恋バナをすると無料のタクシー
影月 潤
1 好きだという気持ち
手をあげる、スーツの男が目に入って私はタクシーを寄せた。
扉を開けると男は乗り込もうとはせず、その近くにいた、若い女性に入り口を示し、助手席の窓を叩く。
「これで、家まで送ってくれ」
助手席の窓を開けると、男が一万円札を渡し、住所を口にした。私はゆっくりとそれを受け取り、「わかりました」と声を上げる。
「今日はありがとうございました」
女性は男に向かってそう、小さく頭を下げる。男が手を振ると、女性も手を振り返した。
アクセルを踏み、車を発車させる。
「恋人さんですか?」
私はつい、そう尋ねた。
「………………」
答えはない。男の姿が見えなくなるまで手を振っていた彼女だったが、手を掲げたまま、私の言葉を聞いて固まる。
バックミラー越しに彼女を見た。視線だけが動き、ミラー越しに目が合う。
「恋人……ですか」
女性はそんなことを口にした。
「恋人って、どういう人のことを言うんですか?」
そして、少しの間を置いてそう尋ねる。私はすぐさま言葉を返すことができなかった。
ずっとバックミラーを見ているわけにもいかず、視線を戻す。いくつかの信号を抜けると赤信号に引っかかったため、私は車を止め、もう一度ミラーを見る。
彼女はずっと、ミラー越しに私を見ていた。ずっとかどうかはわからないが、そうしていると思った。
「ええと、」
私は言葉を選ぶ。
「遊びに行ったり、食事に行ったり、一緒に映画を見に行ったり」
私が口にしたのは抽象的なことだ。本質的なことは言えなかった。
「好きだと思って、一緒にいたいと思って、一緒にいたら安心して……みたいな感じでしょうか」
続けての言葉を口にすると、信号は青に変わった。私はアクセルを踏み込む。
「……そうですか」
彼女の言葉に一瞬だけミラーを見つめる。彼女はこちらを向かず、少しだけ俯いていた。
「遊びに行ったり、ご飯に行ったりはその通りです」
彼女は口にする。
「でも、わたし……あの人のことを好きだと思ったこと、ないんですよ」
その言葉に、私は再びミラーを見た。彼女の顔は、こちらを向いていた。
「恋人さんではないんですか?」
「恋人です、一応」
彼女の言葉はすぐに返ってきた。
「好きだから付き合ってくれと言われて、わかりました、って言いました。それから、お買い物にも付き合ってもらいますし、おいしいご飯にも連れて行ってくれます。でも、」
ほんの少しだけ、早口に彼女は言葉を紡ぐ。
「わたし……あの人のこと好きだと思ったりとか、一緒にいたいと思ったことないんです」
私はハンドルを少しだけ強く握りしめた。運転の合間、時折ミラーから彼女の表情を盗み見る。
「ただいつも近くにいる。親切にしてくれる。それはわかるんです。でも……わたし、わからないんです。人を好きになる、って、どういうことなんでしょうか」
その言葉は、まっすぐに私の耳に届く。が、私はそれに答えることはできなかった。
「お付き合い、されているんですよね?」
私は逆に質問で返す。
ちょうどミラーを見ていたからよかった。彼女が小さく頷いたのが見えた。
「そうですけど……」
彼女の言葉は、少しずつ小さくなってゆく。
「わからないんです。人を好きになるっていうのがどういうことなのか。どういう態度であの人に接すればいいのか。わたしは、」
そこまで言うと、彼女が顔を上げた。
「あの人のこと……好きになるべきなんでしょうか」
その言葉を、私はただ飲み込んだ。
好きだと言われ、付き合った。
一緒に買い物に行くし、食事も行くし、映画にも行くのだろう。
だが彼女は、それを望んでいるわけではない。
状況に流されているのか、ただ言われたまま従っているだけなのかはわからない。我がない、といえばそれまでだ。
だが彼女がこの場で、どんな言葉を求めているのかはなんとなく私は察した。
否定だ。
「人を好きになるってことは、」
私は言葉を紡ぐ。
「胸がどきどきして、わくわくして、毎日が楽しくて、嬉しくて。そういうことなんじゃないかと思います」
