「理性の限界」

オリヴァー・リーマンの「イスラム哲学への扉」を読む。

宗教と合理性とは、一般的には相反するもののように思われている。だが、これは大きな間違いで、宗教こそは自らの存立にこの合理性を徹底して求めたといってよい。それは神学が哲学を「婢女」としたように、イスラムにおいてもそれは同じような道程を辿っているのだとふと思った。

預言や啓示というものは、通常「超現実的な」現象である。こうした常識や理性というものを超えた存在に、いかに論理的整合性や社会的な合理性を付与させることができるのかは、信徒獲得を持ち出すまでもなく、宗教の持つ政治性を考えると不可欠な要素であっただろう。

イスラム哲学においての問題とは、人間の理性と啓示との関係である。

マイモニデスは以下のように指摘する。


「人間の理性には限界がある。霊魂が肉体に内在している限り、それは自然を超えてものを把握できない。……全ての哲学よりも高次の知のレベル、つまり預言があることを知るがよい。……理性と論理的証明は、預言が立っている直観レベルに達することはない。だとすれば、どうしてそれらが預言を証明したり、否認したりできようか。……我々の信仰は、モーセの言葉は預言であり、したがって思弁、正当化、議論、証明の領域を超えているという原則に基づいている。理性は本来的に、預言が出てくる領域について判断を下すことはできないのである」


宗教に根ざす根本的なスピリチュアリズムは理性の領域で理解することは困難なものがある。むしろ、理性によって理解をしようとすること自体がそぐわないものでもある。そうした宗教独特の働きが権威と奇跡とを与えてきたのである。これも私は人間の広範かつ本能的な知性の働きであると思う。

だがここで私は宗教について書きたいのではない。理性というもの、特にその限界について書きたいのだ。その中で宗教をまず引き合いに出したのは、宗教は人類の知性的働きとして生の問題について最初に問題とした領域であるからだ。

近代以前は宗教がこの問題についての担い手であり、近代以降は科学と資本主義、その結実としての理性が時代の大きな柱であった。そこを超えて、現代における理性の問題を考えてみたい。



改めてこの問題を考えるに至ったのは、松岡正剛の「心とトラウマ 千夜千冊エディション」を読んでからだった。ここでは様々な心理学や精神病理についての書籍が紹介されているが、その中で社会が精神病的であるとする現象を見るにつけあることを思わずにいられない。

1人の人間にここまで高度なコミュニケーションや社会的役割を求める社会の方にこそ病理を感じずにはいられない、ということだ。松岡は、「もはやコミュニケーションは作り出さなければならなくなった」と書くが、その通りであると思う。もはや、何も考えずに行為をすることは許されない。こうした余白のなさと、ある種の過剰さというものが精神疾患を生み出しているのではないかと思う。

現代社会というものを俯瞰して見ると、それは人間性の持つ本来の曖昧さ、脆弱さというものとの甚だしい途絶にぞっとする時がある。そうした社会の中には未だヒューマニズムという言葉はあるけれど、それはどこまでいっても概念の域を出ない。

松岡は、岩井寛の言葉を本書の中で紹介している。


「やっぱり自分自身の弱さと同時に、他者の弱さも認める、受け入れる必要があります。やっぱり他者を受け入れたい。その人たちだってみんな弱くて傷ついて悲しいんです。だとすれば、そこへまず手を差し伸べるという形になるでしょう。これは『弱さの論理』ですよ。人間というのは、本当に『弱さの論理』というものが必要だと思いますね」


「日本人には『間の精神医学』があっていますね。間というのは、冷たい距離なんではなくて、ある距離を保ちながら、本当にそこに共感性もあるし、知的交流もあるし、だけれどもその間に、完全にべたっとくっついてしまわないで、ある間隔をもってお互いを慈しみあえるようなもの、保ちあえるようなもの、包みあえるようなもの、そういうものですね」


こうした言葉で見えてくるものは、合理性とはまた違った輪郭を持つ人間の姿だ。

なぜこうした言葉に私が首肯するのかと言われれば、それは人間本来の輪郭を改めて感じるからだ。「弱さの論理」とは言い得て妙で、これは原初の宗教がまさに射程に入れた人間の本性ではないか。理性の限界とは、こうした人間の本質を捉えることの難しさにある。

だがそもそも理性とはなんだろうか。神ではなく、理性こそが近代人にとって信仰すべき対象になった。それは科学主義の勃興と機を一つにする。理性とは現象に名前をつけ、概念を与え、管理と理解を基本的活動とし、合理的根拠への探求と信仰とがこれを支えている。そして、実際になんらかの利益をもたらす行為を行わせる精神活動のことをいうのだと思う。ここでは曖昧性と余白、そして脆弱さというものへの眼差しはない。むしろそうしたものは背景へと追いやられるか、「望ましくないもの」「異常なもの」と新たにラベリングをされ管理され理解可能なものにされる。

だが、人間の存在はそれほど単純ではない。疾患の概念とは、その意味で人間という存在を管理・理解するために便利なものであったといえる。だが医学や科学も広く社会的な領域に属するものであるから、人間の持つ本来の曖昧さや脆弱さというものから免れることはできない。この「できない」部分こそが理性の限界であり、それと同時にそうした眼差しを「持つことが難しい」理性独特の属性こそが、もう一つの限界性であろう。私はこのことを強調しておきたい。



理性の限界はいつ訪れるのかといえば、それは「人間性」から離れた時であろう。

固有の存在としでてはなく、単なる部品としてその人を扱う時に、理性は行き詰まる。

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