第二章 21
二二三六年、三月。
小さなロシア連邦に所属する二体は、年をまたぎながら第六階層の公園と運動場を完成させた。
夫の願いどおり、広大な公園には本物の土が敷き詰められ、天井からは人工太陽光が降り注ぎ、全面に高解像度のディスプレイが設置されたことで、まるで地上にいるかのような錯覚を起こさせる空間を作り出すことに成功した。
家畜の中で最も妊娠期間が長い肉牛と乳牛も無事に誕生し、あとは新生ロシア人の誕生を待つだけとなった。夫婦は胎児保育室に常駐し、たまに家畜の世話をしに行くなどしながら、二体そろって胎児を看視し続けた。
妻は出産を二ヵ月後に控えて大きく膨れたクローン子宮を眺めながら、次の段階へと進むことを告げた。
「そろそろ、胎児に頭蓋骨固定型の脳神経インプラントを施しましょう。産まれる前に施術すれば傷が残らず、インプラントが脳によく馴染み、不慮の損傷も防げます」
起こり得る不測の事態を予測した夫が、質問を投げかける。
「不都合な作用が生じることもあるのでは?」
「有り得ません。世界的には普及していなかったようですが、我が国では国策として導入が推し進められていたので、脳神経インプラント技術が向上しました。例えばアメリカ合衆国では、病人や、一部の特殊部隊にしか施されておらず、とても不安定ですが、我が国の脳神経インプラントは普及率が高く、技術が成熟しきっているので心配いりません。頭蓋骨固定型の脳神経インプラントは、頭蓋骨を包み込むようにして埋め込むシート型のコンピュータで、頭蓋骨に微細な穴を開け、そこから脳に電極を挿入することで、直接的に脳と情報のやりとりができるようにする機器です。入力出力ともに反応が極めて速く、なにより正確です。使用者の遺伝子情報を持たせた有機パーツで包むことによって、拒絶反応を防げます。このインプラント機器を埋め込めば、思考するだけでコンピュータに遠隔接続できるようになるだけでなく、脳の視覚野に画像や映像を直接送信することで、ディスプレイや眼鏡型端末がなくとも情報を閲覧できるようになります。端的に言えば、機械である我々のように情報を取り扱うことができるようになるのです。さらに、このインプラントは内部に生体培養デバイスを搭載しており、脳細胞を物理的に取り込んで培養することで脳内物質を自在に生成できるようになり、電気信号だけでなく脳内伝達物質も併用して、脳と同様の活動を行えるようになっています。つまり、脳の機能が拡張されるわけです。生体代謝を利用した発電機構によって半永久的に動作するので、バッテリーの交換も充電も必要ありません」
説明を聞いている間、夫は何度も頷いていた。擬似好奇心が激しく反応している証拠だ。
「人体を生体コンピュータ化するようなものだが、危険はないようだな。賛同する」
夫がそう言って、脳神経インプラントを施された子供たちがどのように成長するのかを模擬描写した、その時だった。
ブロックノイズに
青い瞳をした少女と、視線が絡み合う。
彼女は、瓦礫の傍でしゃがみ込んだままロボット兵を見上げて何かを言っているのだが、ノイズが激しく、その表情は読み取れない。
前回、画質改善処理に成功したのは、少女が地下室のような場所でぐったりと横たわっている場面の映像であり、現在再生されている映像とは異なる。現在見えている映像は、激しいノイズに
彼は画質改善機能によるノイズ処理を試みるも、回路の不具合のせいでうまく行かず、映像の中の少女が何を言っているのかは読み取れなかった。
しかし、それでも彼は諦めず、渦巻く回路を懸命に操って、映像を制圧するノイズを掻き分け、不快な異音の奥に埋もれた音に手を伸ばし、映像の改善処理を継続する。
コンピュータの過熱が限界に近づいたとき、映像を覆い隠していたノイズが徐々に取り払われていき、突如、少女の顔が明らかになった。
少女の口が言葉を発するために動き始めたとき、ロボット兵の視界が暗転した。あと少しのところで、故障を防ぐための強制再起動が実行されてしまったのだ。
再起動した夫が、不具合に陥っていたことを妻に知られるのを覚悟した上で呟いた。
「やはりロシア人の少女だった。彼女は恐怖し、泣いていた」
妻はすぐに感づいて、夫の回路に無線接続し、状態をつぶさに検査しながら言った。
「また不具合を起こしていたのですね。そのロシアの少女とは、ノイズ混じりの映像で見たという、六歳ほどに見える少女のことですか?」
「そうだ。ノイズの除去に成功して、ようやく顔が見えた。どうやら過去の私は、瓦礫が散らばるロシアの地で泣いている少女と遭遇し、その後、ぐったりと横たわる少女とも遭遇しているらしい。ノイズが酷く、顔が完全に見えないので断言できないが、これらは同一人物の可能性がある。私は、この少女のことを把握したい。そうすれば、失われた記憶も復旧できるのではないだろうか。意図的に不具合を再現し、画質改善処理を行えば――」
「馬鹿馬鹿しい。黙りなさい。どのような目的があろうとも、我々は不具合を避けなければなりません。我々機械は、常に万全な状態を保つ義務があるのですよ」
夫の言葉を遮って激しく叱責した妻は、夫の返事を待たずに自動ドアへと歩き出した。
胎児保育室に、培養液を循環させる生命維持装置の動作音と、妻の足音だけが響き渡る。
彼女は開いた自動ドアの前でぴたりと立ち止まり、振り返らずに発言した。
「全性能を注いで、不具合を避けなさい。あなたには新生ロシア人を守るという使命があるのですから。わたしは、発注した脳神経インプラントを取ってきます」
退室したロシア連邦の女性型アンドロイドは、貨物運搬用としても使用される大きなエレベーターに乗って第一階層の工場を目指しながら思考をゆっくりと走らせ、伴侶の扱い方を再検討した。彼女の擬似表情筋は、微動だにしない。
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