第16話 このあとのこと
琴音さんとの抱擁が終わると、僕らは顔を真っ赤にしながら隣同士で座った。それでも、お互いに微笑んでいるのがわかった。何か強い繋がりみたいなものを感じる。並んだコーヒーカップは綺麗に空になっていて、あの芳しい香りの残り香すら残らなかった。僕は何を言えばいいかわからなかったけど、それは琴音さんも同じだと思う。ただ、お互いがお互いのそばにいることしかできない。不器用な僕にも、恥ずかしがり屋の琴音さんにもこれで精一杯なんだ。だから、この少し気恥ずかしい静寂を楽しもうと思った。
しばらく経ってのことだった。静寂は破れ、開け放たれたドアからは弦悟さんが入ってきた。並んでいる僕らを見て、ニヤニヤしているのがはっきりわかる。部屋の外で見ていたのは感じていたけど、ここまで躊躇なく入ってくると大物感がすごい。弦悟さんの顔に心配や不安の表情はなく、ただ単純に僕たちの再開を喜んでくれているのがわかる。弦悟さんは僕らのソファとは反対側のソファに深く腰掛け、満足げに大きく息を吐いた。どうやら何かを咎めるつもりは無いようだ。それでも僕と琴音さんはなんと切り出していいか分からずテーブルの上の空のコーヒーカップを見つめていた。底面に少し残ったコーヒーの膜に僕の情けない顔が投影される。
「何はともあれ、二人ともが命に別状がなくてよかった。琴音も風矢くんもなかなか大きな怪我だと聞いていたからね。」
命に別状がない。この言葉が重くのしかかる。僕はいいとしても、琴音さんは完全に「無事」と言える状態にはならなかった。この一言は、そういう意味合いを含んで聞こえる。弦悟さんがそんなことを考えてはいないと思いたくても、僕の中に根差した罪悪感はそれほどに深いものなんだ。きっと今日ほど人の言葉が怖い日は一生来ないだろう。そう言い切れるほどに僕は恐れていた。僕の不断に対する報いを。
「恐らく聞いているとは思うが、琴音の足には後遺症が出るそうだ。医学には疎いから詳しくはまだ把握できていないが、右足を自力で動かすのが困難になるらしい。」
涙は出なかった。あまりにも残酷な真実は、人から泣く力すら奪い去るようだ。僕は精一杯の力で琴音さんの方を向いた。視線の先には、残酷な真実に襲われた僕の救えなかった女性が目の前の虚空を見つめていた。何も言えない。さっきは再会を喜んで抱き合ったのに、今は真反対の状況になっている。
「本当に…ごめんなさい…。あれだけ近くにいたのに…何も…何もできなくって…本当に…。」
僕の心はついに音を上げた。迫りくる後悔と嫌悪の波に僕の心は耐えられなくなった。絞り出した言葉は、か細く、か弱く、何とも情けないもので、それが余計に心に追い打ちをかけた。
「…………なぜ、謝るのだね。君は琴音を守ろうとしてくれたんだろう?なぜ自分を誇ろうとしないんだ?」
「あの一瞬…迷わなければ…迷わなければ救えたはずなんです…。それなのに、僕は飛び出せなかったんです…。」
沈黙が流れた。漏れ出る嗚咽を抑え込むのに必死で、僕の耳は周りの音を遮断し始めた。
「…君は、変わらないね。あの頃から…」
「へっ?」
「いや、」
弦悟さんは一つ咳払いをして、僕の顔に向き直った。
「君はしっかりと琴音を守った。その傷だらけの体がそのことを物語っている。君が木片を受け止めたから、琴音は死なずに済んだんだ。」
弦悟さんはそれしか言わなかった。落ち着いた口調で、なんの躊躇いもなく言い放った。その気持ちがいいまでのいい切り方に、喉の奥に引っかかっていた錘みたいなものがストンと落ちた気がした。僕は俯いた。手の平はダムが決壊したように汗まみれになっていて、ズボンにシミができていた。
随分と、長い時間が経った。僕たちは何も話さず、ただ座っていた。僕はこの空間が少し心地よくなってきていた。少し暖かい部屋の中に、愛おしい人の香りがコーヒーと混ざり合っていく。平常心と落ち着きを取り戻しながら、僕はこの瞬間を心から喜んだ。
弦悟さんが帰ったのは夜遅くだった。
「いや、長らく時間を取らせて済まなかったね。何か困ったことがあれば、いつでも言いなさい。」
僕は軽くなった首を威勢よく縦に振った。タタッと、床に水滴が落ちた。
「止まっても、悩んでもいい。ただ、辞めることはいけない。君と琴音が負った傷は、君と琴音で埋めるんだ。」
とても優しい、優しい声だった。腹の底を撫でられて、むず痒く、それでいて柔らかい。そんな声だった。
「わかったね。」
そう言うと、弦悟さんは僕らの返事を待たず玄関から出て行った。
「…行きましたね。お父さん。」
琴音さんはポツと言った。その声には、安堵の様子が込められている。やはり、緊張していたのだろう。
「そ、そうですね…。」
ぎこちない会話だ。こういう時に気の利いた事を言えないのが僕の本質なのだ。
…傷を、埋める。
どうすれば良いだろうか。琴音さんの負った傷をどうやって埋めればいいんだろう。足には後遺症が残る。どう考えても、今まで通りの普通の生活は難しい。僕は琴音さんを見つめる。少し焼けていた肌は、白くなっていた。細い体がさらに細くなり、今にも折れそうなほどに、弱々しく立っていた。僕はこの人に何をしてあげられるだろうか。答えの出ない、というか、答えの存在し得ない問題に僕は直面した。何も琴音さんの傷は後遺症だけではない。心にだって傷は残り続けるのだ。彼女は弱い。少なくとも体は。僕よりずっと。
守ろう。そう誓った。僕が彼女の足となり手となり、彼女の平穏を、自由を、意思を守り続けよう。それしかできない。僕には、他にできることなどないし、他にやるべきことはない。
「琴音さん。」
僕が守ると決めた人は、その綺麗な瞳をこちらに向けた。
「僕が、必ず守ります。今度こそ、必ず。」
玄関を照らすオレンジ色の電球のせいか、彼女の顔は、明るく染まった気がした。
パスタとコーヒーと青春群像劇 三風 風矢 @0522Mochiduki
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