第15話 謁見 涙
ジリジリ蒸し暑い道。今から家に帰っても怒られないんじゃないか?そう思えるほどに、学校への道は暑く、遠かった。感動を覚えるほどの残暑が残り、観光客を本土に送りきった島は、いつもの平穏と静寂を取り戻していた。夏休みはまだある。僕は今、クラス当番で回ってきた、金魚の餌やりのために学校への歩みを進めているのだ。許されるのであれば行きたくない。帰って寝たい。しかし、それでは金魚が死んでしまう。金魚には何の罪もないのだ。ため息が出る。
あの日以来、一度も音川さんの家には行ってない。行ってはいけない気がしている。僕みたいな何もできないヤツが行ってはいけないのだから。汗でワイシャツが体に張り付く。気持ち悪い。僕はボーッとしながら歩き続け、いつしか学校についていた。サビまみれの校門をこじ開け、いつだったか走った校庭を横切り、昇降口へと向かう。下駄箱の蓋を開けて、乱暴に靴を放り込む。ゴムと木のぶつかる音がして、靴は乱雑に止まった。4階にある自分の教室に向かう。夏休みの学校は気持ち悪いほど静かだったので、誰もいないのを理由に、職員室への登校連絡はしないことにした。教室の中では、金魚がボケーっと泳いでいて、少し濁った水槽の中をあてもなくさまよっていた。僕はポンプが動いてることを確認して、餌の容器を手に取る。ひとつまみして水槽の中に入れてやる。パクパクいいながら呑気に食べているコイツが、途方もなく羨ましい。金魚が食べ終わるのと同時に、一つため息をして、僕は教室を出た。用事は済んだ。帰って寝よう。何かする気には、きっとなれない。
しかし、すぐに帰るってわけにはいかなそうだ。校門の前に車が止まっていた。ウェンツ?パンツ?そんな感じの名前の車だと思う。誰もいない夏休みの学校に、一体何の用事だろう。なるべく早足で車の横を抜けようとしたら、声をかけられた。
「三風様、三風風矢様でござますね?」
?なんだ?なんで僕の名前を知っているんだ?借金とかはした覚えはないし、こんな車に乗るような人とも面識は、多分ない。僕は恐る恐る頷いた。
「なんで僕の名前を知っているんですか?何か以前にご迷惑をおかけしましたか?」
人間、本気で心当たりがないと、足がすくむんだな。僕に声をかけた男は、笑いながら首を横に振って、
「いえ、ある方があなた様にお会いになりたいと言っておられまして、私はその使い、と言うわけです。」
なるほど。ますます分からなくなってきた。誰だろ?心当たりは以前ない。でも、この人が悪い人とも思えなかったから、僕はついていくことにした。その旨を伝えると、男は丁寧な対応で僕を車の中に案内して、走り出した。
何となく事態が掴めたのは、目的地に車が着いた時だった。車は、今僕が一番来たくない場所に止まった。琴音さんの家だった。なるほど。とうとう、来たるべき時が来たようだ。例えどんな結末になろうと、僕は受け入れる覚悟を固めた。そして、その覚悟とともにインターホンを鳴らそうとした瞬間、玄関が強く開け放たれた。
そこには、黒い髭を生やし、不動明王の如き眼光で僕を見つめる男性が立っていた。へ?何だろう。僕はロシアの領海でカニ取りでもさせられるのだろうか。奈菜。ごめんな。お兄ちゃん、どうやらここまでみt
「おー!!おーおー!!うんうんうん!!!君がね!うん!聞いてるよ!!おー!」
とっても陽気な人そうだ。頭のネジの代わりに練りわさびを入れても、カニ取りを人に強要する人では無いと思う。その人は結構な大柄で、195くらいはありそうだった。
「いや!琴音から話は聞いてるよ!!何でも、すごく良くしてくれてるそうじゃあないか!」
「は、はぁ…。こ、こちらこそお世話になってます…。え、えっとぉ…」
取り敢えず、誰なのかは知っておきたい。僕は名前を尋ねた。するとその大柄の男の人は、
「ワシの名前は、音川 弦悟(おとかわ げんご)じゃ。琴音の父親にあたる者じゃな。」
これで何とか、カニを取りに行く羽目にはならなそうだ。
「君が、風矢くんじゃろ?話には聞いてあったが、実際に会ってみると大きいのぉ!」
僕は、この忙しないテンションに振り回されるがまま、玄関を通り、リビングへと連れてこられた。そして、そこにいた人を見て、体が固まった。
琴音さんがいた。白いワンピースの裾からは、白い包帯が巻かれているのがわかった。僕が立ち去ろうとすると、弦悟さんは凄まじい力で、僕をリビングの中へと押し込んだ。そして、僕らを2人っきりにした後、少し笑いながらドアを閉めた。バタン。乾いた音が部屋の中に響く。僕はとうとう覚悟を決めて、琴音さんの向かい側に座った。ソファの触り心地は、とんでもなく最悪だった。机を挟んで向かい合う。机の上にはコーヒーがカップに入って、2人分用意してある。最高の温度。湯気でわかった。空気に耐えきれなくて、一気に飲み干す。酸味の少ない深い味だ。
さっき覚悟を決めたのに、まだ何も出来ていない。琴音さんは、ムッとした表情で、机の上のコーヒーを見ている。しばらく沈黙が続く。部屋は全くの無音だった。それでも、その静けさが壊れる時が来た。僕は琴音さんの顔をしっかりと見て、
「すみませんでした。本当に、本っ当に、すみませんでした!!」
泣きながら謝った。悲しさよりも、悔しさで泣いた。目の前の琴音さんの輪郭がボヤボヤになっていって、何度拭っても、なおることはなかった。すると、 よく見えなかったけど琴音さんも意を決したように、
「怪我の方は、もう、平、気なんですか?」
涙ぐんだ声を僕に投げかけた。僕はがむしゃらに首を縦に振って、何度も大丈夫です、と言った。それから、ギィと音がして、琴音さんがソファから立った。そのまま机の横を通って僕の右隣で立ち止まった。だんだんと彼女の輪郭を捉えることができた。僕の見た彼女は、酷く泣いていてとても弱々しかった。次の瞬間には、僕らは抱き合っていた。捉えていた輪郭はまたぼやけ、目の前には天井の白だけが映った。それでも、彼女を感じた。漂う可憐な香りが、手のひらに触れる嫋やかな髪が、胸に感じる鼓動が。
そして、どこか懐かしい感じが。
その全てを、僕は抱きしめた。
全てが彼女だった。
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