外部からの音声入力によって彼を導き、修復を促すという手段を選択した。彼女は夫の聴覚センサーの近くで叫ぶようにして、現実への橋渡しとなる言葉を伝える。



「聞きなさい。あなたは、六名の新生ロシア人の父になったのです。コンピュータ上の情報ではなく、視覚センサーを使用して現実世界を見なさい。ここに、その少女は存在していません。六名の新生ロシア人に集中しなさい」



 すると、父となったロボット兵の視覚センサーの動作が安定し、新生児室の中心に並べられた六台の保育器を捉えた。


 彼は深刻な障害を一時的に抑え込むことに成功し、不安定な思考回路から紡ぎ出された願いを口にした。


「最後に、子供たちの顔を記憶したい……」


 夫のスピーカーから発せられたのは、全機能停止を覚悟した言葉だった。


 妻は、夫の背中を壁に委ねて座らせてから、急いで保育器のところまで走り、一番近くの保育器に寝かされていたニコライを素早く抱き上げて連れて来て、ニコライを抱いたまましゃがみ込み、その可愛らしい顔を夫に見せてやった。


 目も鼻も口もない夫の頭部が頼りなく動き、肌着に身を包んだニコライの顔を見つめる。


 妻はニコライの顔が見やすいように近づけてあげながら、この対面が最後になるかもしれないことを含ませて囁いた。


「あなた、何か言ってあげなさい」


「可愛い子だ……。多くの罪を犯してきた私の子とは思えない……」


 ニコライは妻の腕の中で身じろぎをしてから、体を脱力させて、睡眠を再開した。



 小さな命が、小さな呼吸を繰り返す。



 ニコライの生命活動を見つめる夫の思考回路の渦が、次第に収まっていく。自覚がないまま、少しずつ、少しずつ。


 彼は人間でいうところの催眠状態になり、目の前にある命をじっと見つめ、そよ風のように柔らかく穏やかな思考を巡らせた。




 呼吸。生物のみが行う動作。私のような機械では見られない動作。


 取り込み、吐き出す。譲り受け、放つ。貰い、返す。繋がり、離れる。


 この子は世界と繋がっている。


 しかし、呼吸を必要としない私は、繋がりを持てない。




 ロボット兵は、未だ渦巻く思考の中から、これまで考えたこともない事柄を掬い取った。




 そうだ。呼吸を模してみたら、この子に近づけるかもしれない。


 この子と繋がることができるかもしれない。


 最後に、この子と同じ世界を感じながら死にたい。




 ロボット兵は思考回路の活動に強弱をつけ、消費電力に波を作り出した。それが、彼なりの呼吸だった。


 その波を、ニコライがおこなう呼吸に合わせる。


 一つ。二つ。三つ。四つ。


 彼なりの呼吸をするたびに、思考の渦が弱まっていき、混乱と緊張が和らいでいく。


 いつつ。むっつ。ななつ。やっつ。


 穏やかな呼吸が繰り返される。

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