山の始まり
「そういえば、その敬語、相変わらずなんだね」
バスから流れる景色を目的もなく見ていると、前に座る夜美が声をかけてきた。
休日のバスは閑散としていて、二人席なども空いてはいたが、お互いそこには座らなかった。それが、僕らの距離感なのだろう。
視線を窓から、前に座る夜美に移す。夜美は、首だけをこちらに向けて僕を見ていた。
僕は、にっこり笑って、
「僕は、敬語を愛してるんです」
「……ああ。そうだった。うわあ、相変わらず気持ち悪」
夜美は顔を引き攣らせた。僕は笑顔を保ったまま、
「まあ、自覚してますよ。でも、貴方は分かってくれると思ったんですけどねぇ」
「は? なぜに」
夜美は呆けたように、目も口も大きく開けている。僕は思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、
「い、いや。まあ、夕輝よりは貴方の方が、僕と似ていますから」
「ああ、まあ、それは否定しないけど。でも、それとこれは別じゃん」
「別、ですかねえ」
「別、だよ」
夜美はそう言うと、前を見た。
「じゃあ、誰でも彼でも、敬語使ってんの。親とかも?」
「まさか。それじゃ気味悪がられますよ」
「……まあそうだろうね」
「だから、一応使い分けてますよ。TPOをわきまえて」
僕がそう言うと、夜美は、
「TPO、ね」
と興味なさげに相槌を打った。
「でも、兄さんには使ってなくない?」
ぎくりとする。僕は、悪戯がばれた子供のような心持ちで下を向いた。
「そう、ですね」
「なにか、意味でもあんの」
「さあ、どうでしょう」
多分、僕にとって夕輝は特別。そういうことなのだろうと思う。彼は幼馴染だ。親友だ。十分特別と言える条件は揃っていた。
夜美は再び僕の方に振り向き、それからまた前を見た。
「まあ、どうでもいいけどね」
どうでもいい。それは夜美の口癖だった。
本当に変わらないのだな、と改めて思う。まるで時を止めてしまったかのように、夜美はそのままだった。あるいは、彼女の中で何かが一周して元通りになってしまったかのような。
「ねえ、降りるの、次だよね」
僕は、はっと顔を上げ、運転席にある掲示を見る。確かに、先ほど彼女から聞いた停留所の名前が表示されていた。
ピンポーンと軽やかな音が鳴り、「次、止まります」という電子音みたいな声が続いた。どうやら、夜美が停車ボタンを押してくれたらしかった。
「あ、すみません。ありがとうございます。いやー、だめですね。普段バスなんて乗らないから、どうすればいいのかすぐにでてこなくて」
「そうなの? じゃ、通勤とかどうしてんの。あの辺、電車の駅遠いじゃん」
不思議そうに問う夜美に、僕は薄く笑った。そういえば、夜美は東京の大学に進学していたのだった。あちらなら、公共機関を利用して移動するのが当たり前なのだろう。
「車ですよ」
「車? いいの?」
夜美の声が跳ね上がる。
「もちろんですよ。というか、車がないと移動できませんよ、この辺は。貴方も御存知のはずでしょう」
「あ……ああ、そうか。忘れてた」
全く変わっていないように見えて、こういうところだけ変わっているらしい。おかしなものである。
ぎいぎいと、軋むような音を立ててバスが止まる。僕と夜美は立ち上がり、運転席へ向かった。夜美が先に、運賃を支払っていたが、何故かまごついている。彼女は財布の中を引っ掻き回しているらしかった。
はて、彼女は僕よりバスに乗りなれているのではなかったか。そう思いながらも、
「あの、二人分払っていいでしょうか」
と夜美の後ろから、見えない運転手に向かって話しかける。僕は返事を聞く前に、小銭と整理券を投げ入れた。
「ほら、夜美さん。行きましょう」
「あ、うん」
僕は夜美の背中を押し、そそくさと階段を下りる。彼女は降りきる直前、律儀に運転手にお辞儀をしていた。
バス停の前には、あまりはやっていなさそうな茶葉専門店があった。歴史だけは感じさせるから、老舗なのかもしれない。
なんとなく僕たちは、そこに留まってバスが視界から消えるのを見送っていた。バスが完全に見えなくなってから僕は、
「なんで、あのとき、まごついてたんです」
と聞いてみた。すると夜美は、さも当然のことを言うように、
「だって、スイカじゃないし」
と返してきた。予想外の返答に、面食らってしまう。
「す、スイカ?」
文脈的に、夏に食べる西瓜でないことは分かる。おそらく、東日本で一般的な電子マネーの方だろう。
ただ、そんな言葉が夜美の口から飛び出してくることが予想外だった。
「スイカ。そう、スイカだよ」
僕の困惑をよそに、夜美は何かを思い出した様子で声の調子を上げている。そして、僕をきっと睨みつけた。僕はたじろいでしまう。
「そう。今日さ、新幹線降りて駅見たら、わたしびっくりしちゃってさ」
