4、言葉

 彼女を乗せたのは、歓楽街の近くだった。

 手を挙げる彼女に車を寄せて扉を開けると、勢いよく車に飛び乗り、そして、少し早口で行き先を告げる。

 急いでいるのかなとも思ったが、バックミラーから彼女の表情を盗み見ると、そうでないことがわかる。

 彼女の目元には、光るものが見えた。薄っすらとしている化粧も、目元から流れる線に沿って、崩れている。

 彼女は泣いていた。車を走らせているときはわからないが、信号などで止まると、ぐずぐずと鼻を鳴らす音が聞こえてくる。

 気になってしまい、私はちらちらとミラー越しに彼女の表情を見てしまう。何度目かの赤信号で、彼女と目が合った。

「フラれたんです」

 なにを言おうか私が迷っていると、彼女のほうから口を開いた。

「それは……」

 私はまだ言葉を迷っていた。なんて返すのがいいのか、わからない。言葉が出てこない。

「また」

 すると、また彼女が口を開く。

 その言葉のトーンが気になり、私は赤信号の際に振り返った。

「また、です。どうしてなんだろ。なんでなんだろ。わたし、どうすればよかったんだろ」

 それは独り言に近かった。信号が青に変わったため、私は前を向いて、運転に集中する。

「ケンカでもしたんですか?」

 かろうじて私の口から出てきた音葉は無難なものだった。自分でも、なにを聞いているんだ、と思うくらいだ。

「ケンカでもしたほうがよかったんでしょうか」

 が、彼女から帰ってきたのは意外な言葉だ。ミラー越しに、彼女を見る。

 彼女は小さく笑うような表情を浮かべ、ミラー越しに私の目を見た。

「わたし、ノーを言ったことがないんです」

 その言葉の意味はわからなかった。無言でいると、静かに笑みを浮かべる彼女は、こちらを見ながら口にする。

「わたし、男の人のどんな要望にもノーと言わないんです」

 その言葉の意味を聞くことはできた。

 だが、彼女の妖艶な笑みからそれはそういう意味なんだろうということは予想できた。なので、なにも聞き返さない。それは野暮というものだろうから。

「どんな命令にも従ってきました。どんな嫌なことでも、断りませんでした。ずっと、それが正しいことだって、思ってましたから」

 彼女は笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。

「そうしているとみんな喜んでくれました。たくさんわたしを愛してくれました。でも、」

 彼女は少し早口に言い、そこまで口にすると、小さく息を吐く。

「そのうち……怒るんです。わたしがどう思ってるかわからない、わたしがどうしたいのかわからない、って」

 ちょうど信号で車が止まった。ミラー越しに彼女を見るが、俯いていて表情はうかがえない。

「でもわたし、ケンカをするのは嫌だから……彼の服を脱がせて、わたしも、服を脱ぐんです。それが、異性を理解する1番の方法だって、そう、思ってたから」

 彼女の言葉はとぎれない。私は言葉を挟むことなく、次の言葉を待つ。

「でもそれは……間違いだったんですよね」

 彼女は少し寂しそうに呟く。

 確かに彼女の言うことは正しい。その行動は100%間違っている。

 話そうともしない、それはごまかしだ。だが、彼女に関しては、それが当てはまらないというのはわかる。

 我がないのだ。彼女には。

 自分がどうしたらいいのかわらかない。どうすべきなのかもわからない。

 ただひとつ自分が知っている「他人の愛し方」を、ただ実践しているだけ。

 それは間違ってはいない。ただ同時に、間違っている。

 その愛には感情がない。そして、理由がない。

 だからこそ、彼女は理由を問われても答えられず、ごまかすことしかできなかった。きっと、そうなのだろう。

「その人のこと、好きだったんですか?」

 私はそのように聞いてみた。

「わかりません」

 彼女はすぐさま答える。

「好きだったのかどうかですら……わからないんです」

