恋は瞑目
「あのー、どこかで休憩にしません」
十分ほど歩いてから、僕は恐る恐る切り出した。情けない話だが、朝から何も食べていないので、体力が限界だった。
「えー、でも昼には早いしなあ」
夜美は鞄からスマートフォンを取り出す。僕も胸ポケットからスマートフォンを取り出して、時刻を確認する。十一時二十九分。昼には早いというのには、僕も同意できる。
「そもそも、このへんに飯屋とかあるんですか」
「うなぎ屋と、後、とんかつ屋が……あ」
夜美は、何かを思いついたようで、手をパンと合わせた。
「お、なにかあるんですか」
「栄花堂があるわ」
「どういったお店で」
「和菓子屋」
「和菓子屋って、椅子とかなくないですか」
「んー。私の記憶が正しければ、店の外に椅子があって、買った和菓子を食べられる……はず」
時代劇などでよく出てくる茶店のような構造なのだろうか。なんにせよ、今の僕は座って休めるところが必要だった。
「じゃ、行きましょう。僕もう疲れました」
「ん。まあ、ちょっと歩いたら、すぐにあるよ」
夜美の言葉は真実で、僕がくたびれてしまう前にその店に辿り着くことができた。これまた彼女の言った通り、店の前には長椅子があった。椅子を覆うように傘があったが、赤い敷物は敷かれていない。時代劇とは違うらしい。
「ここは、何が美味いんです」
「さあ、なんだったかなー」
「地元なんじゃないんですか」
「あんま来たことないし」
益体もない会話をしながら、店に入る。
店内はそれほど広くない。清潔ではあるが、どうも薄暗いのが気になった。客は三、四人おり、山の麓という悪条件の立地にしては、繁盛しているように思えた。
その先客の一人が、こちらを向いた。こぢんまりとした店の中では目立つような、派手な格好をしている。
「あれ、甘粕君?」
そう言って、その女性は僕の方に歩み寄ってくる。
「綾香先輩。どうも」
僕は軽く会釈を返す。職場の先輩だった。
「えー、なんか変なところで会うねー」
先輩はからからと笑う。笑いにつられて、長い黒髪が大きく揺れた。
「そうですね。先輩、家、この辺りじゃないですよね」
「うん。ここの和菓子すごく好きで、たまに買いに来るんだよね。ていうか、それはこっちの科白っていうか……」
先輩はちらりと、僕の後ろあたりに視線を向けた。僕も振り返る。さっきまで僕の真横にいた夜美は、いつの間にか斜め後ろのほうに移動していた。
「親戚の子か何かかな?」
「そこは普通、彼女かって聞くんじゃないんですか」
「あー、ない。それはない」
にやにやと笑いながら、先輩はきっぱりと断定する。
顔もスタイルもいいし、洒落た人ではあるのだが、色々なことがはっきりしすぎている人だった。正直言って、僕はこの手のタイプの人は苦手だった。嫌いではないのだけれど。
「甘粕君って、そういうのから一番遠いっていうか、俗世を嫌う隠居老人みたいなとこ、あるし」
「なんですか、それ。僕は兼好法師ですか。……まあ、彼女は知り合いの妹ですよ」
僕は、夜美の方に手を向ける。
「中野と申します」
夜美は、小さな、しかしよくこなれたよそ行きの声でそう言うと、やけに整ったお辞儀をする。僕はぎょっとして、固まってしまう。
彼女が折々見せる、育ちの良さみたいなものには、あまり慣れない。僕の知る夜美は結構ぶっきらぼうだし、口が悪いときもある。夕輝から聞く夜美も、僕の印象からそうかけ離れることはなかった。
二人が僕よりは金のある家庭に生まれたのは事実だし、躾もそれ相応にされたのだろうから、おかしなことではないのだろう。しかし、やはりちぐはぐな感じがする。ツギハギのパッチワークを連想させるのだ。
「あ、これはどうもご丁寧にー。甘粕君には職場でお世話になってますー」
対して先輩はからかうような軽い口調で、挨拶を返していた。この二人は相容れない存在なのだろうな、と突然にそんな考えが浮かんだ。
「じゃ、私は帰るから」
「あ、はい。お疲れ様です」
「ふふ、邪魔しちゃ悪い、しぃ?」
