朝、アパートの食卓。ハムエッグを口にしている間、郁乃の視線がやけに絡みついてくるので、和之は気恥ずかしくなる。


「なんか顔についてるか」

「ううん、なにもついてないよ」


 顔を上げ問いかけても、つい先日妻になった女はにこにこしながらそう答えるだけだった。というよりも、最近はいつもこんな顔をしている。もっとも、大方の理由は見当がついているのだが。


 目玉焼きとこんがりとした薄い肉を平らげ、半分ほど残していたトーストにとりかかった。そんな風に食事を続けている間も、郁乃の目は和之を離すことはなかったため、居心地の悪いようなこそばゆいような思いを抱えたまま口を動かす。


 程なくして食事を終えた和之は頬杖をつき、ホットミルクを飲む郁乃を眺めた。女の顔は相変わらず幼げなかたちをしているものの、出会ってからの年月の経過相応に大人びたものになっている。


「今日はなんか予定あるの」


 郁乃の無邪気な問いかけに、和之は、何もないと答えようとしてから知人と交わした約束を思い出す。


「今日は昼から、森永さんのところにお呼ばれしてるな」


 良かったら郁乃も来るか。そう尋ねながらも和之は、このお呼ばれを気が進むような進まないようどうとも言えない気分で受けとめていたため、妻がいてくれた方が心強いと考えていた。


「うーん、どうしよっかなぁ。あそこの奥さん、いつもあたしで遊ぼうとしてくるし」


 眉間に皺を寄せる妻に、和之は苦笑いで応じる。森永夫人は打てば響く郁乃の反応が楽しいらしく、頻繁にからかいの言葉を口にしたり抱きつこうとしたりした。おそらく、親しさのあらわれであるのだろうが、食えない女性なだけに真偽はたしかめがたい。


「大丈夫だろ。良くしてくれるのはたしかなんだし」

「カズ君は被害にあってないからそういうこと言えるんだよ。一回、奥さんの猛攻を受けてみなって。あれはもう、ペット扱いだよ」


 心底嫌そうな顔をする郁乃を見て、連れて行くのは難しいかもしれないと判断する。


「じゃあ、断わろうかな。別に向こうもどうしてもってわけじゃなさそうだし」


 森永夫妻は親しくしている年上の知人ではあっても、別段会社の上司というわけではない。だから、和之がそれらしい用事を仕立てれば、向こうも文句は言ってこないだろう。交友関係は大切ではあるものの、今はそれよりも妻との時間を大事にしたかった。


「そういうのは良くない」


 そう口にした郁乃はマグカップを机の上に置き、和之を見つめてくる。何が妻の心の琴線に触れたのかよくわからないまま、和之は姿勢を正した。


「きっと向こうも楽しみにしてる。そんな約束を破っちゃいけないよ」

「けど、俺が行くと郁乃が一人になるだろ。せっかくの休日なのに」


 言い募る和之に、妻は、だったら最初から断わってくれれば良かったのに、と口にする。ぐうの音も出なくなり黙りこむ和之の前で郁乃は、なんてね、と表情を和らげた。


「あなたもここのところ大変でしょ。だから、たまにはあたしのことを気にしないで楽しんできて」


 できた嫁さんそのものの台詞と添えられた笑顔を見つめながら、本当にいいのか、というようなことを尋ねそうになったところで、余計な一言になりそうだと思いやめる。

 

「わかった。ただ、何かあったらちゃんと連絡してくれよ」


 力強く告げてから、郁乃の腹の辺りを見つめる。妻は少しだけ照れ臭そうにホットミルクを口にしてから、顔を逸らす。


「うん。ありがとね、カズ君」


 それくらいのことで感謝する必要はないのに。そんなことを思いつつも和之が、どういたしまして、と返すと郁乃は穏やかな横顔を曝す。反射的に同じ方を振り向けば、窓越しに見える雲の合間から薄っすらとした光が差していた。


 /

 

