小雨とおぼしき音を耳にし、和之は目蓋を開く。覆いかぶさる布団のぼさっとした感じと肉の温い感じの隙間から入りこんでくる二月の冷気にぶるっと体を震わせて隣を見ると、郁乃が安らかな寝息をたてていた。その表情を見て心を穏やかにしながら、女に抱えこまれている腕を抜こうとしたが、がっちりとつかまれていてなかなか抜けそうにない。


 強引に引き抜くべきか否か。少しだけ考えてから、空いている方の手の人差し指で郁乃の頬をつんつんとつつく。女は幼げな顔で眠たげに唸ったあと、薄く目を開いた。


「もう、朝なの」

「いや、まだだけど」

「そうなの。だったら、まだ寝てていいよね。お腹も減ってないし」


 答えてからすぐさま眠りの世界に戻ろうとする郁乃を無理やり引き止め、ちょっと出かけてくるから離して欲しいと伝える。


「寒いし、やだ」


 そう言われると布団から出るのが億劫になりそうだったが、今は行かなくてはという気持ちの方が和之の中では大きかった。


「すぐに帰ってくるからさ」

「そう言って雨が止むまで帰ってこないつもりでしょ」


 いつの間にか、郁乃の目はしっかりと開いている。和之と同じように、雨音を耳にしたことではっきりと覚醒したのかもしれない。


「そんなに長くならないからさ」


 なんとか言い聞かせようとするものの、女は白い目を和之に向け、


「いつ止むかもわからないのに、そんな適当なこと言われても信じられない」


 不満げに口を尖らせた。できるだけ早く帰ってくるから、と言い直してから、布団の脇に置いてあった携帯のディスプレイを眺めると、まだ夜明け前の時刻だった。昨日目にした天気予報にはなかった降雨だと再確認したあと、たぶんにわか雨の類だからすぐに止むんじゃないかな、という推測を口にする。そうしている間も、胸の中にある感情は、早く早くと和之を急かしてきた。


「でも、絶対ってわけじゃないでしょ。あたし、一人で朝ご飯食べるの嫌だよ」

「それまでには帰ってくるよ。だから、行かせてくれないかな」


 長雨になるかもしれないことを考えるとあまりその手の約束をしたくはなかったものの、押し問答を繰り返せば繰り返すほど森の奥にいられる時間は減るため、妥協案を提示する。郁乃は尚もむっとした顔をしていたが、程なくして小さな溜め息を吐いた。


「ちゃんと帰ってきてよ」


 素っ気ないような、それでいてどことなく甘い声音。そんなものを耳にした和之は慎重に頷いてみせながら、雨の夜にそのまま帰って来なくなった少女の姿を一瞬だけ思い浮かべ、すぐに消し去る。郁乃はじっとりとした目で和之の様子を見つめていたが、やがて腕から力を抜いた。身を起こし布団から飛び出すと同時に、冷気が寝間着を貫くようにして伝わってきて身を震わせる。


 女に背を向け手前に置いていた着替えを手にしながら、依然として追ってくる視線に後ろめたさのようなものを覚えた。同時にそんな感情を抱ける今の状況が恵まれているような気もしている。


 下着、長袖のトレーナー、厚めのジーンズに靴下。手早く着替えて立ち上がると同時に、ハンガーにかけてあったコートを羽織る。


「行ってきます」


 か細い、いってらっしゃい、を耳にしながら和之は玄関から足早に外へと飛び出す。雨音がより鮮明になるのを感じてから扉を閉じ、鍵をかけるために振り向く。


 薄暗さの中で視界に飛びこんできた明石と書かれた表札。それを目にして名残惜しさを一瞬覚えたあと、そそくさと足を進めた。


 /


 濃厚な森と土の臭いを嗅ぎながら足早に獣道を駆け抜けるようにして進んでいく。最初にやってきた頃とは異なり、足を滑らせそうになることもない。ただただ、一秒の時間も惜しかった。その感情の背景にあるのは雨が降り止んでしまうこと、そして。


