姉と僕。

相葉 綴

姉と僕。

 僕にはふたつ年の離れた姉がいる。どこにでもいる普通の姉弟だと思う。

 姉は二年前に就職して、今は一人暮らしをしている。たまに実家に帰ってきてはだらだらと過ごして、日曜の夜には自宅へ帰っていく。僕はというとあと一年で卒業を控えた大学生だ。実家から通うには少し遠い学校へ進学した僕は、大学の寮で暮らしている。

 唐突だが、実家は特別裕福というわけでもなく、さりとて食いつなぐのがやっとというほど喘いでいるわけでもない。いたって普通の中流家庭だ。なにが言いたいかというと、仕送りなんてものはない。だからこそ生活費が比較的安い寮生活なんてものをしているわけだ。そして、仕送りがない以上は自ら稼いで生計を立てなければならないわけで、今日も今日とてバイトに励んでいる。そうは言っても本分は学徒だ。勉強をおろそかにするわけにはいかない。つまるところ、毎日が非常に忙しかった。高校時代も部活に試験に塾にとそれなりに忙しくしているつもりだった。けれど、日常の雑事から大学のカリキュラムまですべてを自分で管理しなければならない大学生という身分は、やるべきことを大人たちから与えられていた高校時代と比べるまでもなく、圧倒的に面倒だった。

 そして、こうしていろいろなことに忙殺されている哀れな僕を呼び出したのが、我が姉だった。

「姉ちゃん、少しは片付けなよ」

 言いながら、台所に積まれたコンビニ弁当の空き容器を片っ端からゴミ袋に突っ込んでいく。我が姉ながら、なかなかのだらしなさだった。保身のために言っておくが、僕の部屋は男子寮にはあり得ないほど整っている。二日に一度の掃除は欠かさないし、ゴミだってちゃんと出す。ゴキブリがわかないようになるべく生ゴミや食べ物の容器なんて放置しないようにしているし、洗濯だって毎日やる。ちなみに、母親もまめな人で、ちょこまかと動き回ってはきちんと生活環境を整えられる人だ。どうやら僕は、母親の形質を継いだらしい。そういえば、僕らはA型だった。

 それにひきかえ、姉の部屋の惨状はひどいものだった。一週間は放置しているであろう洗濯物の山。あらかた片付けたけれど、流しに放置されたコンビニ弁当の容器。揃っていないヒールとひっくり返ったスニーカー。幸い物が少ないから簡単に片付けられるものの、逆に物が少ないのにどうしてここまで散らかせるのかと小一時間頭を捻りたくなる。

 かくいう部屋の主はというと、ローテーブルに顎を乗せて、スルメを咥えながらテレビを見ていた。右手には三百五十ミリリットルの缶ビールが握られ、左手にはスルメの第二陣が控えている。テレビにはしょうもない企画をおもしろおかしく紹介するバラエティ番組が映し出されていた。

「それ、まだやってたんだね」

 毎週月曜日の深夜に放送するその番組を、進学するまでは僕も観ていた。しかし、学業にアルバイトにと日常に絡め取られていくうちになんとなく観なくなっていった。視聴できる余裕がなくなったと言ってもいい。

「やってるよ。相変わらず、なーんの役にも立たない企画ばっかだけどね」

 姉はそれでもテレビから視線を外さない。タンクトップにハーフパンツといううら若き乙女とは言い難い部屋着に身を包み、ビール片手にスルメをかじる姿は我が姉ながら少しおじさんくさい。ちなみに、締め付けられるのが嫌だとかなんとか言って、ノーブラだ。下着もつけずにビールをちびちびすする。よりおじさんくさい。実は年の差がふたつなんてのは嘘で、十くらい違うのではないだろうか。

 そんなことを考えながら、淡々と部屋を片付けていく。姉はこのためだけに、僕をたまに呼び出す。部屋が散らかって、どうしようもなくなって、僕に片付けを頼むのだ。今日だってそうだ。バイトが十時に終わって携帯を見たら、姉からの着信があった。折り返すとビールとスルメを買ってきてほしいと頼まれて、今に至る。我が姉ながら、非常に勝手だと思う。けれど僕は、そんな姉を見捨てられずにいる。