「それでどうなんだい、奥さんとの仲は」


 テーブル越しに向かい合う森永がもったいぶった調子で尋ねてくるのを見て、和之はコーヒーを一口飲んでから、順調ですよ、と答える。


「それだけじゃわかりにくいな。もっとこう、具体的に答えてくれないと」


 楽しげに尋ねてくる青いワイシャツを着て眼鏡をかけた年上の男に、相変わらずだな、と呆れとも親しみとも付かない感情を抱きつつ、


「上手くやっていけてるとは思いますよ。喧嘩とかもなくはないですけど、それ程深刻にはなりませんし。とはいえ、大事な時期ですから、気は抜けないんですけど」


 つらつらと近況を報告すると、森永が意地悪げに口の端をあげた。


「大事な時期だと言ってる割には、奥さんを一人、家に置いてきたみたいだけど」

「俺も気が気じゃなくて誘ったんですけどね。家族会議の結果、自宅にいる方が安全だということになりまして」


 やや茶化し気味に口にする和之に、森永は首を捻ったものの、すぐに、ああ、と開いた掌の上を拳で叩く。


「言わんとすることはわかったけれど、それを僕の前で言うのはどうかと思うよ」

「と、言いますと」


 目の前の男の言わんとしている事柄を理解しつつも、わざととぼける和之。森永の方も察しているのか苦笑いを浮かべた。


「仮にも僕は君の言うところの危険分子のパートナーなわけだよ。そんな私を相手にしているわけなんだから、もう少し遠回しに表現をして欲しいというかなんというか」

「危険分子とまでは言ってませんけど」


 そもそも自宅にいる方が安全としか言っていない時点で、十分オブラートに包んだつもりではあったが、森永は不服だと主張している。とはいえ、そういうふりをして遊んでいるのだろうが。


「仮に君が自分の妻を表立って危ないやつだと言われたりしたらあまりいい気分にはならないだろう。僕と君の仲だから許されるけど、そこは気を付けた方がいい」


 当然、和之はこういう態度が許される相手だと見込んで言っていたのだが念のため、以後気を付けます、と謝罪を口にした。


「ほら、誠意が足りてないよ。もう一度」


 森永もまだまだ絡んできているがどうやら飽きてきたらしく、絡み方がぞんざいになってきているように見える。とはいえ答えないのもどうかと思った和之は、申し訳ございませんでした、と言った。


「せっかく来てもらったのに、あなたはなにをやっているわけ」


 いつの間にか、森永夫人が夫の後ろに仁王立ちしている。白いブラウスの上にピンクのエプロンをかけた女性の傍からは、ほのかに醤油の匂いが漂っている。


「ちょっとしたコミュニケーションだよ」


 僅かに顔を強張らせつつ応じる夫に、夫人は薄い笑みを深めて、へぇ、と笑う。


「それにしてはねちねちねちねち、いじめっ子みたいに見えたけれど」

「そう見えていたとしたら不本意だね。僕は僕なりに親愛の念をこめて、彼をもてなしていたつもりだったのに」


 言いながら、森永は目をわずかに泳がせながら和之に合図を送ってきた。弱っている森永の態度がおかしかったため、気付かないふりをしようとも考えたが、万が一夫婦仲が悪化したりした時に冗談でなく責められる気がしたので、協力することに決める。


「旦那さんの言う通り、ちょっとしたじゃれ合いみたいなものですから、気にしないでください」

「そうなんですか。だったらいいですけど、なにかあったらいつでも言ってくださいね」


 そう告げた夫人の整った顔からわずかにこもっていた力を抜いた。相変わらず怖い人だなどと思いながら、愛想笑いで応じる。その手前で腰かける夫の方もまたほっとしたように小さく息を吐いた。


「おかあさんおかあさん。はやくごはんにしようよ」

「そうだよ。はやくはやく」


 不意に森永夫人の後ろからその息子の大輝と娘の真央がぴょこんと現れ、舌っ足らずな主張をする。夫人は、はいはいちょっと待っててね、と仕方なさげに告げつつ、愛おしげな眼差しを息子と娘の両方に注いだ。そうしてから、夫の方に流し目をした。


「お皿とかを出してもらえる」

「ああ、すぐにでも」


 そそくさと立ち上がった森永は、食器棚の方へと歩いていく。和之がその後ろ姿をちら見するかぎり、以前よりもやや肉がついたように見えた。年だからだろうか。


「カズくん、あそんで」

「あっそぼう」


 いつの間にか、子供二人がすぐ傍にやってきていた。先程までご飯に夢中になっていたはずなのに、今その興味は和之自身に向けられているように見える。


「二人とも。遊んでもらうのはご飯が終わってからにしなさい」

 

 台所の方に戻りかけていた母親の声音に、大輝と真央は、ええ、とか、いいじゃん、と不平を漏らしながら、頬を膨らましてみせた。


「そうだよ、二人とも。それにご飯を食べてからの方がきっと力いっぱい遊べて楽しいよ」


 和之もまた夫人の説得にそれとなく加勢する。かえって子供たちの不満を募らせてしまうのではないのかという不安もなくはなかったが、幸い二人は、それじゃあしかたないな、うんこんかいだけだよ、なんて偉そうにふんぞり返ってみせた。