先輩はしたり顔で頷いている。僕はもうどうとでもなれという心境で、
「はいはい。では、月曜日に」
「んー」
先輩はすれ違いざまに僕の肩を軽く叩いて出て行った。
「はあぁ……」
先輩の姿が完全に見えなくなってから、大きく息を吐く。相変わらず、話すと疲れる人だ。職場だけでなく、プライベートでもそうであるということは新しい発見だが、心底どうでもいい。
「すみませんね。まさか職場の先輩に会うなんて」
「ん。別にいいよ」
夜美は何でもないような態度をとっていた。しかし、僕は彼女が何か心に引っかかりを覚えているように見えた。ただの勘違いかもしれないが。
なんとかしなければと思うものの、結局いい案が思いつかず、はぐらかすように、
「あ、じゃあ、何買います? 一応社会人なので奢りますよ」
「へー。ごちそうさま」
固辞しないところが、夜美らしい。僕は幾分か救われた気持ちで、ガラスのショーケースに向かい合った。
「さっきの人と、つきあってんの」
外の長椅子に座ってのどかに湯飲みに入った熱いお茶を堪能しているところに、彼女がそんなことを言ってきたものだから、喉に入れたばかりのお茶を逆流させかけた。危ない。
「ごほっ、こほ……。さっきのって、まさか綾香先輩のことですか」
「うん」
「そんなわけないでしょう。ただの職場の先輩ですよ」
話が飛躍しすぎだと思ったが、そうでもないのかもしれない、と思い直す。僕と夜美は随分久しぶりに会ったわけだし、そこに親しげな女性が現れたら、そう繋げてしまうものなのかもしれない。
「なんで、そう思ったんです」
僕は店で買った彼岸団子を口に入れながら問うた。小麦を捏ねただけの、ほとんど味のしない粘着物をもごもごと噛む。
「いや、だって、下の名前で呼んでたし。甘粕、あんまり、下の名前で、人、呼ばないじゃん」
ああ、そういうことか。夜美の心情のプロセスをやっと汲み取ることができた。
「いえ、あの人、綾香っていう苗字なんですよ」
「え、苗字?」
夜美は目を見開いた。そうだろうな、と思う。僕も、初めて名前を見た時には驚いた。
「そう。綾香加奈っていうんです、あの人。馬鹿みたいな名前ですよね」
「珍しいね」
「先輩曰く、そう珍しい苗字でもないらしいんですが」
「はー」
夜美はいたく感心したようで、何度も頷いたり、ため息をついたりしていた。そうして、夜美も僕の金で買ったおはぎに手を伸ばす。
しばらく、和菓子を食べるだけの静かな時間が続いた。
「でも」
僕が彼岸団子を食べ終えたころに、夜美はまた口を開いた。
「実際、どう考えてるの」
「何をです」
「恋愛」
僕はお茶で丹念に唇を湿らせた。目の前には桜の木が数本ある。山へと続くこの坂は、一定感覚で桜が植えられていた。春になれば、人工的な美しさと自然の美しさが交じり合った景色が広がるのだろう、と想像できた。
「なぜ」
端的な問いに、僕はさらに端的な問いを返す。
「そこまで深い意味はないけど。ただ、甘粕からそういうこと聞いたことないなあ、って」
「確かに、話した覚え、ありませんねえ」
夕輝となら数度くらいあると思うが、夜美とはない。それもそのはずで、彼女は、僕が高校生のときは中学生で、大学生のときは高校生だったのだ。そこまで歳の離れた女性に恋愛話を持ち掛ける気にはならなかった。
「んー」
恋愛については夕輝とも話したし、大学の友人とも話した。使い古されすぎた話題である。
あらかじめ決められた台本を読むように、僕は話し始める。実際、何度もしたことのある話なので、台本があるようなものだ。
「まあ、結論から申しますと、僕は特に恋愛をしたいという願望がありませんね」
十代の頃ならまた違った。あの頃の、心と体がダイレクトに繋がっている感覚は失われてしまって戻ってこない。そのままだったら、恋愛についてはもう少し楽だったかな、と思う。
「面倒な思いをしてまでしたいと思えるような魅力的なものでもありませんし。恋愛的な気分なんて、本やドラマやゲームで味わえますしね。それで十分ですよ」