 ゴミをあらかたまとめ終えて、中をすすいだ空き缶を流しに干して、洗濯物を洗濯機に放り込んで、とりあえず人が住む部屋の体裁が整ったところで、僕は手を止めた。時刻は午前一時。もう寮の門限はとうの昔に過ぎているから、今日は帰ることができない。

「終わったよ」

 同じ姿勢でテレビを見続けている姉の横に座って、そう声をかけた。くだんのバラエティ番組がそろそろ終わろうとしている。姉の表情は変わらない。ぼんやりと画面を眺め続けている。

「ありがと」

 それでも、ぼそっと礼だけは言ってくれた。

 なんとなしに僕もテレビを見る。今は心理テストの企画がやっていた。書き込んだものによって、あなたがどんな悩みを抱えているかがわかります。木は自分の能力、道は現在の環境、飛行機は欲求不満、人は対人関係。それぞれの大きさによって、悩みの深刻度もわかります。あんたどんなけ欲求不満なの。MCの二人が軽快にトークを展開していく。昔から変わらない。

「ねぇ、あんたも一緒に飲まない」

 不意に姉が言った。どのみち今日は帰ることができない。確か明日は二限からだから朝も余裕があるはずだ。あまりお酒は強くないけれど、それならばと思った。

「じゃあ、一本だけ」

 言って、僕は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。僕が買ってきたものだ。テーブルに戻って、プルタブをあげる。プシュッと炭酸が抜ける音がして、アルコールの匂いがした。

「乾杯」

 姉がのっそりと右手を掲げた。

「いただきます」

 僕はそれに自分の缶をコツンと当てる。苦い匂いが立ち上る注ぎ口に口をつけて、ずずっと上澄みをすすった。

「げほっ」

 途端にむせた。苦味が鼻の奥に広がって強めの炭酸の泡が口の中を跳ね回る。二十歳を過ぎてから何度か大学の同輩と飲み会を重ねたけれど、いまだにビールの苦味と炭酸は苦手だ。

「お子ちゃま」

 姉はそんな僕を見て、にやにやと笑う。

「むせただけだよ」

 それでも僕は負けじと缶に口をつける。ビールも飲めないと思われるのは癪だった。

 開け放った窓からぬるい風が吹き込んできて、カーテンレールに吊るした風鈴がちりんと鳴る。部屋の片付けはできないのに、姉はこういうところだけは律儀だった。きっと毎年この季節がやってくるたびに吊るしているのだろう。七月にしては短冊が日に焼けて少し色あせている。窓辺には蚊取り線香も置かれていて、風が吹くと懐かしい匂いがした。ここは実家とは違い、周りはビルやらマンションやらが立ち並ぶ都心部で、姉の部屋だ。懐かしさなんて感じるわけもない。それなのに、姉とこうして隣に並んでテレビを眺めていると、まるで実家の縁側でぼうっとしているような感覚になる。そのせいか、いつもは苦いだけのビールが少しだけ美味しく感じた。

 ぼんやり眺めていたバラエティ番組はいつの間にか終わっていて、ニュース番組に変わっていた。綺麗に化粧をして爽やかな衣装に身を包んだ天気キャスターが、明日は台風がくると朗らかに告げている。ついこの間梅雨が終わったばかりなのに、今度は台風とは。日本の夏はなにかと過ごしづらい。明日はちゃんと大学に行けるだろうか。その前に寮に帰らないといけない。それまで天気がもつといいけど。