「じゃあ、大輝と真央にもお手伝いしてもらおうかな。そしたら、早く食べられるよ」


 母親の声音に、子供二人は今度は不満を漏らすことなく、てつだうー、と言ってから台所に小走りする。ほら、走らないの、と少し呆れた様子で注意を促してから、森永夫人は和之の傍に近付いてきた。


「ごめんね。勝手に予定決めちゃったけど大丈夫だった」

「はい、大丈夫です」


 答えながら、家で一人待っているだろう郁乃の姿を思い浮かべる。顔に出ていたのか森永夫人は、無理しなくてもいいんだよ、と囁くように言った。それに和之は、いえ、と応じる。


「昔から変わらないねぇ」


 遠くを見るような懐かしげな眼差し。それをぼんやりと見てから和之は、懐かしがられるほど長い付き合いでもないのになとぼんやりと思ったあと、十年に満たないとはいえまあまあ親交が続いている方かと考え直す。


「あまり、妻に色目を使わないでもらいたいね」


 戻ってきた森永氏が茶化すような口ぶりでそんなことを言った。元々、こういうノリの人物なだけにどこまで本気か判断し難かったものの、気を付けます、と応じる。


「あなた、さっきも言ったけど」

「冗談だよ。僕も混ぜて欲しいと思っただけさ」


 森永は軽く肩を竦めながら、取り皿らしきものをそれぞれの座る席の前に一つ一つ置いていった。特に他意はなさそうだったが、注意するに越したことはないなと、和之は思う。直後に台所から、子供たちの、はやくー、という声が響いてきて、夫人が、今行くよ、と応じる。


「ああ、そうそう」


 台所に戻ろうとしていた夫人が今思い出したというようににんまりと笑う。


「帰ったら郁乃ちゃんに伝えておいて。別にとって食わないから、また遊びにきてねって」


 してやったりという顔に、和之は思わず森永の方を振り向く。なんともいえない表情をする森永を見ながら、この女性にはかなわないなと思った。


 /


 昼食をごちそうになり一時間ほど子供たちと遊んだあと森永宅を辞し、空を漂う分厚い雲を見上げながら帰路につく。四月の空気は気温が上がりつつあるとはいえ、少々冷たく感じられた。


 自宅のアパートまでは歩いて三十分ほど。ガソリン代の節約だとか、腹が出たら格好悪いよという郁乃の言により、車を使わずにやってきていた。元気一杯の子供たちに振り回されていただけにやや疲れていたものの、家に帰れないほど深刻なものでもなかったので、空模様を映して薄暗くなった道を進んでいく。


 住宅街の中、ブロック塀の脇、そこかしこに顔を出すソメイヨシノ。老人、サラリーマン、部活帰りとおぼしき高校生、そして父と母に連れられた娘さん。世間的にも休日であるせいもあってか、すれ違う人間は多種多様だった。とりわけ、家族連れに関しては色々と思うところもあって目を止めてしまう。


 生きている。一人歩きながら、そんなことをぼんやりと思う。和之自身がここにいるのだから、当たり前といえば当たり前の事柄ではあったが、唐突にその事実に感慨深さを覚える。

 

 ついこの間行われた結婚式はどことなく現実感がなかった。両親、地元の昔馴染み、小中高、大学などできた友人、お世話になった恩師や上司。そして郁乃の方の繋がり。結婚式、二次会、三次会。様々な繋がりの人に祝われながらも、どことなくこれが本当に起こったことなのかと疑ってもいた。


 結婚式にいたるまでの記憶はたしかにある。しかし、それが和之自身に起こっている出来事だという実感が湧かないまま全てが過ぎ去り、気が付けば結果だけが残った。そんな状態のまま今日までやってきて、少しだけ腑に落ちた気がする。


 今こうして誰かとともに生きていられている。そんな実感がようやく体に沁みてきた気がして、やや早足になった。とにかく妻に会いたかった。


 街路樹、電柱、スポーツカー。そんなものが通り過ぎていくのを目にしながら、急げ急げ、と念じる。曇り空の下、これ以上ないくらいに気分は晴れやかだった。


「よお、久しぶりだな」


 聞き覚えのある声に足を止める。振り向くと案の定、緑色の繋ぎを着た今西が立っていた。いかつい男は黄ばんだ歯をさらしながら、人懐っこく笑う。最後に会ったのは半年くらい前だろうか。今日はいつになく機嫌が良さそうだった。