 長く横に伸びる金属製の手摺りと長く伸びる橋、嵩のあがった大きな水溜りの流れ、青く広がった布とその下にあるなにか。


 頭にちかちかと浮かびあがる映像群は、見たのか見ていないのか和之の中で判然としない。当時、思い浮かべたものが頭に根付いただけかもしれないし、本当に目にしたのかもしれなかった。


 地面に降りそそぎ続ける雫は、頭をぼんやりとさせる。つい、数十分前まであったはずの肌の温もりだとか、聞きなれた声だとかが随分と遠い出来事のように思えた。その実感は森の奥へ奥へと進んでいくにつれて深まっていく。


 程なくして、いつも通り道が開けた。暗く青い曇り空の下、木はいくつもの実を生やし、枝葉を風で揺らしている。その下に制服の上に紺のコートを羽織った少女が後ろにくくった髪を揺らしている姿を見出した。


「おはよう」

「おはようございます」


 既に様式美と化したそっけないやりとりを済ませるのと同時に傘を差し、自らの知り合いが入っている実の方へと歩いていく。ふと、後ろから泥に沈みこむような微かな足音が雨と地面がぶつかるのに混じって聞こえてきた。目的としている実まであとわずかというところで振り向けば、先ほど挨拶を交わしたばかりの少女が雫を体中から滴らせ立っている。


「どうしたの」

「気にしないでください」


 無表情で放たれる少女の呟きを、気にするなと言われてもと困惑する。とはいえどうやら付いてきているらしい少女を止める権利も持ち合わせていない和之は、そうなんだ、と口にするのみで、そのまま元の目的地へと向かい、程なくして足を止めた。


 椎子の入った透明な包みはたしかにそこにある。ただし、当初と異なり、木と実を繋ぐ枝はか細くなっていて、中身の少女もやや頬がこけはじめていた。


 このような変化の兆候は昨年の末頃からあらわれはじめ、年を越えた辺りから徐々に深刻化しつつあった。


 もしかしたら、サラリーマン風の男性が見ていた駄菓子屋のおばさんの実もこんな風にじわじわと弱っていったのかもしれない。そんな思いから、恋人を通り魔に刺されなくした女性に確認をとってもらうと、まさしくその通りということだった。


 そうなったらいつぽろっと落ちてもおかしくないんだって、だから私たちも注意しようね。飄々としながらもどことなく不安気に口にした女性の言葉は強く印象に残っている。そこからこの二月にいたるまで、実はなんとか落ちないまま吊り下がっていた。とはいえ、件の女性から伝え聞いた男性の言葉を聞くかぎり予断は許せない状況ではあるのだろうが。


 とりあえず、今日もまた実は吊り下がっている。そのことに心底ほっとすると同時に、最後の日が迫りつつあるのをひしひしと感じた。


「やっぱり、あなたの実も落ちそうなんですね」


 少女の声が耳に入りこんでくる。珍しく口数が多いのはそういう理由かと察しつつも、実から目を離すのがおそろしかったため振り向くことはない。


「あなたのってことは、君の双子の妹さんも」

「はい。もうぐらぐらです」


 抑揚の少なめな声音からは、少女の気持ちは窺いにくかったものの、そうか、と頷いてみせる。


「どう、するんですか」

「どうするって」


 尋ねられた内容についてはおおむね理解していたものの、なんとはなしに聞き返す。後方で小さな呼吸の音。そして、


「その中にいる綺麗な女の人のことです。朽ちるまでそのままにしておくんですか。それともいつかの男の人みたいに食べちゃったりするんですか」

 

 ぼかさない言の葉が耳に飛びこんでくる。その内容はどちらにしても、容認しがたい事柄であった。少し考えてから、和之は明るい声を出そうと努め、


「これはむしのいいことを言っているのかもしれないけど、実は落ちそうに見えているだけで、実際にはそうではないのかもしれない」


 そんなことを告げた。例のサラリーマン風の男性が見ていたという実に関する出来事。それと今の状況が似ているからといって、必ずしも同じ出来事が起きるわけではない。そんな可能性に縋ろうと、少女に同意を求めようとする。