 いつしか缶は空になっていた。スルメも細かいかすが残るだけになっている。テレビもアメリカ人が陽気に喋る通販番組に変わった。

「そろそろ寝ようか」

 いつもより早いペースで飲み干したからか、頭の芯がずしっと重い。普段は二時間の飲み会でジョッキ一杯が精々なのだ。

「うん」

 姉は大人しくうなづいて、缶に残ったビールを飲み干した。姉はそこそこ強いのか、僕の三倍くらいは飲んでいる。そこは父親にそっくりだ。

 姉から空き缶を受け取って、中をすすいで逆さにして流しに干しておく。合わせて十個の缶が並んだ。居間に戻ると、姉はすでにタオルケットに包まっていて、壁に沿うように置かれたベッドに横になっていた。

「消すよ」

「うん」

 姉からの返事を確かめて、僕は紐を引いて明かりを消す。そうして、僕もソファーに寝転がった。静かな夜だった。時折吹く風に揺れる風鈴の音と、流しを伝う水滴の音が大きく聞こえるほどだった。明日が台風であることを予見しているのか、虫も鳴いていない。

 だから、姉の息遣いがはっきりと聞こえた。もしかしたら、アルコールにあてられて聴覚が鋭敏になっているせいかもしれない。それとも、ビールを美味しいと感じてしまったように、雰囲気に飲まれているせいなのかもしれない。そのどちらかなのか、あるいは別の理由なのか。僕の耳は姉が漏らしたぼやきを聞き漏らすことができなかった。

「あたし、そんなに魅力ないのかな」

 それはきっと、誰に届くことも想定していない呟きだったのだろう。だから姉は僕のほうを見なかったし、その次の言葉を紡ぐこともなかった。けれど僕は、その言葉をしっかりと受け止めてしまった。すとんと胸のしこりが取れた気がした。あぁ、僕を呼び出した理由はこれだったんだ、と。

 なにかがあったんだろうとは思っていた。そして、きっとひとりでは耐えられなかったんだろうということもわかった。けれど、聞けなかった。聞くことができなかった。僕にできることは部屋を片付けて一緒にビールを飲むくらいのことだったから。姉から話してくれれば話を聞くことはできたかもしれない。でも、僕自らが進んで聞き出すことはできなかった。

 僕はそっとソファーから起き上がって、ベッドの横に腰を下ろす。姉は壁に体を向けて丸くなっている。姉は気付いただろうか。

「辛いの」

 姉に声をかける。タオルケットからはみ出した肩が月の光をきらきらと反射していた。

「苦しいの」

 肩甲骨辺りまで伸ばした髪がベッドに広がっている。細くて柔らかいそれは、シーツのしわに沿うように波打っていた。風が吹くと、蚊取り線香の匂いに混じって甘く爽やかな匂いがする。

「辛くもないし、苦しくもないよ」

 姉は背を向けたままぼそぼそと言った。身じろぎひとつしない。

「だって、なんにもなかったんだから。なぁんにもなかったんだよ」

 そう言った姉の声は、少しだけ震えていた。

「姉ちゃん。姉ちゃんは知らないと思うけど、僕、中学から高校にかけてものすごく大変だったんだ」

 ありきたりな話かもしれないけれど。僕は少しだけ、思い出話をするとこにした。きっとそれは、全国の姉を持つ弟たちが必ずと言っていいほど通ってきた道だと思う。すごくよくある話。

「入学式のとき。姉ちゃん、壇上で挨拶しただろ。在学生代表とかでさ。あれ、あのあと大変だったんだ」

 中学生になると、一気に世界が変わる。一番の変化は、生徒が全員同じ服を着ているということ。小学校まではみんな私服で、個性はバラバラだった。でも、中学校からは制服が用意されていて、その統一感と大人っぽさに僕ら新入生は瞬く間に虜になった。とりわけ、代表として挨拶をする姉は全新入生の注目と憧れの的にだった。そんなわけで、入学初日から僕の周りにはたくさんの生徒が群がることになった。そして、その手の問い合わせに答え、断り続ける日々が姉が卒業するまで続いた。もっとも驚いたことは、姉と接点を持つために僕が所属していた部活に転部してきた生徒もいたことだ。姉に声をかけることは恥ずかしいから、まず弟である僕と接点を持とうと思ったらしい。そこまで気概があるなら、僕を介さずとも姉に直接声をかければいいのにと思ったけれど、そうは言わずに丁重にお断りした。たったの一年だったけれど、それはそれは濃い一年だった。毎日違う人が訪ねてくる日常はそうそうない。