「お久しぶりです」

「おお。そう言えば、結婚おめでとさん。お祝いに行けなくて悪かったな」


 今西の言葉を耳にして、最後に会った時にその話題を出したことを思い出す。そして、結婚式後パーティーの招待状を送ったが、仕事の都合で行けないということで、欠席との連絡を受けた。


「いえ。そのお言葉だけでとても嬉しいです」

「そうか。それならいいんだが」


 言いながら、今西はちらちらと和之の方を窺う。早く帰りたいという気持ちと、久々に会えたことへの嬉しさに挟まれながら、なんだろう、と首を捻っていると、


「幸せそうでなによりだな」


 どことなく羨ましそうに今西が呟く。はて、なんのことだろう、結婚のことだろか、などと和之が取りとめもなく考えている最中、今永は、たいしたことじゃないんだが、と前置きしてから、


「最初に会った時のお前は、俺と同じ匂いがした。ずっと昔の荷物を捨てられなさそうなところとか」


 低い声で言った。それを耳にしながら、今西と最初に森の中で会った時のことを思い出す。大学生だった和之は今西のとっていた突拍子もない行動に度肝をぬかれ、教えとも愚痴ともつかない言葉を受け、なんとも言えない気持ちを抱えたまま別れた。


 その時はなんとなく二度と会わないだろうと思い込んでいたが、一年後に偶然最寄の駅内で、やたらと機嫌が悪そうな今西と再会を果たした。考えてみれば、同じ町の中で動き回っているのだから、それ程おかしいことではなかったのだが、初対面の印象が抜けきらず固まってしまい、半ば因縁をつけられるようなかたちで飯を奢らされた。その時は二度とかかわりたくないなと思いつつも、一年に何度かすれ違い、なんとなく一緒に食事をとったり話したりする仲になった。今西の上がり下がりの激しい機嫌に左右される、緊張感のあるようでいてだらりとした付き合いは、和之が大学卒業後にこの町の企業に就職したのもあいまって、途切れることなく続き今日にいたっている。


「だから、こいつはずっと浮かない顔のまま暮らしていくのかなって考えたりしてな」


 心当たりはあるにはあった。もっとも和之は、今西の言うところの昔の荷物を抱えていることにすらしばらくの間気付いておらず、その荷物を認識した今でさえも、たいして生活に変化があるようには思えないままなのだが。


「けど、今のお前は幸せそうに見える。最初に会った時から、少しずつ少しずつ変わっていった」

「そう見えますかね。自分じゃよくわかりませんけど」


 答えつつも、今の生活を振り返る。隣にいる妻の顔、慌しくも充実感のある生活、そしてこれからやってくるであろう一つの未来。全てが上手くいっているとまではいえなくとも、それなりに幸せな気がした。


 今西は不器用な笑顔を作ったあと、強い力で和之の肩を叩く。鈍い痛みに顔をしかめる和之の前で、年上の男は大きく口を開いた。


「俺としてはお前がそんな顔をしてくれていてなによりだよ。できれば、ずっとそういう嬉しそうな顔をしていてくれればと思う」

「はい。できるかぎり」


 ずっとは無理ですよ、とついつい照れ隠ししそうになるのをおさえてそう答えると、今西は、だったらいい、と告げ、


「じゃあ、俺はそろそろ仕事だから、これで。奥さんによろしく言っておいてくれよな」


 そう付け加えてから、今西は踵を返す。その後ろ姿を見送り、また、と声をかけながら、和之はさっさと帰らなくてはと足早になった。


 ガードレール、その下に生える芝、ごつごつとしたコンクリートの道。どれもこれも見慣れたものではあったが、なによりも自宅へ近付いていることを知らせていた。一秒でも早くと息を切らし向かっていく。そして家まであと五分というところで、信号に足を止められた。勢いをそがれたことをもどかしく思いながら、目の端に映る散りかけの桜の花弁が見つめ息を吐いた。とにかく、もう少しだ、と力を抜く。


 冷たい感触が頬を撫でた。


 /


「こんにちは。随分、急いできたみたいですね」


 黒いブラウスに同色のスカートを合わせた年下の女性に差しだされたハンカチを受けとりつつ、和之は肩で息を整えた。森を抜けて差したばかりの折り畳み傘にはぽつぽつと雨粒が降りそそいでいる。


