彼女の香水
暑い。
道端で揺らいでいるような夏の残滓が僕を苦しめていた。
真夏のような即効性のある暑さではない。歩いているうちに、暑さに体力が奪われていることに気が付く。さながら、遅効性の毒。じわじわと時間をかけて体を喰らい尽くしていく。
シャツの首元を緩め、ズボンのポケットに入っていたハンカチを取り出して、額に当てる。下を向いて歩いていると、道にコスモスが咲いているのが見えた。赤紫、黄色、白と、色は夏の花とそう変わらないのに、秋という感じがする。まさに九月にぴったりの花だ。
ただ、こんな道の隅で鮮やかに秋を主張するのではなく、違う方法でもっと堂々としてほしい。
そんなことを不満に思っても、口に出せるわけもなく、まして暑さが収まってくれるわけでもない。僕は諦めを抱きながら、ただただ歩を進める。
山に入るまでにあった会話は、自ずとなくなっていた。暑さのせいもあるだろうが、もともと僕たちには、それほど会話の生まれる余地があるわけではなかったのだ。僕にとって夜美は夕輝の妹で、夜美にとっては兄の親友。僕らはあくまでそんな関係だった。
することもないので、僕は数歩先を行く夜美を眺めることにした。
彼女が帰ってきてから初めて、まともに彼女の姿を見た心地がする。どんなに見てみても、昔と大きく変わったところはない。それでも、良く見てみると小さな変化はあるようだった。
もともと白かった肌は、さらに白くなった。病的に青白かった夕輝ほどではないが、不健康そうに思えるくらいには白かった。
顔立ちは当たり前だが、大して変わらない。夕輝と良く似ている。ただ、夕輝は笑顔が似合う男だったし、横顔が綺麗な男でもあった。こうして見ると、彼女の横顔はあまり綺麗には見えない。頬に出来たにきびだとか、少したるんだ首元が際立ってしまうのだ。
今まで夕輝と夜美はそっくりな兄妹だと思っていたが、こうして見ると違う部分も多いことに気付かされる。肌荒れなど、夕輝には見られない特徴だった。夜美の肌は、かなり荒れている方だと思う。体質的なものなのか、肌の手入れを怠っているせいか。両方だろうか。
それと……夜美は、無表情が一番整っているように見える。ある程度遠くから、表情を浮かべず佇んでいるのがいい。それはきっと、絵にしたくなる。
もっと夜美をじっくり見たいという思いに駆られ、ふらりと彼女に近づく。近くに寄ってみると、彼女から薬くさい何かのにおいがした。香水だろうか、と一瞬思うが、薬くさい香水など需要がないだろう。それにどこかで嗅いだことがあるように思えた。目を閉じて香りに集中すると、中学生の頃の林間学校が思い浮かんだ。……そうだ。これは虫除けスプレーのにおいだ。
「あいつ、山ん中で暮らしてるくせに、虫とかぜんぜん駄目なんだよな。というか、動いてるもの全部無理とか言ってたわ。やばくね」
かつての夕輝の言葉を思い出す。あのときは、具体的にどういったところが「やばい」のかということにしか興味がなかった。今は、ちゃんと夜美自体に興味がある。
「なに……、私のこと見つめんの、やめて」
夜美は、威嚇するみたいに低い声で警告する。僕の行動に気付いたらしい。僕はとっさに作り笑いを浮かべる。
「いやあ……。帰ってきてから、夜美さんのこときちんと見ていなかった気がしたもので」
「それって、きちんと見る必要、ある?」
「あるんじゃないですか、一般的に」
「一般的に?」
「一般的に」
言い訳めいた僕の主張に、夜美は眉を顰めている。デリカシーのない行動であったことは認めるが、夜美の反応も少々大げさだと思う。
「私なんか見ても、楽しくないでしょ。昔とそんなに変わらないし」
「まあ、それは」
「そこは否定してほし――いや、そういうこと言うのは、ずるいか」
夜美は一人で自分の言葉を呑みこみ、嘆息した。そんな様子が何だか気の毒に思えて、
「服とか、髪型とか、変えてみたら、そういうのって結構変わると思いますけどね」
「髪は、短くないと髪洗うのめんどいし、服は大学に入って結構買いかえたんだけどなあ」
夜美は本当に残念そうに、俯いた。
「あー、まあ、貴女の前の服装とか、僕、あんまり知りませんし。後は、ほら、化粧とか」
たどたどしくフォローを重ねながら、僕はもう一度夜美の顔を見てみる。
汗のせいか油のせいか、彼女の化粧は目に見えるほど崩れていた。もともと無造作に置かれた色がさらにぐちゃぐちゃになり、なかなかに悲惨だ。それでも、彼女はあまり気にしていないようだった。
純粋にもったいないなあ、と思う。化粧というものは色を塗り重ねるのではなく、色を味方につけて自分の顔の魅力を引き出す行為だと僕は理解している。それは単に絵を描くより面白そうだ。流石に自分の顔でしたいとは思わないが、僕が女性だったら化粧が好きになっていただろう。
「化粧、ねえ……。なんかあれ、学問みたいに奥が深すぎてついてけないんだよねえ。それに時間かかかるし、ほんと」
