ばらいろは夕日隠れに

サトミサラ

第1話

 どこか遠くで、走る足音が聞こえる。ちらりと窓の外を見やると、陸上部が練習を始めたところらしかった。地面を蹴るたびに砂煙が舞い、暑苦しいコーチの声が飛んでは部員が返事する。最前を走りながら後輩を気にかけるのは、部長の市村先輩だった。

 俺はこの時間、どんなに暑くても窓を開けない。真っ直ぐすぎる市村先輩の声が怖かった。じっとその走る姿を見ていると、ふと目が合った気がして机に突っ伏す。一問も解けていない数学のプリントがくしゃりと音を立てた。汗が背中を伝って、シャツが張りつくのが気持ち悪い。何か悪いことをしているわけでもないのに、俺は息をひそめて、その時間をやり過ごす。やっぱり帰ればよかった。先の汚れた消しごむを人差し指でつついてやると、ペンケースにぶつかって弱々しく動きを止めた。その情けない動きで一気に緊張が解けて、俺は大きく息を吐きだした。顔を上げると、窓の外の陸上部は各自の種目の練習を始めているらしかった。一年前、俺もあの中で泥にまみれながら必死で走っていたはずだった。長距離走を専門とする俺は、よく高跳びの重たいマットを運ぶのを手伝っていた。汚れた手で額の汗を拭うと、泥のにおいが鼻を刺した。

 そこまで思い出して、俺は首を横に振った。去年の冬、バスケ部を辞めた友人が楽になるぞと笑っていた。楽になんかなるもんか、俺は今も苦しくてしかたない。走っているときみたいな息苦しさを、俺はまだ胸に抱えたままだ。むしろ土を蹴っていたあの頃のほうがいくらか気楽だった。無責任にも笑っていた友人はさっさと帰ってしまったが、俺は彼の席をにらみつけた。

 風の強い日だった。入学したばかりの春の日、部活に入る気のなかった俺は早く帰ろうと昇降口を出たところだった。光が突然、俺の目の前に飛び込んできた。

「よかったら陸上部に入らないか?」

 短い黒髪もはきはきとした話し声も、いかにも運動部のものだった。自分とは真逆の人だと思った。視線はどう見ても隣にいた九条そっちのけで真っ直ぐと俺に向けられている。俺はこの先輩と知り合った覚えもなければ、目をつけられることをした記憶もない。強いて言うならば中学時代は陸上部だったから、筋肉のつき方で分かったのかもしれない。

「先輩、名前は?」

 戸惑う俺に助け舟を出したのは九条だった。

 言われてから名乗っていないことに気が付いたらしく、先輩は一つ咳払いしてから仕切りなおす。

「俺は陸上部の二年の市村だ。ずっとお前を探していたんだ」

 ますます意味が分からなくなった。どうやらこの先輩は言葉足らずなところがあるらしい。

「どういうこと、すか」

「教室から、グラウンドが見えるだろう。体力測定の長距離走、あれを見て確信した。お前は、うちの陸上部に必要な人材だ」

 先輩の真剣な瞳がじっと俺を見つめていた。

「入部に金がかかるわけじゃないし、嫌だと思ったらいつでもやめてくれて構わないから。頼む! 俺を助けると思って入部してくれ」

 助けを求めようと九条に視線を送るが、彼は興味なさげに携帯電話をいじっていた。さっきまでとの態度の差は一体何なのだろう。思えば俺と九条はこのときから、お互いを詮索しないという暗黙の了解で付き合っていた気がする。

 俺は、先輩を見ることはできなかった。

「見に行くだけなら……」

 ただ小さく、そう答えた。

 結局その後、先輩の勢いに押されて入部してしまった俺は、しぶしぶ部活に通っていたものの、辞めはしなかった。九条がバスケ部を辞めたときも、俺は陸上部を辞めようとは思わなかった。結局俺は、自分で決心ができないのだ。入部したのは市村先輩に強引に入れられたみたいなものだし、退部したのも、俺自身の決意ではない。

 今、こんな風に教室にいるのは俺の決めたことではない。正確に言うと、最後の判断は俺だけど、そうせざるを得なかったのだ。俺は大きく息を吐いて立ち上がった。窓の外を見ると、俺の知らない間に部長になった市村先輩が走っている。俺は一体こんなところで何をしているんだろう。あのとき俺は、何のために走っていたのだろう。