「できるだけ早く帰らないといけないから」

「また、奥様を待たせてるんですか。そのうち、愛想尽かされますよ」


 嘲るように笑いながらおろした長い髪をかきあげる女。まだ学生だった時に比べると幾分か表情が豊かになったな、と思いながらも、そうならないように気を付けるよ、と答え、木の前まで歩く。そして立ち慣れた場所に足を揃えると、透明な実を見つけた。その中にいる椎子が今日も目をつぶって動かないのを確認し、よしよしと一人頷く。


「相変わらず綺麗ですね、椎子さん」


 後ろから覗きこんでいるとおぼしき女に、まあね、などと自分のことのように応じつつ、透明の膜の中をじっと見つめる。幼なじみは今日もまた生前最後に見た時の姿をしっかりと保っていた。


「今の椎子さんって何人目でしたっけ」

「俺が知ってるかぎりだと九人目くらい。君の妹さんは今、何人目だっけ」

「七人目ですね。今回は割と長持ちな気がします」

「そう。できるだけ長く健康でいてくれるにこしたことはないね」


 言いながら、最初の椎子を食ったあとのことに思いを馳せた。


 透明な膜に包まれた最初の椎子が胃におさまってから半年ほどあと、たまたま公園を散歩していた雨の日、ふと気紛れで例の獣道に足を踏みいれた。当時は、現森永夫人から聞いた、知り合いの実が生っている人間以外は獣道の入り口に戻される、という言をたしかめたくなったということにしていたが、実のところ胸の中にぽっかりと空いた穴を少しでも埋めたいという気持ちからだったのだと今は思える。そして、難なくかつていなくなった人間たちの入った実が多く生る木の前に辿りつき、鉄っぽい味とともに葬ったはずの椎子の入った実と再び出会うこととなった。


 なぜ、という疑問は一瞬にして埋まった喪失感とともに殺され、再び森に通う生活がはじまった。


 それから何日かあと、双子の妹を失った少女と森の奥で鉢合わせた。話を聞いてみると、和之が再びここに訪れる二ヶ月ほど前からまた通いだしたという。


 なんで、また実が生ったんでしょうね。


 不思議そうに口にする少女の声音に対しての答えを、和之は持ち合わせていなかった。既に和之たちが森で知り合った人たちが見にきていた実は軒並み落ちてしまっていた。少女とともにそれとなくたしかめてみたが、それらの知り合いの大切な人が入った実はみつけられず、どうやら再び生ってはいないようだった。


 なぜ、自分たちだけ再び実が生ったのかという疑問を残したまま、雨の日の森への来訪は再び日常に組みこまれた。そして、実が落ちては再び生ってはまた落ちては生り、少女が大人の女になるくらいの季節が過ぎ去った末に、今にいたっている。


「どうですか、新婚生活」

「上手くやれてると思う。とは言っても、同棲してた時間が長かったからあんまり変わってない気もするけど」


 世間話をかわしている間も、目線は椎子から離れない。昔ほど時間に余裕がないせいもあって、都合よくこの場所に訪れられるわけではなかったが、それでも九度の生まれ変わりを経たその顔を見飽きるくらいには足を運んでいる。ただ、こうして見守れる時間があるだけでもいいという気持ちがある一方、和之の中で年々膨らんでいく欲望のようなものもあった。


「上手くやれてたら、こんなところに来てないんじゃないですか」


 ひどく楽しげな問いかけに、和之は、違うよ、と応じてから、


「郁乃は奥さん、椎子は友だち。二人ともいて欲しいって思うのは別に不自然なことじゃないだろう」


 そんなことを言ってみせる。背後にいる女は、あなたがそう思うんならそうなんでしょうね、と呆れたように告げた。


「君だってここにやってくるだけのための人生ってわけじゃないだろう。こことは違う生活がある」

「そうじゃなきゃ生きていけませんからね」

「両方とも大事。それだけだよ」


 口にしてから和之は、後ろにいる女が今どういう生活を送っているのかあまり知らないなと思う。この場所で出会った他の人間たちとは同じ町にいるせいか、それなりに交流があったが、不思議とこの女とだけは森の外で顔を合わせることがなかった。森の中で鉢合わせた回数だけで考えればもっとも多いが、個人として知っていることは少ない。


「あなたにとってはそうでそうでしょうね。ここに妹の顔を見にくるくらいしかやることがない私と違って」


 皮肉気に告げる女の主張はこの通りではあったが、実状はよくわからないし、あまり興味も湧かない。この辺りの感情はこの女性が女子高生だった頃からさほど変わらなかった。


 会話を繋げようと女の言葉に、そんなことないだろう、と口にしようとしたが、特に気休めにもならないと判断し取りやめる。仮に何かを言うとすればもう少し考えなくてはならないだろうが、そこまでする程の熱心さが和之の中には湧かなかった。