「そうかもしれません。ただ、どちらであるのかを決めるための情報が私たちには足りません。だから、今言えるのは、五秒後には落ちるかもしれないし、百年後も生っているかもしれない、ということです」


 前置きしたあと少女は、もっとも、と付け加え、


「私の見たてでは、あと三日も持たないと思います。その綺麗な女の人も私の妹も」


 より不安を煽る物言いで締めくくった。そしてその見立ては和之のものとさほど変わらない。


「君もこれからどうするか決めかねているのかな」

「どうなんでしょう」


 少女の答えは否定か肯定か判然としなかった。


「とにかく落ちるまで待ってみるというのはどうだろう」


 まっさきに口にした事柄は問題の先延ばしでしかなかった。とはいえ、今無理に判断する必要がないのもまた事実である。食べるにしろ、朽ちていかないような方法を探すにしても、落ちるのを無理に早める必要が無いのではないか。


「先に延ばしたところで、きっと近いうちに落ちてしまうのに変わりないですよ」

「それでも、できるだけ長く見ていられるんだったら、それはそれでいいんじゃないか」


 言いながらも、和之は自らの発言をそれほど信を置かず、ただ椎子を見つめる。薄暗さの中では目立たないものの、やや明るい時間帯に見れば、椎子の頬にはたしかなやつれが窺える。そしてそれは時間が経てば経つほど大きくなっていくことだろう。


 不意に中学の頃駄菓子屋のベンチでアイスを食べながら椎子が口にした、皺くちゃになったあともきっと私たちは今みたいに馬鹿やってるんだろうね、という言葉の連なりが頭に浮かぶ。当時はもちろん、今になっても想像できないほど先の話ではあったが、想像はできなくとも、その時がやってくるのはあまり疑っていなかった節がある。いくつになっても、わーわーぎゃーぎゃーとしたああでもないこうでもないを言い続けているだろうと単純に考えていた。


 実の寿命がどれだけかはわからないが、目の前で身内が衰弱していく様を眺めているというのは気持ちいいものではない。もっとも、それは人と関わり続けていれば、いずれは通る道ではあるのだろうが。

 

「これは仮の話ですけど。私たちがいないうちに実が地面に落ちてしまって、そのまま何日か野晒しにされることを想像してみてください。もちろん、中身は干からびてしまいます。変わり果てた実とその中身を見た時、あなたは耐えられますか」


 そんなに間を置くわけないだろうと思った和之は、一日中張りついていられるわけでもないことに気付く。雨の日以外ここを足を運ばないことにしている和之からすれば、森への訪れとその次の訪れの間に一週間以上が空くことはざらだった。仮に自らが定めた規則破るとしても、なんらかの事情で森にやってこられないことは充分にありうる。そうれなれば、少女が口にした出来事に繋がりかねない。


「その時になってみないとわからない」


 考えたくなくて、和之はそう答える。少女は、ええそうですね、と同意を示したあと、


「どんな結果になるにしても、最後はできるかぎり気持ち良く別れたいものですね」


 本人も納得していないさそうな調子で口にした。


 果たして、二回目の別れを気持ち良く迎えることなんてできるだろうか。そんな思いとともに、朽ちはじめている椎子を見つめるが、いつも通り目を瞑ったまま黙りこんでいる。


「君の妹さんは、どんな娘だったの」


 今の話題を続けたくなくて、さほど興味のない事柄を口にする。後ろにいる少女は小さく溜め息を吐いたあと、そうですね、と考えこむような素振りをみせてから、


「私よりも、幾分か暗い娘だったでしょうか」


 なんとも言えない答えを口にした。沈黙が似合いそうなこの少女よりも暗い人間というものを想像すると、それこそ外側にいかにもな雰囲気が撒き散らされるような類か、あるいは誰にも気付かれないようなひっそりと生きる類のものか。乏しい想像力を膨らませている和之の後ろで少女はぽつりぽつりと特徴らしきものを言葉に変えていく。


 元々体が弱かった、そんな自らを利用して甘えるしたたかさみたいなものがあった、私以上にプリンと桃缶が好きだった、暗さみたいなものは家族にかまってもらうためのポーズだったかもしれない。


