再開の儀式

 昔から夢を見ない性質だった。

 「夢はいつも見てるんだよ。それは覚えていないだけだ」なんて、夕(ゆう)輝(き)は野暮なことを言っていたが、とにかく僕は夢を見ない。

 しかし、今。目を覚ますと、何か夢を見たことを自覚していた。ぼんやりとした頭で、頭の中心の方を意識して力をこめて、記憶を引き出そうとしてみる。

 過去の記憶の、夢だった気がする。でも、そこには明らかな間違いがあった。その間違いを、夢の中の僕は認識していなかった……

 そこまで考えて、頭を掻く。何だか勝手に自分で夢を作り上げていっているようで、気持ち悪かった。あるいは、夢というのは起きてからの意識が作り出すものなのかもしれない。

 そんなふうにしているうちに、段々と意識もはっきりしてきて、僕は上体を起こす。布団が生んだ自分の温もりがするりと零れ落ちていく。

 そこで僕はやっと、玄関のチャイムが鳴っていることに気が付いた。急いでベッドから飛び降りる。こんなときも下の住人を気遣って音を出さないように歩いてしまうのは、マンション暮らしの長さ故なのだろう。

 倒れこむような歩き方でスピーカーまで向かい、チャイムを遮るように受話ボタンを押す。


「はい」


 寝起きの声は低くなってしまいがちだから、努めて高い声を出すようにする。

 普段ならば、ここでドアの向こうの相手が勝手に名乗ってくれる。しかし、いつまで経ってもスピーカーは喋らない。

 おかしいと感じると同時に、一つの可能性を思いつく。息を呑む。そのまま吐き出す息で、答えあわせを行おうとしたが、


「甘粕」

 

 と、彼女の――夜美の声がした。どうやら、時間切れのようだ。僕はちょっとだけ笑って、


「あー、と、えっと、ですね。僕、今起きたばかりなんですよ」

 

 言葉にしてから、この状況のまずさに思い至る。僕はばっと、素早く後ろを振り返る。目覚まし時計は直線で、「09:42」という数字を形作っていた。

 普段から、目覚ましを鳴らす時刻は七時と固定していたが、アラームの音を聞いた覚えはない。夢に解けたのかもしれない。


「ですので、ちょっと、待ってもらうと、思うんですが」

 

 会話を続けていて、三年ぶりに会う人間に向かって言うことではないな、と思い始める。始めるが、どうしようもない。起床したばかりという現実的な問題が、今純然としてここにあるのだから。


「いいよ。外で待ってる」

 

 返ってきたのは気遣うような調子の声だった。僕は流石にいたたまれなくなって、


 「えーと、中で待ちます?」


「やー、それだと、甘粕が可哀相だから、いいよ。ゆっくり支度して構わないから」

 

 その言葉を最後に、スピーカーは遠ざかる足音を流し始める。こうなってしまえば、ドアの向こうのことに干渉できるはずもなく、僕はボタンを押してスピーカーを切る。置いていかれた、という感じが拭えなくて、少し寂しい。だが、寂しさをじっくり味わっている暇はなかった。

 誰もいなくなったことをいいことに、僕は慌しく朝の支度を始めた。



 十五分ほどで支度を終え、僕は夜美に電話をかけた。


「もしもし、支度終わった?」


 夜美はすぐ電話を取った。


「ええ、終わりました。すみませんでしたね。今どこにいるんです」


「君のマンションのした」


「あー……。この辺に入る店もありませんしね。すみませんでした、本当に」


 この辺りは住宅街だから、喫茶店やレストランの類はない。少し歩いたところにコンビニがあるくらいだ。


「別にいいよ。そちらに向かうね」


「あ、いいですよ。僕がそちらに向かうので」


 僕はそういって、玄関から外に出る。そして、ところどころ薄汚れた廊下を足早に進み、階段を下りてマンションの入り口へ向かう

 歩いている途中で、夜美がどうやってここに辿り着いたのかという、至極まっとうな疑問が浮かぶ。夜美は僕の実家の住所は知っているかもしれないが、一人暮らしをしているこのマンションの住所は知らないはずだ。そもそも、一人暮らしをしていたことすら知らないかもしれない。

 後で聞いてみるかと思いながら、狭いエントランスを抜ける。日の光が僕の目を刺した。僕は目を細めてから、夜美を探す。


「甘粕」


 首を左右に動かしていると、不意に肩に手を置かれた。僕はびくりと体を震わす。他人に体を触られるのは、あまり好きではない。恐る恐る後ろを振り返る。


「ああ、相変わらず駄目なんだ」


 夜美はそう言って、少しばつが悪そうに笑った。僕はきちんと体を夜美のほうに向け、それから彼女をじっと観察した。

 驚くことに、夜美は最後に会ったときからあまり変わっていないように見えた。高校の同級生や親戚を見る限り、女性は大学に行くと、化粧やらアクセサリーやらネイルやらと、様々なお洒落を覚えて別人のようになる。それが常識だと思っていたから、彼女の変わらない姿は異常に見えた。