「自分でも生産性がないって思うんですよね」


 黙りこんだ和之に代わるようにして女は喋り続ける。


「妹の顔なんて見にきたって、ただただ苛々するだけなのに」


 押し殺した女の声音は、もはや聞き慣れたものになりつつあった。


 私、妹のこと大嫌いだったんですよね。いいえ、違いますね。だったじゃなくて、今も大嫌いなんです。


 何年か前、女の口から唐突に放たれた言葉。生前、常に弱々しく振る舞って被害者ぶる妹に、毎日のよう苛ついていたこと。自らの弱さを利用して、両親や周りの人間に取り入り利用する姿に心の底から嫌悪感を抱いていたこと。これまで持っていた女の印象とは異なるその話しぶりに思わず、でも少しでも長い時間、一緒にいたい気もするって言ってなかったっけ、と問いかけた。女は、そんなことも言ってましたね、と冷やかな声で口にしてから、


 いたらいたでさっさと消えて欲しいって思うんですけど、いなくなったらいなくなったで私の心に穴を空けていく。そういう困ったちゃんなんですよ、この娘は。


 実の表面を撫でながら、憎々しげにも愛おしげにもみえる様子でそう言った女の姿は、今も脳裏に強く焼きついている。


「森に入れなくなる日まではできるだけ来てあげるからね」


 いつの間にか、隣にやってきていた女は記憶の中の光景と同じように双子の妹の入った実を撫でていた。お互いの大切な人間が入った実の生っている位置は以前とは異なりかなり近付いていたため、横目で十分目視できる。姉の方が年を重ねてしまったゆえ、瓜二つとはいかないものの、それでも一目で姉妹だとわかる程度には似ていた。今の姉の振るまいに、妹はいったいなにを思うのだろう、と少しだけ考えたが、他人の和之にわかるはずもないとすぐに思考を打ち切る。


 女から視線を逸らし、椎子の方を見る。何度、生まれ変わっても幼なじみの見た目は、和之が覚えている通りのままだった。


 雨の音を耳にしつつ、椎子がいなくなる直前のことに思いを馳せる。


 高校からの帰り道の途中ばったり出くわし、そのままちょくちょく道草しながら話しこんだ。この頃はクラスも異なっていたうえに、お互いに別々の付き合いができ、中学の時ほど長い時間をともにしていたわけではなかったが、それでもあまり疎遠になった感じはせず、中学の時よりもやや穏やかになった付き合いを楽しんでいた。


 話題は主に数日後に家族に連れられていく予定の寿司屋のことだったり、お互いのクラスでのとりとめのないことだったりが占めていた。その際、今金がないとせがまれたため、百円自販機で炭酸飲料をおごり、貸した金が四百円から五百円に増えたりして、これはしばらく返ってこないだろうなと溜め息を吐きそうになりつつも、仕方ないなと割り切り、早く返せよと言って、分かってる分かってる、と安請負されたりした。


 立ち止まったりだらだら歩いたりを繰り返しているうちに、分かれ道までたどり着いた。特段の別れがたさみたいなものもなく、それじゃまた、と声をかけ、椎子も同じように返した。その時の顔はいつも通りだった気がしたが、よく思い出してみれば、いつの日か死んだ小鳥を見ていた時に近い目をしていたようにも見える。今現在、頭の中にあるこの違和感を、当時の和之が抱いていたかどうかは記憶にない。後日起こった出来事が鮮明過ぎたせいで忘れてしまっていたようにも思えるし、今になって理由探しをしているようにも思える。


 胸の中にあるのは、もしかしたら止められたかもしれない、という思い上がりにも似た取りもどせない過去に対しての後悔と、どっちにしろ無駄だったろという自らに対する嘲り。あるいはその両方が混じったよくわからない感情。


 目の前にある幼なじみの顔をじっと見つめながら、和之は、もしかしたら答えが返ってくるのではないのかと期待する。しかし、この椎子もまた答えを口にする気配は今のところない。


 地面に雫が叩きつけられる音が激しくなっていく。家にはまだまだ帰れそうにないなともどかしがりつつも、返ってこない答えをまだ待っていられることを少しだけ嬉しく思い、笑みがこぼれた。

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雨の日、森の奥で ムラサキハルカ @harukamurasaki

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