人間性の復権

疾患と病いとは、似て非なるものである。では、両者の違いとはなにか?

アーサー・クラインマンは「病いの語り 慢性の病いをめぐる臨床人類学」において、興味深い提示を行う。

疾患はそのまま医学的解剖学的な定義である。私たちはこの疾患の定義と、病いとの定義を混同している。

これに対し病いとは、「語り」であり患者の人生の中において位置づけられる「出来事」である。その意味において、病いとは医学的なものを指すのみならず社会文化的な領域に属するものでもあるのだ。それはハンセン病などを例にすると分かりやすい。ハンセン病は見た目への変化から社会的に恐れられ、罹患した人は名前まで変えてコミュニティから抹殺された。ハンセン病は以前は「らい病」と呼ばれ、この「らい」という言葉は、「ハンセン病」以上に強烈な意味合いを持っていた。現在では蔑称としてほとんど使われなくなったが、精神科医の神谷美恵子などは著作の中であえてこの「らい」という言葉を多用している。それは彼女自身がハンセン病者の「島の療養所」で精神科を立ち上げ、10年以上に渡って船で通いながら治療に当たった経験による。神谷にとって、「らい」とは医学的に定義され管理される身体上の現象ではなく、間違いなく社会的文脈の中において立ち上がった現象であった。

また、古くは梅毒なども同じような文脈を与えられていた。梅毒とは伝統的に遊女の病いであり、ペニシリンのない時代には悲惨な最期を迎えるのが常であり、それは遊女という生き方とも皮肉な符号をなす。発達した医療のない江戸時代においても梅毒の恐ろしさは認知されており、遊女特有の病いであることも知られていた。不妊をもたらすこの病いは、しかし初期症状が治まった後は遊女の格上げを意味した。いくら客をとっても妊娠しないことから、梅毒とは初期の状態においては「一人前」と同義であったのだ。ここには医学的な理解の入り込む余地はない。社会的に意味付けられ、価値付けされた病いの概念があるだけだ。

このように、身体的なある種の現象(疾患)は、必然的に物語を付与されている。こうした理解は、対象を専門化し細分化していく解剖学的な見方ではできないものだ。

クラインマンは、糖尿病や慢性疼痛という病いにおいてこうした理解はとくに重要であるという。それは患者にとって、生涯にわたる病いとの付き合いを意味し、人生上のストーリーとして組み込まれることを意味する。

それらを問題にしない、いわゆる「専門家モデル」は科学主義の名の下に時代を席巻したが、もはやこうしたやり方は通用しない。

クラインマンは、「私が示そうとした専門家のモデルは、障害の本性と、医療の働きと、人間の本来の姿についてのある一連の特定の価値観が反映されたものであり、それは率直に言って、慢性の病いを持つ患者のケアにとっては破壊的なものである。しかし、ケアという問題をいったん脇に置いて、単に人間としての立場から見ても、われわれは、患者の人間性も、医師の人間性をも奪うような治療法には批判的であるべきではないか」と述べている。

ここにあるのは、「人間性」という大きな問題である。

疾患から病いへ。それは例えば障害というものが、特性へと変化していくのと同じようなものではないか。私たちは、科学的に管理された存在ではない。だがそうした理解は、容易にラベリングされることのない漂うような次元でなされるものであるがゆえに、困難なものだ。

このことについて、ユングは「心理療法論」の中において、興味深いことを書いている。


「われわれ療法家はそもそも哲学者ないしは哲学的医師でなければならない、というよりむしろわれわれはそうなりたいと思わなくてもすでに哲学者なのである。……われわれがやっていることは発生期の宗教と呼べるものである。なぜなら生まれたばかりのものの大いなる混沌に近づけば近づくほど、哲学と宗教との間には認められるほどの区別は存在しないからである」