 彼女も、いつか会った人と同じだ。人を好きになるということがどういうことなのか、わからない。

 ただ、そこで彼女は前に進んだ。好かれるように、愛されるように行動をした。

 その行動が、間違っていた。

 いや、その行動自体は間違ってはいないのかもしれない。問題は、その行動の理由を、自分が把握していなかったこと。そして、それを自分で、説明できなかったこと。

 好きだから。最初はそんな理由でも問題ない。

 それでも、その好きという感情はいつか、変わってゆく。

 そうなった場合、好きだという感情以外に抱いた感情を、果たして人は、把握できるか。理解できるか。

 それを言葉に、できるか。

 好きだとという言葉は、とても温かく、嬉しい言葉だ。

 でも、相手からその言葉しか出なかったら。その言葉すら出なかったら。

 疑いの心を持ってしまう。

 そうすることで、恋は善の感情ではなくなる。

 それは、悲劇の始まりだ。

 彼女もきっと、そうやって多くの悲劇に飲まれてきたのだろう。

「人を好きになるということは、素敵なことです」

 私は小さく口にした。彼女の顔が、こちらに向いた。

「でも、好きだという感情だけじゃあ足りなくなります。それ以外の感情が、言葉が、そのうち浮かんでくるものです」

 それは誰の言葉だろう。私は全く他人事として、そんなことを口にしていた。

「それが浮かんでこないということは、」

 その言葉は空虚に響く。その言葉は、私の心に跳ね返る。

「その恋は、その程度のものだったということです」

 でもその言葉を口にして、私は理解した。

 きっと、私も。

 それ以外の言葉を、口にできなかった。

 本当に口にすべき言葉を、口にできなかった。

 好きだ。

 それはなんて、いい言葉だ。

 それだけで、全てが伝わる。

 それだけで、全てが済んでしまう。

 でも、その言葉だけで済ませようとしてしまったら。

 それほど、空虚な言葉はない。

 そのうち空っぽな好きだという言葉は相手にも見透かされ。

 好きだという言葉がごまかしになってゆく。

 決して万能な言葉じゃない。

 そんな言葉に、頼ろうとする。

 その時点で。

 それは本当の、恋ではない。

「……そう、なんですね」

 彼女は理解したのか、それとも相槌を打っただけなのか、わからない。が、そのように口にした。

「じゃあわたしは、恋をしてなかったんですね」

 続けて出てきた言葉に、私は言葉を返すことができなかった。

 私は私なりの理屈を述べただけだ。それが彼女に必ずしも当てはまるとは思えなかった。

 それでも彼女は納得したのか、頷く。

 きっと、彼女もなんの言葉も出てこなかったのだろう。

 好きだという言葉が。あるいは、その言葉すら出てこなかったのかもしれない。

 そして、愛してる、というのには、重すぎた。

 他になにも、言えなかった。

 きっとそれが、彼女の物語なのだろう。

 一緒にいたい。ずっとそばにいてほしい。会いたい。会えなくて寂しい。

 たくさんの感情が、溢れる。それが、恋だ。

 好きだという言葉は万能だが、それだけでは、きっと足りない。

 愛しているという言葉がまだ重いなら。

 どんな言葉を、口にすればいい。

 その言葉が出てこなければ、どうすればいい。

 私にも、それはわからない。

 私自身、そんな言葉は出てこなかったから。

「恋をするには、どうしたらいいんですか」

 彼女は小さく呟いた。

 私は振り返らず、答える。

「私にも、わかりません」

 ちょうど、赤信号にひっかかる。半分ほど振り返って、私は言葉を続ける。

「私も、その答えを探しているんです」

 私も、なにも言えなかった。

 なにも言えなかったからこそ、私も、後悔している。

 恋とはなんだ。どんな言葉が、どんな感情が溢れるんだ。

 まだ子供だった私には、それがわからなかった。

 そして、今も。

 私は、恋を知らない。恋を、わかっていない。

「そうなんですね」

