2 ありきたりなラブソング

 

 手を挙げる、大学生くらいの青年を見かけ、私はタクシーを道路脇に寄せた。

 そこに立っていたのは青年と、そして、ギターケースを背負ったひとりの人物。

「じゃあな、次の曲も期待してっから」

 ドアを開けると、ギターを持った人物の弾んだ声が、私の耳まで届く。少し低めではあるが、女性の声だ。

「ああ。そっちもちゃんと、練習しとけ」

「はは、厳しいなー、相変わらずお前は」

 ふたりはそう言って笑い合い、拳をぶつける。

 青年だけが乗りこんできて、ギターを抱えた女性はこちらに向かって手を振っていた。

 車を走らせる。サイドミラーから眺めてみると、女性はずっと、手を振っていた。青年も、振り返って手を振る。

「恋人さんですか?」

 私は思わずそんなことを聞いた。

「だったらいいんですけどね」

 青年は、少しの間を置いて答える。

 私はバックミラーから青年の顔を見る。

 どこか、遠くを見たような表情。あきらめにも似た視線は、窓の外へと向けられている。

「僕は……あいつのこと、好きなんですけどね」

 青年はそんなふうに話を始めた。



「祐一、なんだよそれ」

 幼なじみのカレンが僕のノートをのぞき込んできた。僕が慌てて隠すよりも先に、彼女はノートを奪い取る。

 そこには書きかけの小説の設定がメモされていた。恥ずかしいことに、恋愛小説だ。

「なんだよそれ。お前、こんなもの書くんだな!」

 カレンはそう言って笑う。

 昔から、国語が得意で、中でも作文はいつも先生をはじめ、いろいろな大人に褒められていた。

 運動も苦手、趣味は読書。そして、作文が得意。

 こんな僕が小説に興味を持ち始め、文章を書き始めるようになるのは、考えてみれば当然のことだ。

 剣と魔法のファンタジー、チープなトリックを大げさに書いた推理小説、そして、妄想も甚だしい、恋愛小説。

 特定のジャンルを極めるというよりかは幅広くいろいろなものを書いていた僕は、そのうち、小説というよりかは詩のような、短いものも書くようになっていた。

「なあ、歌詞書いてくれよ」

 それが、カレンにバレて、少ししてから。カレンはそんなことを口にした。

「歌詞?」

「そ。歌詞。書けるだろ?」

 なにを根拠にしているのかわからないが、彼女はそのように言う。

 高校生になってから、彼女は軽音楽部に所属し、ギターを弾くようになっていた。

 近々ライブがあるそうで、オリジナルの曲を演奏してみたいということから、僕に声をかけたそうなんだけど。

「……書けないよ」

 僕は短く、それだけ答えた。

「かーっ、そっかー。お前なら書けると思ったんだけどな

ー」

 カレンは体をのけぞらせて口にする。

「しゃーねーなー。自分で考えるかー」

 そして、息を吐いてからそう言った。

 そのまま、放っておけばよかったんだと思う。でも、僕にはそれができなかった。

 文字を並べるのは僕の得意分野だ。詩についての勉強も、それなりにしていた。

 歌詞に関しては全然だったので、図書館に行ったり、有名なロックを耳にしてみたり、本を買ったりして勉強した。

 そしてひとつ、歌詞を書いてみた。

「カレン、これ」

 僕はそれを、彼女に渡した。

「え?」

 ノートを前にうなっていた彼女は、僕の渡した紙を見つめると勢いよく振り返った。

 そのときのカレンの輝いた目が、忘れられない。

「サンキュー、祐一! お前やっぱ最高だぜ!」

 突然彼女に抱きつかれ、僕は驚く。

 きっとそのときはとんでもない顔をしていたんだと思う。でも、彼女はすぐさま僕から離れ、僕の書いた歌詞を見た。

 うまくいかない日常への憤怒。叫び。

 古いロックからインスピレーションを受けたその歌を、

「へえ……」

 彼女は、なぜか気に入ってくれた。

 その歌詞に合わせて、彼女のバンドメンバーで歌を作る。

 僕の書いた歌詞が、ギターやドラムに合わせた音楽の中で奏でられる。その感動は、ひとしおだった。

 ただそれよりも、僕にとって嬉しかったのは、彼女が、カレンが僕の作った歌を歌ってくれている、ということだ。

 僕の感じた日常への不満や不安、憤り。

 その気持ちを、彼女が代弁してくれる。

 彼女も僕と同じ気持ちを抱いてくれているのだろうか。

 彼女も日常に憤りを、不満を、憤怒を感じているのだろうか。

 ……僕は、いつの間にか。

 カレンのことを、好きになっていた。

 


 大学は、同じ大学だった。

 正直、僕は学校のレベルを一つ下げた。彼女と同じ学校に行きたかったから。

 相変わらず僕は歌詞を作っていて、それを、彼女が歌う。

 大学に入ってからも彼女は軽音楽部に入り演奏を続けていたが、ふと軽音楽部をやめた。

「音楽性の違い、かな」

 小さく舌を出して彼女は口にした。

 それでも彼女は音楽をやめず、街中に出てはギターを弾く、ストリートミュージシャンになっていた。

 小さな椅子に腰掛け、なにか物足りない音楽の中で、精一杯の歌声を響かせる。

 僕も彼女が外で演奏するときはできるだけ一緒にいた。

 ある程度、音楽のこともでも話せるようになっていた。

「弾き語り的なの、一曲欲しいな」

 夜遅くのファミレスで、彼女はそんなことを口にする。

「弾き語りかあ」

 僕は苦いアイスコーヒーをストローで口にしながら、ふと考える。

 今までの思い切り叫んだりする音楽が、彼女のスタイルだったんだけど。最近、彼女が好きになったアーティストは、確かに弾き語りの曲がいくつかあって、それらはすべて、心に響く素晴らしい旋律だった。