 机を見下ろすと、数学のプリントは白紙のまま、端の方が折れていた。



 二年生になってバンド活動を始めた九条は、いつの間にか俺よりもそちらといることが増えた。俺は陸上部を辞めた一年の冬頃から部員と話す回数が減り、今はクラス委員長と隣の席になって、彼に甘えながら特に楽しくもない毎日を送っていた。

「やっほー岩瀬くん」

 ふざけた調子で声をかけてきたのは、珍しくも九条だった。俺は机から顔を上げ、一年前より随分と髪の色が明るくなった彼を見た。元々派手な顔立ちをしている彼にはこれぐらいがちょうどいいような気もするが、校則違反なのを彼は知っているんだろうか。

「今晩、暇? うちのバンド、ライブやるから来なよ」

 間違いなく暇ではあるけれど、俺は素直にうなずくことができなかった。

「……九条は、何でバスケ部辞めたの」

 代わりに問うてやると、九条は少しだけ眉を下げて笑った。

「なんでって、興味ないこと続けてたってしかたないじゃん」

「じゃあ、なんでバスケ部入ったんだよ」

「なんでだったかな」

 はぐらかされてしまった。特に何も考えずに部活に入った人なんて、学年に何人もいるだろう。だけど、九条はそうじゃない。なんでも適当にやる、がモットーな九条が厳しいことで有名なバスケ部に入るなんて、きっと何か理由があったはずなのだ。しかもそれを辞めて、今度はバンド活動? メンバーを一から集めてまで? 一年以上の付き合いにもなるのに、俺は九条の考えることが何一つわかっていない。人と浅い付き合いばかりしている九条が、バンド活動を始めてからはよく笑うようになった。九条との距離感は変わらないままなのに、俺はどうしてかそれが悔しかった。

「チラシ、置いとくね」

 そうしてバンドのメンバーに呼ばれた九条は、ひらひらと手を振りながら教室を出て行った。

 チラシを見ると、学年でも目立つ四人組なだけあって写真がやけに華やかに見えた。九条は俺といるべき人じゃなかったんだろうと思いながら、俺はチラシを丁寧に畳んでクリアファイルに入れた。俺は九条みたいにはなれない。ひとつやりたいことを失って、新しいものに手を伸ばす勇気なんてないのだ。

 その夜、俺は結局九条に言われるままライブハウスに足を向けていた。暇だったというのもあるけれど、九条をそんなに変えたものは何なのだろうという気持ちもあった。

 ライブハウスの中は人もまばらで、後から九条に聞けばアマチュアバンドのライブはそんなものらしい。ライブに来たと言うよりは、立ち飲みバーか何かで演奏が行われているみたいな感覚だった。最初のバンドが歌い終わると、これもまたまばらな拍手が送られ、そして次に出てきたのが九条たちだった。渡されたチラシを見ると、バンド名は「G‐rose」とある。スタンドマイクの前に立ったのは、九条だ。肩にかかっているのはベースだろうか。九条はぐるっと観客を見回すと、端の方に立つ俺を見つけて控えめに手を振った。それから後ろのキーボードを振り返り、小さく頷く。始まったのは、スローテンポなラブソングだ。さっきのバンドはハイテンポな曲ばかりだったから、こういう始まり方もあるんだと驚いた。だけどその方が九条に似合っている。女子に人気な九条が切ないラブソングを歌うのは少しおかしくもあったけれど、九条の穏やかな雰囲気にはよく似合っていた。一曲目が終わると、九条は深く頭を下げて、そして大きく息を吸った。マイクでも拾えるほどのブレス音、それを合図にドラムが鳴って、ギターとベースとキーボードと、そして声が重なる。今度はド派手なロックだ。一曲目とのギャップに、ぞくぞくと背筋が震えた。

 圧巻された。俺は九条がこんな必死な顔をしているのを初めて見た。

「えー、ここまでの二曲は、俺が曲を作って、キーボードのカナと、ギターのヒロが歌詞を書いてくれた曲です」

 九条の言葉に合わせ、ふたりが手を振って一礼する。そんな些細な動きでも華がある。それにしても、カナとヒロって、いつの間にそんな呼び方をする友人になっていたんだろう。俺のことは未だに名字で、しかもよそよそしく君付けで呼ぶくせに。