ユングの指す「生まれたばかりのものの大いなる混沌」とは、直接的にはクライエントの心的世界の現象であるだろうが、その意味合いは極めて広いと思う。

病いという現象も、社会的文脈の中にあって混沌としている。病いの持つ語りとは、個人的なものを容易に超え出る。なぜなら病いとは、通常の社会にとって異様な好ましくないものであるからだ。このことは、どのような人間を社会的存在としてその社会が認めるかということと不可分な関係にある。こうしたことを、改めて私たちは問題とすべきなのである。

それは正義や自由、権利、善と悪という価値観と結びつき、時にはそれらの「過剰」によって容易に抹殺されていくものである。そして、科学主義をまとった医学が、それに権威づけを行なっていくのだ。クラインマンの批判は、まさにそうしたものに対してなされている。

彼は改めて「一人ひとりの物語(病い)」に立ち返るべきであるというのだ。これはそのまま人間性への回帰を意味する。それは現在の社会が、人間性というものから隔たっていることの証左でもあろう。

科学主義とは、あらゆるものを理解可能なものにし、概念化し言葉を与え管理できるものにしていく。それは社会の近代化にあたって猛烈になされてきたものだ。だが一方で科学主義では扱えないものへの徹底的な抹殺と表裏であったことも指摘しておかなければならない。このことの歪みが、無意識の発見と好対照をなすのだ。理性と合理主義、その落とし子としての科学主義というものですら、この巨大な無意識の所産であるならばどうだろうか。

そこで問題とすべきは、やはり「人間らしさ」というものだ。科学主義を安易に批判することも、ユング的にいうならば袋小路でしかない。批判される科学主義それすらもこの「人間らしさ」、「人間性」の一つの側面である。そこまでいくと、人間自体への理解とは発生期へと遡らざるを得ない。そして、それは哲学と宗教の極めて境目の曖昧な混沌の中へと立ち入らざるを得ない。ユングは、「……私たちが今日直面している危険は、現実が言葉にとって代わられているということです。このことはとくに現代人とくに都会人に、本能が恐ろしく欠如しているという事態を引き起こします。成長している、生きている、呼吸している自然との接触が欠けております」と指摘する。

病いに対する様々な反応が、社会文化的な意味合いを強く持ち、そうした見方が現代において極めて重要な意味を持つのは、この「生身の実感」を強く揺さぶるからだ。それは善悪や快、不快というものを越えたものだ。だが、私たちはそうした理解を好まない。それは表面上は近代の科学主義がそれほど根深く侵食している、ということでもあるけれど、私たちの本能がそうした理解をどこかで拒むからだ。

ユングは、「『悪の克服』ということがときどき言われます。悪とか善はさしあたって、一定の状況における私たちの判断にすぎないということ、あるいは別の言い方をすれば、ある諸原理が私たちの判断を捉えたということを、もう一度思い起こして下さい。それは悪の克服とは言えません。なぜならば、私たちは囚われた状況、つまり、袋小路にあるからです。すなわち善も悪もどちらを選ぶにせよ、私たちが意識的に選ぶものは望ましくないのです」と述べている。

この意識が根を下ろす場所は、社会そのものである。それは画一化された社会の中で「存在するべき」であると想定された「現代人」の集合体である。これは私独自のテクストの読みに過ぎないが、なぜユングが現代の危機に言及をしたのかを考えると、やはりユングも精神医学上の命題を「人間性の復権」と考えていたからではないか。そうでなけれは、「生まれたばかりのものの大いなる混沌に近づけば近づくほど、哲学と宗教との間には認められるほどの区別は存在しない」と書けないであろう。


人間の知的労働とは、一体何のためになされるのかと考えることがある。思考することは、人間らしさの証しである。学問が収斂していく先は、「人間性」でないかと最近考えている。医学ですら、最終的に問題にするのはその人自身の中にある生身の現象である。それは科学主義一辺倒から、ユングの言ったような「大いなる混沌」への回帰である。これは、現代を生きる私たちの抱え込む病いが、そうした本質的なものへの接触なしには癒せないものであることを意味する。これは人間であれば共通する根深い問題であるが、現代においてこれは先鋭的な問題である。

いかにして、隔たった人間性へと立ち還ることができるのか。私はこのことをずっと考えている。

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