「弾き語りだとすると、今までと違う感じがいいな」

 彼女は言う。

 僕はそんな一言につい反応し、ある言葉を口にした。

「ラブソング、とかは?」

 僕の書いた歌詞に、ラブソングはなかった。なんとなく気まずいから、というのは理由の一つだ。

「ラブソングかあ」

 カレンは一瞬だけ僕を見た。その一瞬の視線が、書けるのか? という感じの視線だったので、

「よし、じゃあ一曲書いてみるよ」

 つい、僕はそんなことを口にしてしまった。

「え、マジかよ」

 驚きの表情でカレンは言った。

「お前、恋愛の経験あんのかあ?」

 続けて口にした言葉に、僕は少しむっとした声で、

「あるよ、恋くらい」

 言ってしまう。カレンは目を丸くして、「おおー」と口にした。

「見てろよ、すごいの一曲作ってやるから」

 僕は言う。

 でも、いざ家に帰ってから考えてみても、なんというか、変な歌詞しか浮かばない。

 まるで恋愛映画の台詞のような甘ったるい言葉は簡単に浮かぶ。でも、それを彼女が口にするのは……なんとなく違うと思う。

 そもそも彼女こそ恋愛経験があるかどうか。それすらも僕は知らない。

 だったら、どういうラブソングを作ればいいのか。考えても考えても、結論が出なかった。

 それでもひとつ、浮かんだことがあった。

 僕の、彼女への思いを歌にすればいい。

 僕がどれだけ彼女を思っているか。僕が日常を、どんな思いで過ごしているか。

 それを彼女に、ぶつける。

 僕にとってそれは、遠回しの告白。

 思いを彼女にぶつけるための、絶好の機会だ、と思ってしまった。

 そう考えると、今まで悩んでいたことがなんだったんだと思うくらい、あっさりと歌詞は完成した。

 彼女への思いを、僕の考えていることを、文字にする。

 それを並べ、詩を作る。あまりに長すぎるので大幅に削って、素直なまっすぐな気持ちだけが、最後に残る。

「カレン、ほらこれ」

 それを渡すときは、正直、ラブレターでも渡すくらいの緊張感があった。

 それもそうだ。なにせその歌詞の中には、僕の思いがこれでもかと言うくらい詰まっているのだから。

「へえ」

 でも彼女はその歌詞をじっと眺め、一言、口にした。

「あきりたりなラブソングだな」




「胸の中にあるものを一生懸命吐き出して。思い切り叫んで。そんな気持ちは、彼女には伝わらなかったんです」

 彼はそんなことを口にする。

「僕の気持ちは、ありきたりなものだったんですかね」

 そして彼は、窓の外を見つめてそう口にした。

「それが恋でしょう」

 私はハンドルを両手で握りしめ、口にする。

「強い思いも、どんな気持ちも。結局口に出してしまえば、どこにでもあるような、ありきたりなもの。きっと、そういうものなんですよ」

 どんな気持ちでいるか。どんな思いでいるか。

 それはただの、自分勝手な感情にすぎない。

 それが相手に伝わっていないなら、それはただの「どこにでもある恋物語」でしかない。

 その対象が自分であると、その主人公が自分であるとわかって、初めて輝きを増す。かけがえのない、物語になる。

 遠回しな告白に、伝わらない思いに意味はない。

 恋はいつだって、一方的だから。

「だから、直接伝えないと、きっと彼女には伝わらないですよ」

 私はちらりとバックミラーを見て口にした。