 告げられる内容から、少女の妹の姿を思い浮かべてみようとする。


 同じ顔かたちの少女たちが机の上でプリンを口にしている。二人とも口数は少ない。むしろ、話しかけているのは姉の方だけで妹は無言で俯き、ゆっくりと一人スプーンを進めている。それをやや心配そうに見つめる姉。その姉が目線を逸らしたあと、ちらちらと窺う妹。


 実際にあったかどうかもわからないおやつ時の光景。頭に浮かべる和之の前で少女は、もしかしたらあの娘は生きにくいと思っていたのかもしれませんね、などとどこか他人事のように口にした。正直なところ、和之の目からすれば、この少女も決して生きやすいという風には見えず、もしかしたら、この突き放した言い方は自分語りなのではないのかという下世話な推測をする。


「妹さんとの別れを引き伸ばしたくはないのかな」


 その問いかけを発したのは、和之自身、少女を自らと同じ立場に引きこみたかったからなのか、はたまた時間が稼ぎたかったからなのか。あるいは両方なのかもしれない。ともかく、言葉は発され、少女は、そうですね、と考えるような風にしてから、


「少しでも長い時間、一緒にいたい気もしますが、一方でもう思いきってしまった方がいいのかもしれないとも思ってます」


 どちらともいえないようなことを口にしたあと、


「きっと、いつ実が落ちてしまってもあまり変わらないんですよ。だって、こうして妹に会えているのは、神様の気紛れみたいなものでしょうから」


 自らに言い聞かせるように告げた。そこまでの話を耳にして、少女が覚悟を決めたがっているのだなと察する。


 一方の和之の気持ちはある意味はっきりしていた。今が続けばいい。正確に言えば、椎子の入った実が萎みはじめる前の状態が続けばいいと。しかし、既にその願いが終わるというのは薄々感じとっている。そもそも、形あるものがいつの日かいなくなるというのは、三年前から身を持って実感していたのだから。

 

「それに考えよう次第では、私は恵まれているのかもしれません」


 今日の少女はいつにもまして多弁だった。少女が自らを急かしているのか、和之には及びも付かないようなかたちの動機がそうさせるのか、あるい元々はよく喋る少女だったのか。わからない。他人のことなどよくわからない。


「残り時間は少ないでしょうが、自分の手で妹を送ることができる。事故だとか病気じゃなくて他ならない私の手で。それにあなたが話した男の人みたいに、妹を食べたら、胸に空いた穴も少しは埋まるかもしれない」


 正常な考え方ではないと思ったあと、そもそもこんな状況に出くわしている時点で、自分も少女も普通などという計りは機能していないのだと和之は気付く。


 思えばいつか実を喰った男性の話をしていた時、最終的に少女は話の中に出てきた男性の態度にある種の共感を示していたように見えた。もしかしたらあの時点で、自らの手で妹にとどめを刺すことを考えていたのかもしれない。和之がひたすら現状維持に甘んじている間、常にその可能性を頭に入れながら。


「たとえ、ここで妹の姿を見ていたとしてもせいぜい気休めがやっとで、その気休めですらずっとは続かない。だから、もうぱくっといっちゃおうかなって」


 少女は和之の横でそんな所感を漏らしたあと、あなたもそう思いませんか、と同意を求めてくる。


「わからない」


 そう口にしつつ、和之の心の中に根拠のない妄想の芽が伸びはじめる。


 一つになれば、椎子の心がわかるかもしれない。


 既にここにやってこなくなったあのサラリーマン風の男性は、実がここに現れた理由を、果たされなかった想いを叶えるためなどと言っていた。それを間に受けたというわけではないが和之は、ぽつぽつ、当時の自身の心について振り返るようになり、今日もまた同じことを繰り返す。


 三年と何ヶ月か前の雨の日。椎子がいなくなったという連絡を聞いた時、和之の中に最初に去来したのはなんらかの冗談だろうという予想、そのすぐ後に嘘だろうという思い。そしてたっぷり時間を置いてから、信じたくないという気持ちが膨らんでいった。