「最後の曲は、俺が歌詞を書きました。それでは、聴いてください」

 ピンク色に変わったスポットライトがキーボードだけに絞られ、静かな音を落としていく。暗闇の中で、キーボードの彼だけが薄紅に照らされて輝いている。それなのにキーボードの高音は、何だか冷たかった。まるで雫が落ちるみたいな、音、そして突如、赤が、広がる。と同時にすべての楽器が走り始める。音があふれてしかたない。

 九条は新しいことを始めたんじゃない。俺はこのときになって初めて、これが九条の本当にやりたいことなんだと気がついた。この歌が、音が、本当の九条を作っているのだ。

 その曲の内容は覚えていない。ただあっけに取られて、そして気がつくと彼らはステージから降りていた。特に用事もなくなったので、俺は残りのステージに目もくれず、ライブハウスをあとにした。帰り道で、少しずつ足を早めて、小走りになって、そして大股になって、自分が馬鹿馬鹿しくなった。泣きそうになりながら夜道を走った。満月は夜空に穴が空いたみたいだった。



「岩瀬くん本当に来てくれたんだねえ」

 習慣になりつつある放課後のうたた寝を邪魔してきたのは、やはり九条だった。俺は九条を睨みながら、文句は心の中に留めることにする。

「どうだった?」

 きっと勘のいい彼のことだから、音楽の感想を聞きたいわけではないのだろう。俺は小さく息を吐き出して、九条を見上げた。

「……おれは、ばかだな」

 思いの外くぐもった声になってしまい、言葉のふちがにじんだ。

「おれさ、いま、走れないんだ。走ろうとすると、体ががたがた震えて、地面が歪む」

 昨日の夜、泣きそうになりながら走って帰った。ずきずきと体の芯が悲鳴をあげるのを無視して、俺は走り続けた。少し遠回りして、痛みが麻痺するくらい走って、足を止めた途端に倒れ込むくらい全身から力が抜けた。母に病院に行くように言われたが、俺はそれを無視した。

 ――こんな状態で走ってたの?

 小太りの医師の声を思い出した。俺はそれでも走った。

 ――これ以上忠告を無視したら本当に走れなくなるよ。

 次に病院に行ったとき、強い口調で言われた。その次の週、俺は部活で倒れた。意識ははっきりしているのに、立ち上がれなくなって、走れなくなって、俺は這いつくばって、どうにか立とうとして、そして、俺を制したのは市村先輩だった。それももう、去年の冬の話だ。それでもまだ、鮮明に思い出せる。あれほど走るのが苦しかったことはない。

「……俺たちのバンドのイメージカラーは、赤だよ」

 九条の言葉で、現実に引き戻された。去年のことはもう、関係ない。

 昨夜のライブを思い出すと、確かに赤やピンクのスポットライトが多く使われていたように思う。

「でも、俺に赤のイメージってないでしょ。他のメンバーも」

 九条といえば黄色、キーボードは青っぽいし、ドラムは黒、ギターは緑だろうか。言われてみれば、彼らの印象はどうも寒色に寄っている。穏やかな人か、大人びている人。赤というのはきっと……市村先輩みたいな人なのだろう。暑苦しくて、だけど憎めなくて、無条件に明るい人。

「G‐roseってバンドの名前はさ、育つって意味と、バラを合わせた造語なんだけど。バラは色んな花言葉があるじゃん。赤は愛情や情熱、白は純潔、ピンクは上品、みたいな。俺はその中の赤を目指したい。それぞれ特にやりたいこともなかった寄せ集めが、どれだけ情熱をかけられるかってね」