言い終えてから、顔を顰める。自分のことで、分かりきったことを語るのは、どうにも居心地が悪い。そういう気味が悪いほどの肯定的な諦観が、形となって表に出るのが嫌だった。
「甘粕。それはおかしいよ」
夜美は首を振った。やけにはっきりと否定するので、僕は声を失った。
「だって、その論理でいくと、ゲームで人殺しをするから現実でも人殺しをするっていう、トンデモ理論がなりたっちゃうよ」
夜美は、くつくつと笑う。そして、面白い実験台を見つけたエセ科学者みたいに、片方の眉を上げて、
「それとも、甘粕はそのトンデモ理論の支持者だったりする?」
「そういうわけではありませんが……。大体、逆ですよ」
「逆?」
「その理論では、架空で飽き足らず、現実で殺人を起こしてしまうってわけでしょう? 僕は、架空で満足しています」
「なるほど、そうなるか」
夜美も鞄からスポーツドリンクを取り出して、飲み始める。和菓子とスポーツドリンクの相性はどうなのだろう、と思っていると、
「でもさ。実際のところ、甘粕が恋愛願望薄いの、違うところに要因があると思う」
「それは、なかなか面白い意見というか、なんというか」
曖昧に答えながらも、胸の中で夜美の鋭さに舌を巻いていた。
何度も何度も話して結論めいたものを導き出したけれど、理由がこんなものではないことは悟っていた。
おそらく僕にとって恋愛は、架空の存在なのだ。先に架空がある、存在なのだ。
「説明してみろって言われると困っちゃうんだけどね」
夜美はそう言って、スポーツドリンクを長椅子の上に置いた。そして、最後のおはぎを口に入れた。
「そういう貴女はどうなんです」
心の奥を暴かれたのが悔しくて、僕はつい意地悪をしてみたくなってしまった。どうにも子供じみているが、こういうときは衝動に身を任せるしかないと、二十六年の自分との付き合いでいい加減理解していた。
「私?」
夜美は戸惑っているようだ。瞳がせわしなく左右に動いている。でも、その動きに若干演技じみた部分があったので、予想していない質問ではなかったのだろう。
夜美は性格破綻者でもなければ、見られない容姿をしているわけでもない。まして、東京の大きな大学に進学したのだ。今まで恋愛的なことに全く関わらなかった、というのはあまりにも非現実的だろう。
夜美は、目を伏せて、何かを考えているようだった。好奇心が期待を膨らませていく。
「私さ――」
やがて夜美は顔を上げ、少し遠くの桜に視線を飛ばした。
「今、卒論書いてるんだよね」
「は……」
脈絡のなさに、僕は口をあけて呆けるしかなかった。期待をしていたぶん、肩透かしを食らってしまう。
「テーマは、北村透谷なんだけど……知ってる? 透谷」
「名前だけは、どこかで聞いたような」
「うん。まあ、明治初期の詩人兼評論家だよ」
そんなことを言われても、僕には何が何だかさっぱり分からない。そもそも、夜美が東京の大学に在籍していることは知っているが、学部や学科までは知らない。話を聞くに、文学、それも日本文学を学んでいるようではある。人並みに本は読むが、その分野に明るいわけでもないので、話についていくだけで精一杯だ。
「その人ね、恋愛至上主義者で有名なんだよ。見合いが当たり前の時代で、略奪婚なんてやらかしてるし。キリスト教を信仰していて、魂のつながりにやたらこだわるの。でもさ、透谷は最後自殺しちゃうんだよ。恋愛の果ては綺麗なもんじゃなかった! なんて言ってさ。
滅茶苦茶だけど、きっと本当に恋愛のこと分かってたんだとは思う」
早口で一気に捲くし立てて、息をつぐように口を噤む。そして、夜美は頭を垂れ体を丸めた。
「私には、わからない」
感情のこめられていない声音が、僕の胸を突く。
「わからない」
彼女は、同じ言葉を繰り返した。
わからない。わからない。わからない。
僕は目を瞑った。
わからない――
「多分、私は、どうでもいいんだ」
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