 彼女はそんなこと知りもしない。

 それでも、そう言ってくれた。

「ねえ、運転手さん」

 少しだけ彼女が身を乗り出してきた。ちらりとミラーで彼女を見ると、じっとこちらを見つめているのがわかる。

「もしよかったら……相手してもらえないですか?」

 彼女の手が、私の肩に乗った。柔らかく、まるで撫でるように、ゆっくりと指が動く。

「わたし、そういうことは少しだけ……自信あるんです」

 彼女はそう言ってゆらりとした笑みを浮かべる。

 が、私の答えは決まっていた。

「申し訳ないですが、私が欲しいのは、女性の体じゃないんです」

 拒絶。少しだけ肩に力を入れると、彼女の指は離れた。

「私が欲しいのは、女性の心です」

 その言葉は、きっと彼女の心に刺さるだろうというのは、気づいていた。だからこそ、口にする。明確な拒否の感情を持って、彼女を突き放す。

 案の定、彼女は背中をシートに預け、空虚な瞳をどこかへと向けた。

「……男性の心は、どうやったら手に入るんですか?」

 私は答えない。私も答えを知らない。

 私の心は確かにあのとき動いていた。が、今となっては、それが本当はどうだったのかなんて思い出せない。

 なにも、言えなかった。

 無言のまま少し走る。そして、彼女を下ろす場所に着いた。財布を出そうとする彼女を、私は制する。

「このタクシーは、恋バナをすると無料のタクシーなんです」

 私は口にする。

「あなたがいつか、ちゃんとした恋ができるよう、祈ってます」

 そう言って、ドアを開ける。彼女は少しキョトンとしていたが、理解したのか、ゆっくりとした動作で財布をしまった。

 代わりに、一枚の名刺を取り出し、私に渡した。

「……相手が欲しかったら、連絡してください」

 彼女はそれだけを言い、車から降りた。

 ぺこりとこちらに頭を下げ、そのまま道路を歩く。

 少し進んだ場所にある小さなマンションに入り、そのまま消えていった。

 なるほど。相手が欲しければ、彼女に連絡すればいいのか。

 男の言うことをなんでも聞く、決してノーとは言わない女性。なんて魅力的なんだろう。

 私は名刺を破った。なんどもなんども破り、そして、窓から投げ捨てる。

 ……彼女はなにも、わかってない。

 自分だってわかってないくせに、自分のことは棚に上げていう。

 そんなやりかたで、男の心は奪えない。

 本当の恋は、できない。

「………………」

 本当に、人のことを棚に上げている。

 じゃあ、私は?

 その言葉が、自分の心に突き刺さる。

 異性の心を奪うには、どうすればいいのか。

 人を好きになるのは、人に好きになられるのは、どうすればいいのか。

 私にも、それはわからない。

 ちらりと、彼女の去った方向を見た。

 彼女が異性の心を理解するとき、彼女はどんな表情を浮かべるのだろう。

 妖艶な笑みも、辛そうな泣き顔も見せる彼女が、どんな顔になるのか。

 笑顔だったらいい。

 幸せそうに、笑えるようになればいい。

 それが一番いい。そう、思う。

 女性の辛そうな顔は、見たくない。

 女性を辛そうな顔には、したくない。

 もう、したくない。



 私は小さく笑った。

 手に残っていた、名刺の一部を窓から投げ捨てる。

 私は彼女の名前も知らない。

 あくまでもタクシーの客と、運転手。

 それ以外のなにものでもない。

 彼女の物語は私の知らないところで進んでゆく。

 願わくば、彼女がこれから歩む道が、私が願ったように、幸せな笑顔を浮かべられるような、優しい道でありますように。

 少しのあいだとはいえ、話をした。そんな薄っぺらな関係の彼女に対する、せめてもの礼だ。

 窓を閉める。

 彼女の名前も、職場も、電話番号も。

 全ては風に流され、消えていった。

 身勝手な、恋さえできないタクシーの運転手の、小さな祈りと共に。

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