 九条はまた笑う。

「岩瀬くんは、青っぽいよね」

 そして静かな声で、言葉を落とす。九条はこんな話し方ばかりする。感情の起伏を、めいいっぱいしまい込んだみたいな、話し方。

「ブルーな感じっていうかさ……なんか、もったいないじゃん。大切なもの、そんな感じで捨てちゃうの。失い方って、結構大切だと思うんだけど」

 青いバラの花言葉は、俺でも知っている。昔は「不可能」が主だったが、確かもう一つの意味は……。

 九条が何を伝えようとしているのか、聞かなくてもわかる。それでも、俺は答えられなかった。

 失い方? そんなもの、失ったあとに言うなよ。心の中で悪態をつきながら、俺はそっぽを向いた。

「俺は結構、岩瀬くんのことがうらやましかったよ」

 俺は走ることが好きだった。競技としてではなくて、俺はただ単に走りたかったのだ。お前はフォームがきれいだから本気を出せば全国大会も夢じゃないとか、そんな暑苦しいことばかり言う市村先輩はうっとうしかったけれど何だかんだで嫌いじゃなかった。重たいマットを運ぶときの感触も、汗を拭ったあとの土の香りも、雨上がりに踏んだぬかるんだグラウンドも、本当は全部大切だったのだ。走ることさえできればそれでよかったのに、一体何が俺をそうさせたのだろう。あのとき、俺は何のために走り続けていたのだろう。足は動かないというのに、それでも前に進もうとしていたのは、どうしてだったのだろう。

「岩瀬くんは、自分が思ってるよりもずっと陸上が好きだったよね」

 九条の言葉に、俺はうなずかない。もう戻れない場所に夢を見たって、どうにもならない。

 俺はただ少しうつむいて、目を閉じた。黒の中に白いスタートラインが浮かび上がって、俺はやっぱり少しだけ走りたくなった。



 遊ぶという漢字でユウ。市村先輩の名前だ。市村先輩は、きっと自由なのだと思う。走りたくてしかたがないのだろう。俺はそうなりたかった。どこまでも自由なまま、走っていきたかったのだ。

 それでも俺は自分の体をどうにかすることはできない。腰を痛めて、それでも走り続けて、気がつくと戻れないところまで来ていた。治るのに、最低でも一年。その後の競技復帰は無理だろうと、あの医師は神妙な顔つきで言った。表情だけが真面目で、声は素っ気なかった。

 そういえば市村先輩は怒っていたなあ、部活を辞めてからは随分とよそよそしくなってしまったけれど。俺も先輩を避けているから、人のことは言えない。走れなくなってしまった俺は、完全に陸上部のみんなとつながりがなくなってしまった。

 今日も人のいない放課後の教室で息を潜めていた。九条がたまに顔を覗かせたり、バンドメンバーを引き連れて打ち合わせしていたり、いかにも優等生風の女子が残って勉強していたり、それ以外の変化は特になかった。変わったことといえば、九条以外のバンドのメンバーとも話すようになったことくらいだ。バンドの名前は九条がバラにこだわっていたこと、キーボードの彼は英才教育を受けて優秀だということ、ギターは去年まではもっと静かだったこと、ドラムは中学の頃から九条と仲が良かったということ……たくさんの話をして気がついたことは、彼らは確かに「赤」だということだ。九条が無理やり集めたらしいが、全員がひたむきであることは、部外者の俺でもわかった。

 俺は本当に、こうだっただろうか。

 ――何やってんだ!

 市村先輩に怒鳴られたのは、あれが初めてだった。腰を痛めて、コーチに走るなと止められて、それでも走りたかった俺は朝練が始まるより前の時間に走っていた。それをいつもより早く学校に着いた市村先輩に見つかったのだ。これが部活じゃなければ俺は走れたのに、と思ったことを覚えている。結局部活を辞めた俺は走っていないのに、あのときは無責任なことを思っていたのだ。

 違う、俺が陸上にかけていたのは情熱なんて立派なものではない。

 放課後の教室の中で、俺だけが赤ではなかった。



 その日の放課後、バンドメンバーは教室にいるのに、九条だけがいなかった。

「九条、告白されたらしいよ」

 リーダー不在のまま話し始めるわけにもいかないのか、キーボードは適当な話題を見つけて小さく言った。

「……へえ、大変だな」

「今日はこのまま解散と見た」

 他のふたりも、静かな口調のまま言う。俺だけが理解できない。

「どういうこと?」

「ああ……あいつ、女嫌いだから」

 それは、初めて聞く話だった。そういえば一年の頃に、九条がバスケ部のマネージャーに告白されたとか、だけど断ったとか、そんな噂が広がったのを思い出す。バスケ部を辞めた理由は、きっとそれだろう。

 九条と俺は、自分の話をしないできた。入学したばかりのとき、隣の席の九条に声をかけられて以来、何となく一緒にいることが増えただけだ。ふたりで遊びに出かけたこともないし、自分の話もしない、だけど詮索もしない、そんな関係性だったのだ。それが、互いに部活を辞めてから大きく変わった。一緒にいる時間は減ったのに、自分のことを話す機会が増えた。九条は今までよりずっと楽しそうにバンドの話をするし、俺の陸上にも口を出すようになった。俺のことを羨ましいだなんて、そんなこと、もちろん初耳だった。何がそんなに九条を変えたのかは、この間のライブで分かったつもりだ。きっと、今度は俺が変わらなければいけないのだろう。