 首元にネックレスもなければ、指に色もついていない。一応化粧はしているようだが、とりあえず色を塗りました、と言わんばかりの適当さである。

 そして、飾り気の少ない、黒一色のワンピースを着ている……


「あー、なんていうか、とりあえず、お久しぶりです」

 黒を目に焼き付けてから、まだ挨拶もしていないことに気付いて、取り繕うように告げる。


「あ、そうだね。久しぶり」


 夜美もどこか投げやりに、返事を寄こす。


「……」


「……」


 しかし、そこから一向に話が進まない。何かを言わなければならないと思うし、言いたいことも沢山あるはずだが、何も言葉が出てこない。

 きっとこの現象は、「再会」の通過儀礼みたいなものなのだ。そして、僕たちは正しく「再会」できているのだ。僕は心のどこかでその事実に安堵する。


「い、今更だけど、突然のでごめん。もしかして、忙しかった?」


 先に沈黙を破ったのは、夜美の方だった。声が若干上ずっている。そこに確かな白々しさを感じながら、僕は微笑む。


「いえ。今は夏休みですから、仕事は暇な方ですよ」


「……夏休み?」


「あれ、もしかして知りません? 僕の仕事」


「むしろ、どうして知ってるのか……」


 夜美は呆れたように眉を寄せる。そう。この表情だ。これが最も夜美らしい表情だと勝手に思っている。僕は愉快になって、笑い混じりに、


「まあ、ですよねー」


「そう思ってるなら、最初からそんなふうに聞くなよ……」


 時々口が悪くなる癖も、健在のようだ。


「で? なんの仕事してるの」


「まあ、もったいぶるような職ではありませんけどね。大学の職員です」


「大学?」


 夜美は心底驚いたというような顔をして、首を傾げた。


「昔、死んでも公務員にはならない、って言ってなかったっけ、君」


 そんなことを言った覚えはないし、何か誤解が生じているようだ。


「大学職員は、公務員じゃありませんよ……」


「え、君の母校のじゃないってこと?」


「母校じゃありませんし、仮に母校だったとしても、公務員にはなりませんよ」


「嘘。だって、国立でしょ」


「国立大学が法人化したの知らないんですか」


「あー、なんかあった気がする」


「まったく」


 僕は苦笑いを浮かべながら、もうあの白々さがないことに気が付く。人はこうやって、自分の記憶と答え合わせをして、今に繋げていくのだろう。


「ちなみに、大学名とか聞いていいの」


 何故か夜美は上目遣いで、どこかそわそわしていた。


「なんで、遠慮がちなんです」


「……いや、なんとなく」


 僕は不思議に思いながらも、大学名を口にする。


「ふーん。それ、市内にある大学?」


「ええ。むしろ市内にしかないですね。比較的小さな大学ですよ」


「そっか」


 夜美は目を伏せた。ふとその隙に、僕は先ほどの疑問を投げてみたくなった。


「というか、僕の仕事も知らないのに、よくここに辿り着けましたね?」


「お母さんに聞いた。お母さんは、君のお母さんから聞いたみたい」


 存外あっさりした答えが返ってくる。僕と夕輝の仲が良かったので、母親同士の仲も良かった……かもしれない。実際のところ、あまり覚えていない。けれど、今ここで夜美が嘘をつく理由もないだろう。疑問が一つ晴れて、ほんの少しだけすっきりする。


「立ち話も難ですから、話は移動しながらにしましょうか」


「あ、そうだね」


 ふっ、とまたあの白々しさが帰ってきたと感じる。ままならないものだ。だがそれでいいのだろう。


「ああ、そういえば、僕、財布と携帯ぐらいしか持ってないんですが、なんか必要なものとか、あります……よね」


 今から向かうところ。すること。それらに必要な道具は多いはずだ。だが、慌てて支度をした僕には、そういうところまで気を回す余裕がなかった。


「あ、別にいいよ。全部私が用意しといたから」


 夜美はそう言って右手を掲げ、白いビニール袋を僕に見せる。シャワリシャワリと、衣擦れを濁らせたような音が耳についた。


「ちょっと、見せてもらっていいですか」


「いいけど」


 僕は夜美に近づいて、袋の中を覗く。

 新聞紙で包まれたものが、まず目に付いた。その他にあるのは、ライターなど、こまごましたものだった。手を入れて新聞の中身を見て、息が詰まる。


「やっぱ、必要、ですよねぇ、こういうの」


「そりゃ、まあ、ね」


 夜美の返答も随分歯切れが悪い。僕は、動揺を隠しながら手を戻す。だが、新聞紙の中のものから目が離れない。逃げるように目を瞑る。

 ……目の奥で、黒と赤がちらつく。

 これではまるでPTSDだ。僕は自嘲の笑みを浮かべる。


「甘粕」


 暗闇の中に、夜美の声が響いた。それはどこか硬い響きを持っていた。

 いくら待っても、その後に続く音はない。僕は目を開ける。

 夜美は、僕をただ見つめていた。まるで、監視するように。

 ――僕たちは、共犯者ですね。

 夜美はまだ、あの言葉に囚われているのだろうか。監視の瞳は、否応なく僕にあの日の言葉を思い出させる。

 ……否、こんなことは考えても仕方ないことなのだろう。僕は誤魔化しのための笑みを顔に貼り付けた。


「行きましょうか」


 まずは彼女に目的地の住所を聞かなければならない。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇


 ――兄さんを殺しに行く。

 録音の中の擦り切れた声では、夜美の真意を読み取ることはできない。当たり前のように、僕を同行させようとする意味も。何度も何度も聞き返し、そのたびに思考を繰り返せば、あるいは何か分かったのかもしれない。だけど、僕はそうしなかった。

 多分、逃げていたのだ。それはもう、吃驚するぐらい意図的に。

 絵を描くという行為は、その逃げに使われた。僕が絵を書くときは大抵、何かをしているときで、その何かを放り出したいときだ。何もかも捨ててしまいたい欲求を、絵でやり過ごす。趣味はそういうふうに使う。一種のセルフハンディキャッピングだ。

 結局夜美に会っても何も分からないのは、きっとそのツケなのだろう。

 そんなことを、僕は胸の内でひたすら確認していた。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る