「高校にあがってからも同じだった。すっかり忘れてたんだ。中学にあがってからの一年間を。まさか、まったく同じことが繰り返されるなんてさ」

 苦笑しつつ軽い調子で言う。

 僕は姉と同じ高校に進んだ。そして姉は、中学と同じように生徒会長になっていて、またもや在校生代表として壇上に上がったのだ。そこからは中学とまったく同じだった。毎日代わる代わる新入生が僕を訪ねてきた。そしてそれを、僕は丁重に断り続けた。同じことが二度も繰り返されれば、もはや忘れようもない。進学するごとに繰り返されるそのお祭り騒ぎはしっかりと記憶に定着した。

 ちなみに、大学は姉とは違う学校へ進学したから、中高のようなお祭り騒ぎには巻き込まれていない。しかし、姉と同じ大学へ行った友達いわく、やはり同じような状況は巻き起こったようだ。そいつは姉と接点があるわけではないから早々に騒ぎは終息したらしい。けれど、しぶとい人はどこにでもいるもので、姉との接点を持つただそれだけのために僕のバイト先に働きにきた強者もいた。丁重にお断りするのにもずいぶんと慣れた。

 だから。だから。

 なんとなく、その先の言葉が僕の口からは出なかった。なぜなのか、僕にははっきりとわかっているけれど、それを心のなかでさえ明言するのにはためらいがあった。僕らは互いに踏み込んでいい境界線がはっきりしすぎていた。踏み越えていい線は、もうすぐそこに迫っていた。だから僕は思い出話の途中でなにも言えなくなる。

「姉ちゃん。姉ちゃんは、大丈夫だよ」

 尻すぼみにそんな言葉が出る。言いたいことはこんなことじゃない。でも言うべきじゃない。そんなせめぎ合いに、僕は言葉を見つけられない。

 ちりん、と風鈴が鳴った。

 僕はそっと手を伸ばした。中指の先が髪に触れる。見た通り、それは艶があって柔らかく、抵抗をほとんど感じなかった。ゆっくりと、滑るように手のひらを乗せていく。そうして、そっと手のひらを滑らせた。艷やかな髪を、傷つけないように慎重に撫でる。弟に撫でられても嬉しくはないだろうけれど、それでも、僕にできることはこれくらいしかなかった。

 ちりん、と風鈴が鳴った。

 それに隠れるように、鼻をすする音が聞こえてきた。髪が、肩が、震える。僕にはそれを直接どうにかしてあげることはできない。だから、少しでも楽になれるように、辛い気持ちをごまかせるように、何度も何度も撫で続けた。

 やがて、静かな涙は穏やかな寝息に変わった。いつしか風も止んでいて、風鈴はもう鳴らない。壁にかけられた時計を見上げると、時刻はすでに三時を回っていた。灯りを消したのが一時過ぎだから、かれこれ二時間くらいは撫で続けたことになる。我ながら、物好きなものだと思う。けれどそれは、僕の特権でもあると思っている。なぜなら、どうしようもなくなって最後に辿り着く場所は、家族だからだ。だからきっと、僕はまたこうして姉の部屋を片付けて、頭を撫でるだろう。その特権は僕だけのものだ。誰にも渡さない。

「おやすみ、姉ちゃん」

 最後にそれだけ言うと、僕は自らの寝床であるソファーに横になった。さて、明日は起きられるだろうか。姉の気分は、少しでも晴れただろうか。辛い気持ちを、少しは思い出にできただろうか。目が覚めたら、身勝手で騒々しくも、魅力に溢れた姉に会えるだろうか。そんなことを思いながら、僕はそっと目を閉じた。

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