第二章 20

 二二三五年、十月一日。


 新生ロシア人の人工授精から、二ヵ月が経った。六個の受精卵は、それぞれの母親の遺伝子から作り出されたクローン子宮に差し支えなく着床し、万全の体制の下で着々と成長している。


 クローン子宮を支えている透明な有機素材も、母の遺伝子に由来する物質で作られているので、拒絶反応は起こり得ない。強化ガラス筒の中に浮かぶ、命を孕む母の欠片が、絶えず送り込まれる新鮮な培養液が生じさせる微弱な対流によって、微かに揺れる。






 掘削作業を中断し、新たに誕生した二十頭の仔羊と十頭の仔山羊を自動哺乳器のある畜舎に移し、すっかり成鳥となった鶏と、離乳して食べ盛りとなったうさぎと仔豚の世話を終えて久々に胎児保育器室を訪れた夫が、妻の隣に立ってクローン子宮を見るなり言った。


「海底に漂う、ナヌカザメの卵のようだ」


 突然に発せられた夫の言葉に、妻は今日はじめて胎児保育器から視線を外して指摘する。


「これは鮫の卵ではなく、人間の子宮です」



「それは理解している。比喩表現をしただけだ。クローン子宮が培養液の循環によって揺れる様子が、先日データベースに無線接続して視聴した自然ドキュメンタリー番組に出てきた、ナヌカザメの卵に似ていたのだ」



「そのような生物がいるのですか。それは知りませんでした。わたしは、シェルター運営や人間育成に関連しない情報は保存しないようにしているので」



 そう白状した妻の顔を視覚センサーの中心に捉えながら、夫が苦言を呈する。



「この子たちが産まれたら、そうも言っていられなくなるだろう。育児資料映像を観て知ったのだが、子供というのは、ある程度成長すると質問ばかりするようになるらしい。特に、動物には格別の興味を持つのだとか」



「ああ、そういった目的で調べているのですか。あなたの言うとおり、人間は幼い頃から勉強熱心ですね。では、学業に関する知識だけでなく、動物について満足な問答を成立させられるよう、情報を保存しておくとしましょうか。あなたも、今のうちに多くの情報を保存しておくとよいでしょう」




 夫婦は胎児の看視を続けながらメインコンピュータに無線接続し、それぞれが必要だと判断した育児情報を追加ダウンロードして読み込んだあと、コンピュータ上で育児の模擬訓練を開始した。


 妻が順調に育児の模擬訓練を行うのに対し、夫は模擬訓練の実行に失敗していた。また、例の不具合を発生させていたからだ。




 彼の回路はまたも深刻な思考障害を起こし、再起動した時に見たノイズだらけの映像が繰り返し再生されてしまうという不具合に支配され、何も思考できなくなっていた。


 ロボット兵の思考回路を満たす、ぐったりと横たわっている六歳くらいの少女の映像。


 主観撮影されたその映像が繰り返されるたび、彼のコンピュータの温度は上昇し、コンピュータを消耗させる。


 そんな中、彼の画質改善機能が自動的にブロックノイズを修正していき、ぼやけていた少女の目元が、徐々に明らかになっていった。




 改善された映像を目の当たりにした夫が、かろうじて思考する。




 ああ、そうだ。この目だ。私は覚えている。この青い瞳の少女だ。目元だけでなく、口元も、わずかではあるが確認できるようになってきた。やはり、口が動いている。少女は何かを言っている。




 高い負荷のせいで思考が定まらない状況下で、ロボット兵は無音だった音声の復元を試みた。


 復元後の音声は、とても人間の声とは思えないほどの雑音程度にしか改善されず、少女が発した言葉は解析できなかった。ノイズのせいで口元の動きもはっきりしないため、唇の動きを読むこともできない。


 彼は繰り返される映像と耳鳴りのような音声ノイズを停止させられず、ひたすら耐えるしかなかった。




 三分後、コンピュータの過熱が危険水準にまで達したのを感知したロボット兵のコンピュータの緊急プログラムが自動的に作動し、暴走状態にある回路を強制的に停止させ、再起動を実行した。




 彼は復帰してすぐ妻の様子を伺ったが、どうやら不具合を起こしたことには気づかれていないようだった。安堵したロボット兵は、また一つ明らかになった不具合の発生条件を分析した。




 どうやら子供に関することで熟考したり模擬訓練を実行すると、不具合が発生するようだ。残念だが、控えなければならない。近いうちに、根本的な改善をしなければ。




 そう思いながらクローン子宮を見つめ直す夫に、妻が笑顔を真似てみせながら言った。


「模擬訓練が終わったようですね。さて、急ですが、少し時間を拝借します。あなたに見せたいものがあるのです。興味深いものですよ」


 妻は天井付近で浮遊している電磁浮遊ライトを遠隔操作して、クローン子宮の向こう側に配置し、指先の動きで電磁浮遊ライトに指示を出して位置を微調整して、光がクローン子宮に当たるようにしてから、光の強さを強めるように命じた。


 指示に従った電磁浮遊ライトがクローン子宮を薄桃色に輝かせ、その内部にいだかれた胎児の姿を浮かび上がらせる。


「とても綺麗でしょう?」


 妻は母親特有の、眠気に似た穏やかな心地が混在する微笑みを真似て見せながら、柔らかに呟いた。夫が、ゆっくりと頷きながら感想を述べる。


「きみの言うとおりだ。興味深く、そして美しい。人が形を成している。血が通っている。拡大して見てみろ。赤血球が全身を駆け巡っている」


「わたしも、すでに確認しています。命の象徴が巡っていますね」


「命は巡るものだと書物データに記されてあったが、こうして実際に観察できるとは思わなかった。命の象徴が胎盤を介して胎児へと受け渡され、巡っている。親子を繋いでいる」




 夫婦は、新生ロシア人の子供たちが生まれ来る日を想像した。


 妻はその命を胸に抱くところを模擬訓練し、夫は不具合が発生しないように子供の想像画像を制作し、それを視界の片隅に飾った。


 ベロボーグ計画の核心が本格始動する日は近い。

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