 結局その日、九条は教室に戻ってこなかった。荷物はどうするんだろうと思っていたら、同じ中学だというドラムの彼が当然のように持って帰った。

 帰るタイミングをなくしてしまった俺は、教室が静寂に包まれた頃、ひとりで帰り支度を始めた。

 昇降口で靴を取り出し、軽く地面に放った。思っていたよりも勢いがついて、靴がひっくり返る。底についた土と、すり減った跡は、俺の走ってきた証拠だった。顔を上げた。青空が広がるドアの向こうで、運動部の声が響いている。汗がにじむ。一番手前で練習しているのは陸上部だ、そんなことはコーチの声でわかる。誰かに怒鳴っているみたいだ、大方準備が遅いとかそんな理由だろう。足を靴の中にねじ込みながら、俺は校舎の中を振り返った。どこもかしこも静かで、まるで外とは別世界のようだった。先輩と俺の間には、そんな境界線があった。走ってもいないのに、腰が痛い。脈打つ速さに合わせてずきずきと鳴る。

 小さく、息を吐いた。

 右足に力を込めて、思い切り地面を蹴った。体の向きを変えて、俺は走り出した。

 九条にかけてやれる言葉は知らないが、九条が俺にかけてくれた言葉は分かっている。

 走りたいのに、走ることが怖くてしかたなかった。九条だってそうだろう。強豪のバスケ部に、女子と遊ぶ余裕なんてない。唯一の接点はマネージャーで、練習で疲れた九条は休み時間によく寝ていたから話しかける女子も少なかった。それがマネージャーに告白され、辞めるしかなくなった。やりたいことは音楽だったが、必然的に注目を浴びることになるとわかっていた。それでも九条は、音楽の道を選んだ。

 小走りが少しずつ大股になって、受ける風が心地よかった。腰の痛みがだんだんと熱くなって、少しずつ体を蝕んでいく。誰かに走るなと言われても、俺はきっと足を止められない。

 空は、青い。

 久しぶりに青空の中を走った。息が苦しくなる。それでも体は軽かった。俺はこのとき、どこまでも走れそうな気がしていた。

「岩瀬!」

 赤色の、声。俺は足を止めた。途端に足取りが不安定になる。

「……腰、は」

「痛いっす」

「……そうか」

 正面からこの人を見るのは、随分と久しぶりな気がする。部活を辞めてから、半年が経とうとしている。だけど俺は、思っていたよりも普通に笑えた。市村先輩だけが暗い表情で、これでは昔と真逆だ。

「サボりですか」

「コーチには言ってきた」

「そう、ですか」

 当たり障りない会話だ。走るなと言われないことに安心したら、腰がまた痛み始めた。だけど、痛いだけだ。苦しくはない。

「また走るのか」

「そうかもしれませんね」

「……俺がなんて言ってお前を勧誘したか、覚えてるか」

「ええ、もちろん。あんな暑苦しくて恥ずかしい言葉、忘れませんよ」

 俺が市村先輩を最初に暑苦しいと思ったのは、それが原因だった。同時にこの人は恥ずかしいことを平気で言うなと思って、仲良くなれないタイプだ、なんて思ったりもした。

 そういえば、俺の高校生活は随分とバラに関係している。市村先輩といい、九条といい……一体俺の周りはどうしてそんなロマンチストが集まるのだろう。

「バラ色の高校生活を送るなら陸上部に、でしょ」

「実際は、お前を怪我させて苦しませた」

「怪我したのは、自業自得です」

「そんなことないだろう」

 市村先輩が、俺の怪我に関して責任を感じているのはコーチから聞いた。俺はあのとき、なんて答えるべきかわからなくて、そうですかとだけ言った。今ならもう少し上手く返事ができるだろう。