それは、かつての私もそうだったから、紡がれた言葉。しかし、今の私にはなんの心もこもっていない言葉だ。
「その人と一緒にいたい、話していたい。笑っていたい。そういうふうに思うのが恋で、人を好きになる、ってことなんじゃないですかね」
ちょうど、信号が赤になった。なのでその言葉の最後は、ずっとミラーを見ながら話せた。
彼女はずっと、こちらを見ていた。見てくれていた。
私の心にもない言葉を、ただ真剣に、黙って聞いてくれていた。
「ならわたしは、恋をしていないんですね」
信号が青になって、少しだけ車が走ってから彼女は口にした。わたしは頷くことも答えることもせず、ただ運転を続けた。
「ありがとうございます」
彼女の言葉が再び耳に届いた。私は一瞬だけミラーを見やり、ほんのわずかに微笑んでいる彼女を見た。
とても悲しい、笑みだった。
目的地は、すぐ近くだった。大きなマンションの前に止まる。
私は料金を精算せず、そのまま、一万円札を彼女に返した。
「これは?」
彼女の目が丸くなる。そんな彼女に、私は笑って口にした。
「このタクシーは、恋バナをしたら無料のタクシーなんです」
それから、何日か経ったある日のことだ。
彼女と、例の男と会ったのは、私がいつも通っている道だった。
だから、彼女がこの前と同じ場所にたたずんでいるのにはすぐに気づいた。
小さく、手を振るように胸元に手を掲げる。私は歩道にタクシーを寄せる。
男はいない。彼女一人だ。私はすぐさま扉を開けた。
「こんばんは」
彼女は挨拶し、タクシーに乗り込む。この前と同じ住所、マンション名を口にし、この前と同じ位置に腰を据えた。
「別れました」
車を発車させると、彼女はすぐさま口にした。
ミラー越しに、彼女を見る。彼女に、この前見せたような表情はない。ほんの少しの悲しさは残したままだが、明るい表情が浮かんでいた。
「やっぱり、好きでもない人とお付き合いするの、違いますよね」
私がなにも言えずにいると、彼女は言葉を続ける。
「わたしが誰かを好きになって、その人と付き合いたいと思って……そうしないと、ダメなんですよね」
彼女は俯いていた。しかし、表情は明るい。
なにかを吹っ切ったのか、それとも開き直ったのか。どちらにせよ、私も笑顔を浮かべ、彼女を見た。
「わたし、」
ミラー越しに目が合う。
「人を好きになったこと、ないんです」
明るい表情のまま、彼女は言う。
「ドキドキしたことも、わくわくしたことも。誰かと一緒にいたいとか、一緒にいると安心するとか、そういうこともなかったんです」
前の話し方とは違った弾んだ言葉に、少し驚きながら話を聞く。
「これから……わたし、恋ができるでしょうか」
私はその質問を、否定したかった。わからない、と言いたかった。
「できますよ」
心ではそう思っていても、私はそのように口にしていた。
「恋をしたいという気持ちさえあれば、人はいつだって、誰かを好きになることができると思います」
私の口が勝手に動き、言葉を作る。
そんな気持ちのこもっていない言葉ではあったが、
「……そうですね」
彼女は満足そうに、そう頷いた。
目的地に着く。私はドアを開き、そのまま彼女を降ろそうとしたが、
「お釣りはいりません」
彼女は一万円札を私に渡した。
有無をいわさずそれを私に手渡し、そのまま車から降りようとする。
「いつか、わたしが恋をしたら、」
降りる直前に、彼女は私を見た。
「そのときはまた、お話を聞いてくれますか?」
目が合う。まっすぐな瞳。
あの男はこんな彼女の瞳に恋をしたのだろうか。まっすぐで、揺るぎなく、そして、力強い彼女の瞳に。
自分の気持ちを歪めることもねじ曲げることもできない、彼女のまっすぐな感情に。
それはわからない。
私は、恋をすることができないから。
「もちろんです」
それでも私は頷いた。
彼女のため、そしてなによりも、自分のために。
「そのときは、無料でお乗せいたしますよ」
私は頷いて、強い口調でそう口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます