「人間の世紀」


21世紀は、人間性というものがかつてないほど問われる時代になる。

というのは私のオリジナルではないのだけれど、最近このことをよく感じる。それはひるがえって考えるならば、「もはや我々が問いかけるべき領域は人間性という高度に抽象的な分野に集約されつつある」ことの証左なのかもしれない。

この終わりなき、正解なき領域は過去何世紀に渡って問われ続けてきたことだが、皮肉にも最も進んだ今世紀にあってその切実性は増したようだ。それはこの現代という時代性そのものが、人間性というものから乖離しているからこそなのかもしれない。

私はこれまで宗教や哲学を中心にこの問題を考えてきたが、最近は心理学も含めて考えるようになった。人は本質的に生へとその意識を向けられている。その深淵はフロイトの言うような本能に彩られたものであるが、それだけで人の存在を説明できるものではない。

他者と社会。

これらなしに、人という存在を真に捉えることは難しいと思う。時として、自我と対立し合うこれらは一方ではそれなしには互いに成立することはできない。こうした深い矛盾と本質的な対立と調和こそが人間性というものの一端なのかもしれない。

カッシーラーは、「『人間性』という言葉が何ものかを意味するならば、それは、種々な形式の間に多くの差異と対立が存在するにもかかわらず、全てが共通の目的に向かって働いているということを意味する。結局、顕著な特性、すなわち普遍的な性格が見出されて、その中で、それらがすべて合致し調和するのでなければならない」と書く。共通の目的とは、端的に言って「生きる」ことであろうと思う。そして、人はより良き生というものに向かって進みたいと願うものだ。

「言語、芸術、神話、宗教は、決して孤立した、任意的な創作ではない。それらは共通の絆によって結合されている」ともカッシーラーは書くが、なぜ文化というものが私たちにとって重要な要素であり続けるのか、これは端的に言い表したものであると思う。人間の行うあらゆる知的活動は、全て「生きるために」行われるものである。ゆえに、創作物とは物質だけではなく精神的な豊かさをももたらすことができる。

そうした中で、哲学の持つ力というものについてカッシーラーは「哲学は、人間の様々の力の間の緊張と摩擦、強烈な対立と深刻な闘争を見逃さない。不協和は、それ自身との調和のうちにある。反対物は互いに排除し合うものでなく相互に依存し合うものである。それは『音弓と竪琴の場合における如き反対における調和』である」という。この楽器を例えた言葉はとても美しいと思う。

こうした射程とは、とてもラディカルで人間について表層的な見方を許さない強さがある。

人間性とは、知的でありながら本能的なものである。いうまでもなく、知性と本能とは相対するもののようであるが、それはともに共鳴するものである。この深い共鳴こそが、人間を人間たらしめるものなのだ。


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