「先輩は、変わりませんね」

 相変わらず、光をまとうような人だ。市村先輩のいる世界は、眩しかった。俺はその隅で光に当たらないように膝を抱えていた。そうやって、光に怯えていた。

「お前は、よく喋るようになったな」

「友人の影響ですかね」

 俺を変えたのは、市村先輩でもあったし、九条でもある。俺は市村先輩に言わなければならないことがある。でも、まだだ。その前にやらなければいけないことがあるのだ。

「先輩、知ってますか」

 先輩は小さく首を傾げた。必死に走っている姿ばかり見てきたから、そういう表情は新鮮だった。

「案外俺は、バラ色の高校生活を送ってますよ。先輩とは、色違いかもしれませんけど」

 市村先輩は意味が分からないとでも言いたげだった。だけど俺も、これ以上を話すつもりはない。大体、バラ色の高校生活なんて恥ずかしいことはもう言いたくない。

「二百メートル、自己新出そうなんですってね。頑張ってください」

 顧問から聞いたばかりの先輩のタイムを思い出し、そう言うと彼はやはり戸惑ったような表情のまま、うなずいた。

 遠くの空から、オレンジに染まっていく。夕焼けのオレンジに照らされることのない場所で、俺はずっと息を潜めていた。だから俺は、こんな景色だって、とうに忘れていたのだ。



 夕焼けの赤に染まるグラウンドを、相変わらず教室から眺めていた。赤の中で、市村先輩が走っていた。俺は彼が眩しくてしかたない。世界は思っていたよりも眩しいものなのだと、彼が教えてくれたのだ。もう、息苦しくはない。俺は手に持っていたボールペンを机に放り投げ、椅子から立ち上がった。

 窓に、手をかけた。腕に力がこもる。思い切り横に引くと、がらりと音がして夏の香りが教室になだれ込んできた。俺は走りたいのだと思った。自分のことなのにそれがなんだか遠いようで、俺はおかしくなって笑った。汗で張りつく前髪も、入ってきた風のせいか気にならなくなっていた。

 強い風が吹いてきて、カーテンの留め具が外れた。俺の背に、水色が一面に広がる。空と同じ青だ。先輩とは違う色だけど、俺は今、先輩と同じ場所に立っている。やっと俺も、青の真ん中に立つことができた。

 もう大丈夫だ、俺は走れなくても、走るのは好きだ。

 机の上の紙を手に取って、俺は走り出した。教室を出るところで九条とすれ違った。

「やっと窓開けれたんだ」

 楽しそうに笑った九条は、ベースを背負っていた。俺は少しだけ目を合わせて笑って、教室を飛び出した。俺はもう、どこも痛くなかった。

 グラウンドに出たところで、コーチと目が合った。彼は何も言わない。俺の背を、押しただけだった。きっともう、顧問から話を聞いているのだろう。

「市村先輩!」

 振り返った先輩の髪が風で揺れる。色の濃い黒髪は晴れた夏空の夕日に照らされて、艶やかな茶色だった。俺の光は、砂埃に目を細めていた。

 俺が紙を差し出すと、先輩は何度か瞬きをして、そして俺の顔を見た。

「俺、走るのが好きです」

 昨日は言えなかった言葉。俺はやっと、言えた。

「先輩に誘われなかったら、こんな苦しくないと思います。たぶん、今も普通に走れてる。でも、こんなに走るのが好きにはならなかったと思います」

 俺は走ることが好きだった。陸上競技としてではなく、ただ何にも縛られることなく走り続けていたかった。だけど、市村先輩を見ていればわかる。陸上競技だって、十分自由だ。

「競技には戻れません。でも、俺のけがが治ったら、また一緒に走ってもらえませんか」

 青いバラの花言葉は「不可能」そして「奇跡」だ。俺はきちんとリハビリをして、それでも走れなくなることが怖かった。だけど俺は奇跡を起こしたい。市村先輩の言葉を信じて、返り咲きたい。

「だからそれまでは、サポートさせてください」

 強く握りしめていたせいで、紙の端がよれていた。書いたばかりの入部届は、顧問の印まできちんと押してある。俺はどうしてもこれを先輩に見せたかった。

 市村先輩は、俺の肩を小突いただけで何も言わなかった。

 強い風に、目を伏せる。顔を上げると、市村先輩は確かに笑っていた。俺もやっと、緊張が解けて笑うことができた。

「……風が強いな」

 噛み締めるように、市村先輩は呟いた。声は小さかったけれど、その声は確かに俺の耳に届いた。

 あの日、俺たちが出会った日も、風の強い日だった。

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