「びっくりって……。あ、とりあえず歩きながらにしましょうか」
先ほどの二の舞を避けるため、僕は手を前に振る。夜美はそのサインには、素直に従ってくれた。僕は彼女の隣を歩く。
「まあ、まず普通に様変わりしていたことに驚いたよね。前とは大違いだし」
新幹線の止まるあの駅は、県内で最も大きな駅だ。それは、夜美がここに住んでいた頃もそうだった。ただ、一年前、新幹線のルートが今までと変わった。そして、観光客確保を理由に、駅は大幅な改修工事を行った。昔は単なる大きな駅だったのが、今は商業施設が入り、まるで都会の駅のように賑わっている。
「ちょっとJRの方覗いたら、自動改札の方にわざわざ、スイカは使えません、って書いてあって。もう、嘘でしょって思ったよね。JRなのにそんなとこあるのかって」
「は、はあ」
僕としてはそれが当たり前のことなので、夜美の驚きには全く共感できない。早口で興奮を伝える様子を見ていると、彼女はすっかり都会の人になってしまったのだな、と思う。
「でも、もっとおかしいのは、駅の中とか、駅の外のお店ではスイカが使えるんだよ。本来の用途では使えないくせに、なんかちぐはぐな感じだよね」
「ああ、それは」
僕もそれだけは頷ける。あの駅は新しいものと古いものとが入り混じって、すっかり混沌とした場所になってしまった。観光客の確保と現地人の都合。方向性の違う二つの現実的な問題が、ぶつかり合って不協和音を奏でている。そんな感じだ。
駅に考えを巡らせていると、あることを思い出した。
「今日は、その駅から直接来たんですか。それとも、実家から?」
聞きながら、実家からだろうな、と思う。夜美は大きな荷物を持っていなかった。
「あ、うん。駅からだよ」
しかし、返ってきた答えは予想とは違っていた。
「荷物は?」
「コインロッカーに」
「ああ、なるほど」
僕はあまり旅行などをしないので、その選択肢を思いつかなかった。
「では、実家には伝えてないんですか。その……」
言葉が続かなかった。躊躇がねっとりと喉を塞ぐ。
「言ってない」
吐き捨てるように、夜美はそう言った。僕は思わず彼女の横顔を伺う。茶色い髪が顔の側面を覆っていて、僕からは表情が見えない。彼女は意図的に顔を隠している。そう思えた。
「そう、ですか」
緩慢な動きで首を元に戻していく。そして、塞がれた感覚の残る喉から返事を搾り出した。
「あ、でも、実家なら通り道だよ」
「は、い?」
再び横を向く。今度は、夜美の顔は髪の毛で隠されていない。こちらを向き、片方の口角だけを上げて笑っている。
「貴女の家って、あれじゃありませんでした」
「あれって?」
「あれですよ。険しい山の中にそびえ立つ……」
夜美は、くくっと笑い声を上げた。浮かんでいた笑みがさらに深くなる。
「なにそれ。小説の一節みたい」
「ちょっと。聞いてませんよ。山に行くなら、それなりの格好をしないと」
うろたえながらも、夜美の笑顔に目を奪われる。彼女は笑うと途端に不器量になる。剥き出しの八重歯も、頬骨のあたりに盛り上がる肉も、細く微妙に歪んだ瞳も、すべてが悪い方向に目立つのだ。
笑顔は綺麗、という先入観があるから、彼女が引き起こすズレは、そのまま彼女の変わり具合をあらわしているようだ。少なくとも、彼女以上に笑顔が似合わない人間を僕は知らない。
「兄さんから何を聞いているのか知らないけど、別に浅間山を登るというわけではないんだから。きちんと道、舗装されてるし」
「九百八十円のスニーカーでも行けます?」
「行ける行ける。ていうか、私ヒールだよ」
ほら、と言って、夜美は僕の方に右足を差し出す。黒くシンプルなつくりのサンダルは、確かに踵が高く見える。
「ならいいですけど……いや、待ってください。実家に寄ってくとか言いませんよね」
「流石にないから安心して」
ゆっくりと笑みを引っ込めていく夜美を見て、僕は息をつく。
しばらく無言で歩を進めていると、突然夜美が走り出す。僕は追いかけるか追いかけないか、三歩歩く間だけ考えて、結局追いかけないことにした。広がっていく僕たちの距離を、僕は見ていた。
やがて、夜美は消えかかった小さな交差点の前で立ち止まった。くるりと振り返り、腕を組んで僕の方を見た。僕を待っているらしいと分かったが、歩く速度は変えないでおいた。
しばらくたって、僕が追いつくと夜美は、
「ここがはじまり」
と、宣言をするように言い切った。
「はじまり? なんの、ですか」
「山。山の始まり」
夜美はそう言って、顔を横に向けた。僕もつられて、首を動かす。
夕輝と夜美の実家がある山。そして、夕輝のいる場所。その始まりの、緩やかな坂道が目の前に伸びていた。
どこまで登ればいいのだろう。行く先が明確でないから、勝手に遠く感じていた。
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