幸福は続く

森沢依久乃

約束の続き

 帰宅をしてから、いつもの癖でスマートフォンの通知を確認すると、見慣れないアイコンが目についた。カセットテープの形のアイコン。留守番電話だ。

 珍しいこともあるものだと思いながら何となしに、アイコンをタップする。パリパリと、マイクに何かが擦れる音が一瞬した後、


「ひさしぶり」


 脳が収縮していく錯覚に襲われた。息が喉を通る音を、他人事のように聞いた。


「今度の日曜日、兄さんを殺しに、帰る」


 言葉の意味とは裏腹に、平淡な声音。


「そういう、ことだから」

 

 ブツ、と録音の絶える音まできちんと聞き、スマートフォンを持った右手を脇に下ろした。肺の中の息が根こそぎ逃げていく。肩の力が抜ける。ため息の音は、遅れて聞こえた。


「覚悟を決めろとか、そういうことなのかね……」

 

 自然と見えた自分のつま先を改めて見つめながら、僕は夜(よる)美(み)のことを考える。

 およそ三年ぶりだ。僕はてっきり、五年ぶりぐらいになって彼女と再会するような気がしていたから、油断していた。まったく油断していた。

 視線が左にすべる。右手でこめかみを押さえながら、やや曖昧な記憶をかき混ぜた。確か、今、彼女は大学生のはずだ。

 大学という場所は、否応なく人間を変えていく。それは外見と内面の両方であると思うが、女性は特に外見が分かりやすく変わる。きっと、もう僕の知る彼女ではないのだろう。そんなことを思う。と同時に、声は以前の彼女と変わっていなかったことを思い出す。

 声は変わらない、そういうものなのかもしれない。いや、本当か? ただ単に、自分が脳内で都合のいい変換を行っただけかもしれない。ならば、先ほどの電話は彼女からのものではないのかもしれない……

 浮かんでくる妄想じみた仮説を振り払うように、首を左右に激しく振る。現実の認識がぶれると、連動するように思考もぶれ、やがて霧散した。

 僕はもう一度だけため息をつくと、スマートフォンを無造作にベッドの上に投げた。このまま体も放り投げたかったが、たまった家事がそれを許してくれない。まずは腹ごしらえをするために、僕はキッチンに向かった。



◇   ◇   ◇   ◇   ◇


「僕たちは、共犯者ですね」

 

 あの日。

 僕の言葉に夜美は笑っていた気がした。僕も綺麗に笑えていた気がした。

 辺りに光は少なく、風は血のように生暖かかった。僕たちは示し合わせたように黒い服を着ていて、地面は真っ赤に染まっていた。どちらの色もひどく不快で、恐ろしかった。

 夜美のことを考えるたび、視界に赤と黒がちらつくのは、きっとそのせいだ。

 あの日。

 僕たちは罪を犯した。そういうことにした。

 彼女は、彼女の兄に対して。僕は、僕の親友に対して。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 電子レンジで温めた惣菜を机に置きながら、僕は壁掛けカレンダーをちらりと盗み見た。

 ページの上の方に水彩画が描かれているこのカレンダーは、僕のお気に入りだ。九月と十月のページには、一面のススキ野原と、秋らしくどんよりとした曇り空が描かれている。この絵に少し違和感があるのは、暑さが依然として残っているからなのだろう。それでも、「九月」と言われればしっかり秋という感じがするから不思議だ。

 今度の日曜日。今日からちょうど五日後だ。

 五日後、五日後だ。緊張に似た高揚感が自分の胸にあった。この感情は、プラスの方向のものなのかマイナスの方向のものなのか。

そんなふうに考え事をしていると、唐突に、絵を描こう、と思った。

 絵は最も長く続いている僕の趣味だ。中学生のときにたまたま美術部に入ったことから始まった。続けているのは半分惰性のようなものだと思っているが、社会人になっても絵に給料の何割かと休日の何時間かを割いていることを考えると、自分が思うよりは傾倒しているのかもしれない。

 ここ最近は筆を握っていない。多分仕事が暇な時期だったからだろう。

 絵を描こう。決意を固めながら、僕はようやく箸を伸ばした。少しだけ覚めてしまった惣菜は、いつもと変わらない味がした。

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