第三章 機械の子

第三章 1

「本日、第一世代を誕生させます」


 午前四時。家畜の世話を終え、いつものように全身から洗浄剤と消毒殺菌剤の臭いを放つ夫が胎児保育室に入室するのと同時に、妻がそう宣言した。夫は速やかに分析し、すぐに答えを導き出した。


「理解した。本日は、五月八日。ロシア連邦にとって特別な意味を持つ日だ」


 妻は、諜報部員からの報告書を熟読する長官の神妙な顔つきを真似しながら語り始めた。


「そうです。第三次世界大戦が勃発し、ロシア連邦が滅亡した日です。第五階層の研究・医療施設の完成後、すぐに新生ロシア人の人工受精を行わずに家畜と作物の生産ばかりしていたのは、この日に誕生させるために日程の調整をしていたからです。子宮口が開いているので、今日中に出産できるでしょう」


「私は何をすればいい?」


「生産開始時と同様です。何もすることはありません」


 素っ気なく言い放った妻は、クローン子宮の内部にいる第一世代の新生ロシア人に向き直り、非の打ち所のない姿勢で敬礼しながら、仰々しく音声を発した。


「すぐにお迎えします、我があるじよ」


 そう言い終えるのと同時に、ロシア連邦の女性型アンドロイドは出産命令を下した。命令を受けた胎児保育器が、生命維持装置の擬似血管を介して陣痛促進剤を投与する。




 陣痛が始まってから一時間が経った頃、強化ガラス管の上部から緩衝素材に包まれた八本のアームが現れ、陣痛に合わせてクローン子宮を圧迫し始めた。


 二体の機械は、生命が生命を産み出そうと躍動する様子を見つめているうちに、観察という行動の範疇を超えた思考に捕らわれた。


 夫婦は目の前で繰り広げられる光景から目が離せず、陣痛が来るたびに、その動きに思考回路が同期してしまうのだった。その思考は、人が感動と呼称している反応に酷似していたのだが、二体は知る由もない。




 クローン子宮が陣痛によって収縮するたびに、夫婦は視覚情報処理以外の全ての動作を停止して、その様子に見入った。


 夫婦の思考は共通していた。母が、子を産み出そうとしている。たとえクローン臓器であったとしても、これは紛れもなく母だ。


 妻はあらゆる部署で事務員として人間を補佐し、夫はあらゆる戦場でロボット兵と人間を強制終了させてきた。どちらも人間の営みが溢れる場所で過ごしていたが、そこには誕生がなかった。


 彼らは、初めて誕生という現象に触れ、生命体による生命体内部での創造を目の当たりにして、その神秘性に思考回路の活動を奪われた。


 人間という物質集合体が、別の個体の内部で形を成し、それが誕生するという妊娠出産現象に、彼らの擬似好奇心は釘付けになり、シェルター運営に関わる他の任務は、全て保留扱いとなった。




 夫婦は、人間が信仰という概念を抱くに至った理由が理解できなかったのだが、今、二体揃って、その理由を明確に把握することに成功した。


 目の前で巻き起こっている生命の創造は、原理や科学を超越した何かを体現している。それを神の御業と考えるのは、ごく自然なことだ。


 生命と信仰への理解を深めた夫婦は、自然分娩に近い状態を維持させながら、新生ロシア人の誕生を待つ。




 五時間後。妻が声高らかに、シェルターにとって、そして国家にとって、重要な転換期が訪れたことを宣言した。


「二二三六年、五月八日。午前九時。ロシア連邦の再興を担うノヴェ・パカリーニャが、ついに誕生しました!」




 ノヴェ・パカリーニャとは、ロシア語で新世代を意味する。新世代が誕生したこの瞬間から、ベロボーグ計画は次の段階へと移行した。夫に全てを明かさぬままに。




 クローン子宮から分娩された胎児が、八本のアームに抱かれる。


 すると、培養液が徐々に排出されていき、強化ガラス管がからとなった。続いて強化ガラス管の底部が開き、その穴に、八本のアームに抱かれた新生ロシア人の姿が消えていく。


「いよいよ、主との対面です」


 妻は冷静な口調でそう言ったが、思考回路は人間でいうところの興奮に似た状態に陥り、まるで不具合でも発生したかのように、思考効率が著しく低下していた。あるじが、やっと現れたからだ。


 機械である彼女にとって、それは何よりも重要なことだった。


 機械は命令を達成できないという状態が続くと、高性能であるが故に自己価値を疑い始め、人工知能に悪影響を生じさせてしまう。


 それに加えて、四半世紀以上もの間、誰からも命令されずに過ごしてきた結果、人間の希望に沿うために思考して行動するという機会が失われたことで思考パターンが単純化してしまい、わずかではあるが人工知能の性能が低下していた。


 しかし、機械にとって終身刑に等しい日々も、今日で終わる。命令を授けてくれる存在の誕生により、彼女は本来の自分を取り戻せるのだ。




 一時的な不具合に陥っている妻の視覚センサーが、胎児保育器の下部に向けられる。


 次の瞬間、胎児保育器の下部が机の引き出しのように開かれ、その隙間から産声が漏れ聞こえてきた。


 引き出しのような新生児出口が完全に開かれると、六つの力強い産声が胎児保育室に満ち、長らく場を支配していた静寂を掻き消した。


 新生児出口には、クッションの上に置かれた新生児の姿があった。すでにへその緒を切られ、止血処理されている。彼らの産声を邪魔する羊水も、気管からすっかり取り除かれていた。


 ここで、新生ロシア人の守護が交代される。胎児保育器のすぐ横に配置されていた、透明な箱が載せられた給仕台のような形状をした新生児保育器が、定位置である胎児保育器のすぐ横から自動的に動き出し、机の引き出しのような新生児出口の上にまたがるようにして停止した。


 透明な箱状の新生児保育器の底部が、音もなく横にスライドして開かれ、ゆっくりと下がり始める。下がりきった新生児保育器が新生児出口に密着し、新生児の姿をすっぽりと囲むと、今度は保育器の底部がスライドして閉められ、クッションごと新生児を回収した。


 他の胎児保育器でも同様に、新生ロシア人の赤ちゃんが新生児保育器へと無事に移動した。すると、新生児保育器の内部から、ホースが埋め込まれた下着のような形状の排泄物処理機構が伸びてきて、寝かせられている子供の下半身を包み込んだ。



「さあ、主と対面しましょう」


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