 起こった出来事の大きさにおののき呆然としているうちに時だけが過ぎ去っていき、いつの間にか幼なじみの体は炎に包まれて小さくなり、気が付けば何事もなかったようになった。


 更に何日か経ち、隣に椎子がいない心細さとともにようやく考える力を取りもどした和之の頭に最初に浮かんだのは、なぜ幼なじみがいなくなってしまったか、という根本的な疑問だった。その時になって、椎子がどうも自殺したらしいということを知るにいたった。川の近くで見つかったということだけは聞いていたため、てっきり事故かなにかかとあたりをつけかけていた和之にとってその衝撃は大きく、より信じられないという思いを膨らました。少なくとも、記憶の中にある最後の会話の時、椎子にいつもと変わった様子はなく、その兆候の一つも見出せなかった。近くで多くの時をともにしていたのに、椎子のことをなにもわかっていなかった。そんな事実に思い当たった和之は自らに失望し、もうどうにもならないのだという気持ちを深くした。


 しかし、大きくなったはずの後悔の念は、日に日に薄れていく。和之自身の薄情さからか、まだ慣れていなかった高校生活の忙しさゆえか、あるいは忘れたいという思いでもあったのか。とにかく、和之はその場にあった生活に押しつぶされるように、次第に椎子のことを思い出さなくなっていった。稀に一人娘を失った椎子の母と出くわした時や、命日が近付いた時に思い浮かべこそするものの、ほとんど忘れている日々が続いた。


 そうやって次第にいつも通りに戻っていった和之の日常の真ん中にある日突然落とされた果実とその中におさめられた幼なじみ。今更なぜ、という思いは、この場所に通うに連れて薄れていき、日々へと溶けていった。そして、当然の顔をして訪れようとしている別れの時。叶えられなかった思いとやらの糸口すら、和之は得ていない。


 ならばいっそ、一つになれば。半ば自棄のような考えを支えるようなまともな理屈は存在しないし、食べるという行為に対する抵抗はいまだに残っている。しかし、おそらく三日もしない内に同様の決断を迫られるのには代わりがなく、早いか遅いかの違いでしかないのだろう。なにより、和之の目が届かないうちに実が地面に落ちてしまい腐り果てる可能性もありうる。ならば、今、確実に身の振り方を決めるというのは理にかなっているようにも思えた。


 それでも、わからない、という答えを口にしたのは、今の和之が覚悟を決められなかったからに他ならない。なにもせずにじっとしていることを良しとしているわけではないものの、だからと言って踏みだす一歩のきっかけを掴めるわけでもない。そんな気持ちを抱えたままぐだぐだし、


「良かったら、一緒に食べませんか」


 急にかかった声にぎょっとして振り向く。ゆっくりと明るくなりつつある空の下で、少女は無表情を雨粒で濡らしていた。


「食べるって、実を」


 話の流れからするにそれしかないにもかかわらず、ついつい確認をとる。少女もまた律儀に頷いてみせてから、


「一人だと心細いので」


 と付け加えた。表情を変えず、ただじっと和之の方を見つめている。気を遣われているのか、あるいは本当に心細いのか。どちらかは判断がつかないものの、求められているということは間違いではないと信じたかった。


 再び、実の方を見る。夜明け前の薄っすらとした明るさに照らされた椎子は少々やつれた頬をしつつも、安らかに眠っているようだった。いつにない不健康さが、どことなく美しく感じられた。


「椎子。お前は、何を思っていなくなったんだ」


 静かに問いかけてから、じっくり待つ。一秒、二秒、三秒。五秒、十秒、十五秒。三十秒、四十五秒、六十秒。もう少し、もう少しだけ。そんなためらいとともに期間を延長していくが、一向に答えは返ってこようとしない。沈黙と雨の音を耳にしながら、ただただなにかを待っていた。しかし、待てど待てど、なにかが起こることはなく。やがて、和之は溜め息を吐き、後方にいる少女へと振り返る。そして、息を一つ吸いこんでから口を開き、

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