「あー、やっぱりかかるんですね、時間」
「かかるよ、めっちゃ。朝とか化粧している時間分寝られたら、どんだけ気持ちいいだろうって思うもん」
化粧も、実際問題は沢山あるのだろう。ただ、男の僕からは、どうしても実感がわかない。
「まあ、でも、就活のときは毎日やったし……。来年からは、毎日やんなきゃ駄目なんだろうな」
僕は流れでそれに同意しようとして、おもむろに歩みを止める。え、という音が、声にならずに肺のあたりで燻った。
「待ってください。あなた今、何年生ですか、大学」
夜美も、やや遅れて足を止めてくれる。
「え、四年生だけど」
夜美は怪訝そうに僕を見返している。
「四年生?」
大学の四年生特有の、「年」のところの発音を上げる言い方がこそばゆい。舌に馴染ませるように僕は、四年生、ともう一度言う。
「そう言ってるじゃん」
「来年から、社会人?」
「文系だから院に行かないしね」
それが何か、というような感じに、夜美は首を右に傾けた。
夜美の学年については考えてもいなかったから、何となく動揺してしまう。
「え、じゃあ、どこかに就職」
「当たり前でしょ。家事手伝いなんて、いまやレアジョブなんだから」
「へ、へぇ……。ちなみに、どこかとかは、聞いても?」
自分から聞いておいて、どうにも地に足が着かないような気分になる。懐かしい。自分も大学四年生の時、友人に就職活動の状況を聞くたび、こんなふうになった。何だか相手に悪いことをしているような、パンドラの箱をあけてしまうかのような、それでいて聞かずにはいられない引力を持った気分だ。
ふと、最初に会った時に、夜美が僕の職場の大学名を落ち着かない様子で尋ねてきたのを思い出す。四年生なら、現在進行形でかつての僕のような状況に置かれているわけで、ああいった尋ね方になってしまうのも無理がなかったのかもしれない。今さらながら、納得する。
夜美は、ありふれた愛想笑いを口元に浮かべ、
「いいよ、別に。ゼネコンだよ」
「ゼネコン?」
「あー、いわゆる建設業? ってやつ」
それはまた面妖なところを選んだものだ。建設業は男性社会というイメージがある。僕の知る限りの女性で、その業界に足を踏み入れたものはいない。
「多分、君も名前は知ってると思うよ」
そう言って、夜美は地元で有名な企業の名前をあげた。
「すごいじゃないですか」
僕は本心から、賞賛する。しかし、夜美は愛想笑いを嘲笑いに切り替えて、
「いや、コネだから」
「コネ? え、夜美さん、なにか部活でもしてたんですか」
コネといえば部活だ。僕の職場にも一定数、スポーツ系の部活のコネで入社した人がいる。かく言う僕も、今の職場はゼミの先輩の紹介が無きにしも非ずだったから、コネに近い。
「違うよ。父さんの」
「は……へえ。なるほど」
夜美の父親は不動産屋を経営していたはずだ。その伝手なのだろう。
「百社落ちた時点で、自分の力でやるの、諦めたよね。使えるもんは使った方がいいわってね」
「百社! よくやりましたねえ。僕はもう二十社の時点で、面倒になりましたよ」
正確なところは覚えていないが、僕は割と初期の段階で就職活動を諦めてしまったことは覚えている。先輩が話を持ってこなければ、実家に寄生してフリーターでもしていただろう。
僕は運がよかった。誰もが一度は思う、自分は運がいいという信仰みたいなものを、僕もまた持っていた。
そして、夜美も幸運だった。そういう星の下に生まれた。
「後半は、もうゲームみたいなもんだったけどね。どれだけ落ちられるか、みたいな」
「なるほど。それはまた、面白そうですけど」
「まあでも、とにかく私には就活は向かないってことは、よぉく分かったわ」
「それには、ふかぁく共感できますね」
確かに、夜美は就職活動に向かないだろうな、と思う。笑顔が似合わないのが地味に致命的だし、投げやりな彼女の雰囲気が面接官に好印象に与えるとも思えない。
そして、僕も就職活動に向く人間ではなかった。それでも、働くのに特に不便はないから、世の中案外でたらめだ。
「まあ、なんにせよ、おめでとうございます」
「ん、ありがと」
「何かお祝いの品とかいります?」
「別にほしいものはないかなあ」
夜美は微苦笑して、また歩き出す。僕もそれに続いた。
「あ、でもさ」
夜美は思い出したように、話を続ける。僕は彼女の肩を見た。
「化粧、めんどくさいけど、嫌いではないんだよね」
「ほう」
「なんかさ、隔てられるような気がするから。外界と?」
「うーん?」
僕は唸りながらも、夜美の言葉を本当は理解できていた。
彼女は壁を作る。壁の中で、一人だけの世界で、個人的な空間で、最も安定して輝く。彼女はそういう人間なのだろう。
風が僕たちの間を吹き抜けていく。虫除けスプレーが微かににおった。これは正しく、夜美の香水なのだろう。そう思った。
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