「怖いんです」

 彼は即答する。

「今の関係が変わってしまうのが。今の関係が、崩れてしまうのが」

 外を見たまま、言う。

「彼女はギタリストで、僕は文章を書くことくらいしかできない」

 小さく、それでもはっきりとした口調。彼の言葉は、はっきりと私の耳に届いた。

「臆病な僕は、こんなふうに、彼女が歌う歌に思いを乗せることくらいしかできないんです」

 それは、とても悲しい宣言だ。

 伝えたい思いがある。でもそれを口にしたら、それを言ってしまったら。

 今のままでは、いられない。

 彼はそれをわかっている。

 そして……それも、恋なのだ。

「おかしいですよね」

 彼は言い、私のほうを向いた。

 私は静かに首を横に振る。

「その感情をおかしいというなら、」

 目的地はすぐそこだ。私は車を減速させながら、口にする。

「私はきっと、すべての恋を否定しないといけません」

 成就しない恋は、必ずある。

 そうなれば、その人との関係性は、変わってしまう。

 そのことに臆病になるのが、そのことで二の足を踏んでしまうのが。

 それが怖くない人間が、この世界にどれだけいるか。

「だから、あなたはとても勇気のある人だと思います」

 タクシーを止め、私は振り返った。

「そう……ですかね」

 彼は私の目をまっすぐに見つめて口にした。

 その視線はわずかに揺らぐ。お世辞でも励ましでもない、私の本心ではあったが、あまり彼には伝わっていないようだった。

 その後、財布を出そうとした彼を制し、私はこのタクシーが、恋バナをすれば無料のタクシーだと話す。

 彼は不思議な顔をしたが、「ありがとうございます」と口にし、タクシーを降りた。

「ライブは、」

 ドアを閉めるまえに、私は口を開いた。

「拾ったあたりでいつもやっているんですか?」

 彼は振り返って、

「そうです」

 答えてくれた。

「もしよかったら聞きに来てください」

 彼は少しだけかがみ、運転席をのぞき込むようにして口にした。

「ありきたりな、ラブソングを」

 それだけを言い、彼は微笑んだ。私はタクシーのドアを閉め、軽く帽子を手にして会釈してから車を走らせる。

 角を曲がるまで、彼はずっとその場所に立っていた。



 それから一週間も経っていない、ある日のことだ。

 以前に彼を……祐一さんを乗せた場所でふと窓を開けると、ギターの旋律、そして歌声が聞こえてきた。

 私はタクシーを路肩に寄せ、降りる。そして、ギターの旋律が聞こえている場所に、歩を進めた。

「あ、どもども、あざーす」

 私が彼女の姿を見たとき、ちょうど曲が終わって小さな拍手が起きていた。

 観客は数人。それでも彼女は丁寧に、頭を下げる。

「えー、じゃあ次はちょーっと今までと雰囲気の違う歌、行きます」

 軽くギターを指で撫でる。小さく音が響くと彼女はわずかにギターのつまみを回し、

「えーと、あんまり得意分野じゃないんだけど、次の曲は弾き語りって奴ですね」

 音の調整をしながら、口にする。

「ラブソングだったりします。あはは。まあ、ありきたりなラブソングですけど、聞いてください」

 そして、ぽん、と一度ギターを叩いてから、演奏を始めた。


 どうしたの 寂しそうな顔

 すぐに声をかけたいけど

 僕でいいのだろうか

 ほんの少しだけ ためらう



