逃避の絵

 翌日帰宅してから、何を描くかを決めていなかったことに気付いた。

 いつもは何か描きたいものが先にあって、絵を描こうと思い立つ。しかし、今回は逆だ。こんなことは初めてだった。

 やはり夜美からの連絡に、心を乱しているのか。原因らしきものに思い至ると、少し冷静になれた。とりあえずスケッチブックと鉛筆を用意する。描くための様式を整えれば、勝手に筆が動くかもしれない。

 スケッチブックを開く。はらりと現れたのは真っ白な、切り取られた平面。目を眇めて、それから鉛筆を手に取る。

 しかし、そこから手が動くことはなかった。当たり前だ。無いものを描くことはできない。社会人になってから目の前にあるものを描くことは少なくなったが、僕の頭の中に描くものがあった。そこにすらないものは、最早どうしようもない。

 僕は苦笑してから、鉛筆を机に放り、スケッチブックを膝の上にのせた。無駄に足掻いても仕方ないだろう。こういうときは待つしかない。僕はとりあえず時間を潰そうと、テレビのリモコンを手に取ってみた。

 ボタンを押す。カチ、という音の後に、男女が向かい合って何かを言い争っている映像が映り出す。番組情報を確認すると、以前見たことのある連続ドラマであることが分かった。記憶を失った青年と、その幼馴染の女性が主人公のサスペンスドラマ。ありきたりな題材をなんとか新鮮に見せようと掻き回したような内容だ。すぐに見るのをやめるほど苦痛でもなく、かといって見続けようと思うほど興味もなかった。

 最後に見たのは確か二週間前だ。二話分の話が抜けているせいか、した覚えのない仕事を褒められたときのような、頼りない気分になる。二週間前の二人はまだ他人行儀な感じで壁があった。しかし、今日の二人はもう言い争いをするほどになっている。

 ふと、このドラマはこれから僕に起こることを示唆しているのではないか、という陰謀論めいた考えが湧いた。もちろん僕は記憶を失ったわけでもないし、夜美は幼馴染ではない。否、一応幼馴染といえるかもしれないが、僕にとっては「幼馴染の妹」だった。

 それでも、関係性は近いと何故か思った。直感のようなもので、理由を言葉にすることはできないけれど。

 現実に重ね合わせるという見方に変わったからか、僕はその言い争いをじっと注意深く見つめていた。女性の方は、男性を心配し記憶を失った原因を必死に探している。対して男性の方は、何も思い出せないことに倦み、失くした過去など関係ない暮らしを望んでいるようだ。お互いがお互いの傷を抱え、苦しんでいる。だからこそ、傷つけあってしまう。

 安っぽい言葉の応酬を聞きながら、僕と夜美は言い争いなどしないのだろうと思った。


「……」

 

 結局その日はそのドラマを最後まで見るだけで、絵に戻ることはなかった。



 ずっと描けないままの絵だったが、金曜日の夜に突然手が動くようになった。

 それは、学生時代の、締め切り直前に筆の調子がのるときの感覚に似ていた。もうそんな感覚は味わえないだろうと思っていたから、感動すら覚えた。

 鉛筆での下描きが進むうちに、自分が何を書こうとしているのか理解し、思わず笑ってしまう。描き直しを何度か行い、下描きが完成したときには真夜中といっていい時間になっていた。

 日曜までに描き終わるだろうか。幸い、明日は休みなので融通は利く。駄目なら徹夜なんてそれこそ学生時代以来だが、やるしかないな、と半ば諦めたように思う。

 そこで、僕がこの絵を日曜までに仕上げようとしていることにはたと気が付く。別に誰かに言われたわけでもない。どこかに応募するわけでもない。なのに僕はごく自然に、日曜を締め切りの日にしていた。

 この絵は……

 色のついていない下描きを前に言葉を失う。なんと言えばいいのだろう。僕は絵から目を逸らす。

 胸から何か感情が滲み出す前に、冷静な自分が囁いた。これは予感だ。虫の知らせだ。これから起こること――きっとそれは日曜日に起こることだ――を無意識に予想して、それを象徴的に描き出しているにすぎない……

 暫定的でも理由が分かってしまえば、落ち着けた。僕は再び描きかけの絵を見つめる。

 この絵に一番必要な色は――青だ。透明で、けれど夏の生命力を受け止める、濃く力強い空の色。

 僕は早速必要な用具を準備した。



 花を描いていた。それは、空の内に咲いた花だった。

 ひどく現実離れした絵だとは思う。それでもこの色に、迷いはなかった。

 久しぶりにひっぱり出したイーゼルに、下描きの紙を貼り付ける。そして、絵筆とパレットを手に取って、向き合う。

 絵の具と水を何度も混ぜ、時間をかけて作り出した色を、すっと置いていく。真っ白な紙に色がつくのは本当に一瞬だ。紙に色が染み込むのを見るたび、時間が凝縮されていくようだと思う。

 青い、どこまでも青い夏の空。白い雲は質量を持ったようにはっきりとしていて、花はそれと対比するように儚げだった。

 花を描いていた。空に咲く色とりどりの花を。繋ぎとめるように。



 パレットを机に置き、勢い良く背もたれにもたれた。息をゆっくりと吐きながら、さっきまで筆を入れていた絵を眺める。

 青い空。この青は一番時間をかけただけあって、比較的良くできたと思う。

 白い雲。これも良いと思う。入道雲のような存在感がある白は、透明水彩画では難しい。それでも、なんとか納得できるところまでは仕上げた。

 白、青、黄色、紫……様々な色の花も、悪くはない。しばらく筆を握っていなかったせいで、少し不格好なところもなくはないが、取り立てて悪いところもない。

 それなのに僕は、この絵には何かが足りないと確信していた。

 そっと紙に触れてみる。乾いた絵の具の微かなざらつきが、指に伝わった。僕は何かをなぞるように指を動かす。完成した絵に指紋をつけることはあまり良くないと分かってはいるが、そうしたいという衝動が抑えられなかった。

 多分、壊してしまいたかったのだろう。けれど、僕は紙を切り裂くほどの強い力を持たなかった。心に。

 紙の下の方まで一通り指を動かしてから、僕は指を離した。

 そして、今度は意図的に勢いをつけて、椅子から立ち上がる。


「馬鹿みたいだ」


 独り言が口から転がり落ちる。それはワンルームの部屋に、ぽとりと水滴が一つ落ちるみたいに響いた。誰もいないから何も気にする必要はないのに、ひどく座りの悪い心地になって、ぎゅっと喉を掴む。

 馬鹿みたいだ。本当に。本当に。

 繰り返し馬鹿みたいと言いたい気持ちを抑え、僕は片手でスマートフォンを探す。パレットの横に放置されていたそれを手繰り寄せ、タップで電源をつける。「04:12」という白い数字が、画面の上方に表示された。

 ひと眠りぐらいはできるだろうか。そういえば、夜美は何時に、何処へ来るのだろう。待ち合わせに必要な最低限の情報すらなかったことに、今頃になって気が付く。

困惑を覚えたのは一瞬で、そのうちショートメールにでも連絡が来るだろうと思いなおす。

 スマートフォンを持ったまま、ベッドに横になる。眠気特有の、押し潰されるような気怠さが途端に僕を襲った。僕は逃げ込むように目を閉じた。黒とは違う、闇の色が瞳を覆う。

 そのまま落ちるように眠ってしまいたかったが、明日は何時に起きても構わないわけではない。目を瞑ったまま、枕元に置いているはずの目覚まし時計を少し乱暴に操作する。適当にいじるうちに、何かがはまるような音がした。僕は安堵して体の力を抜いた。

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