 その歌詞はとても純粋な、ひとりの人への思い。

 力不足の自分を嘆く。役不足の自分を恨む。

 それでも、



 いつも君は僕のこと

 励ましてくれるよね

 強く背中を叩かれて

 少しだけ背筋が伸びるんだ



 まっすぐな思いが、詰まっている。

 心のこもった、真心の秘められた。

 決してありきたりではない、ラブソング。


 

 君の励ます声が なにより僕の力になるよ

 こんなにも弱い僕だけど

 君のためならもう少しだけ

 がんばろうって気になれるんだ



 彼の思いが、祐一さんの感情が、カレンさんへの一途な思いが心に響く。

 それは、彼女に届いているだろうか。

 それを、彼女は気づいているだろうか。

 ありきたりな、よくある話だと、そう思って、見逃していないだろうか。



 君を支えたい そう思っちゃダメかな

 いま支えられているのは僕だけど

 いつか君を支えたい

 寂しそうな背中を軽く叩いて

 普段言われる冗談を言うんだ

 君は笑うよね きっと



 その思いに、彼女は答えられるのだろうか。

 その言葉を、彼女は理解しているのだろうか。

 視界の隅に、祐一さんが見えた。

 ほんの少しだけ寂しそうに、小さく笑みを浮かべて。

 彼女を、まっすぐに見つめていた。



 ねえこの思いはなんなの

 苦しくて 辛くて

 教えてくれなかったよね

 こんなに胸が苦しくなるなんて



 弾き語りのギターが終わり、ひときわ大きな拍手が響いた。いつの間にか、観客も数人、増えていた。

「あ、どもども。あざーした」

 彼女は先ほどと似たような感じで、ぺこぺこと頭を下げる。

「や、弾き語りのラブソングって恥ずいっすねー」

 彼女がそう言うと、笑い声が響いた。ひとりだけ、祐一さんだけが、笑わずにいた。

「ちなみに、あたしも恋心はよくわかんないんですよねー」

 それから、ちょっとしたトークタイムになった。私は彼女たちに背を向け、タクシーに戻る。

 タクシーのドアノブを握る頃には、新たなギターの旋律が聞こえてきていた。


 ……彼女は思いに、気づいているのだろうか。

 気づいていないのか、それとも、気づいているのに、気づいていない振りをしているのか。

 関係が崩れるのが怖い。

 それは確かに恋心だ。

 でも、それは恋だと言えるのだろうか。

 互いに納得のいかない友情と友情を持ち合い、そのぬるま湯に浸かって、動こうとしない。

 それが恋だというのなら、恋心というものは。

 なんて、悲しいものなのだろう。

 聞こえてくるギターの旋律は、先ほどとは違う、弾んだものだ。

 人の苦悩を、生きていく理由を。

 ギターの旋律に乗せて、おこがましいとも思える感情が溢れてくる。そこに、恋心は微塵も存在しない。


 私はタクシーに乗り、窓を閉めた。

 ギターはそれで聞こえなくなる。わずかに聞こえるが、それはラジオの音でかき消される。

 彼らがこれから、どんな道を歩むのかはわからない。

 それでも、彼らはこれからも、幾重にもすれ違う音楽を奏で続けるのだろう、と、そう思った。

 ありきたりな、ラブソング。

 その旋律は強いロックの響きにかき消され。

 消えていった。

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