「武器」としての子宮。世代を越える痛み。

ニューズウィーク日本版の12.3号「殺戮者の子供と生きた25年」は考えさせられる。かつてジェノサイドによって100万人近くのツチ族が殺されたルワンダ。25〜50万人のツチ人女性が性的暴行を受けたとされ、2万人の子供が産まれたとされる。

父権的な地域社会の中で、産まれた子供と母親は孤立し、追放されることもあった。写真家のトーゴムニクは2006年に彼らを取材。そして、約10年後自らの出生の経緯を知った子どもたちを再度取材する。何世代にも渡る虐殺の陰は今もなお人々の間に生きている。

10年前の写真と現在の写真、そして過去の際の彼らの言葉、現在の言葉を見ると、それぞれに虐殺の記憶の受け止めが複雑であることがよく分かる。虐殺者の息子として見られないように、「より良く生きよう」とする子ども。子どもを愛せないまま、10年を過ごした母親。義理の父親から他の兄弟たちと異なる過酷な扱いを受けてきた子どもたち。

私が最も胸を打たれたのは、取材から2年後に暴行によって罹患したHIVによって死期が早められてしまった女性と、ただ1人で「現在」を写る娘の写真だ。母の死後、兄たちや母の日記から出生の秘密を知る。今では母が真実を伝えなかったのは自分を守るためだったと思っているそうだ。



以前に読んだジェンダーの本だったかに、「子宮は武器になる」という言葉があった。注意深く読むと、その意味がよく分かる。

子宮を、単なる生殖器官としてではなくより社会的な意味において捉えて考えるのだ。それはある集団の中において、また別の新しい個体を産み出す存在である。そこを「攻撃」することは、ひいてはその集団全体を未来に渡って攻撃することにも繋がる。父権的な社会集団において、子宮(女性)の存在は大きい。穢された女性と子宮は、その瞬間からタブーとされ集団から孤立し、追放される。そうすると、これから新たな世代を産むはずの子宮は数を減らし、結果的にその集団を脆弱なものへとしていく。だから、子宮を攻撃すること、つまり戦争におけるレイプとは肉体の問題はもちろんだが、集団内においても大きな問題となったのだ。実際、レイプをされた女性は「私が世界に伝えたいことは、虐殺が人に起こりうる最悪の出来事だということ。そしてレイプは最大の『武器』になったこと。殺されれば終わりだが、レイプは影響を引きずって生きることになる」と語る。



私は親子の写真を見ながら、なぜ虐殺(戦争)というものが残酷なのかを考えた。人が死ぬからだろうか、傷つくからだろうか。最も残酷なのは、それはある種の未来を奪っていく行為であるからだ。

撮影されたジェノサイドの生き残りの女性は、「幸いにも息子は地域でも評判人格者に育った。でも私の人生は虐殺がなければもっと良いものになっていたはず」と言う。

生き続けていれば、いつかその「未来」を否が応でも生きることになる。だがそれは複雑な未来である。もっとより良くなるはずの未来である。

子にとっても、親にとっても、レイプの末に産まれた親子関係というものは壮絶だ。「一生我が子を決して愛せない」と語った母親もいたが、彼女を責めることはできない。

悪いのは殺戮者か?旧宗主国か?無関心な国際社会か?なにが絶対的に悪であるかを論じることは、一見尤もらしく思えるがそれは表層的な議論に過ぎない。

悲劇があったこと。これは動かしようのない事実である。その事実の主体者は、被害者加害者両方である。この複雑な問題を、どのように理解するべきだろうか。レイプの末に産まれた子どもたちは、2万人にも上る。ただの数字としてこれを処理するだけでは、なにも変わらない。そして、これを単なる人類の犯した悲劇的な悲惨な出来事として記憶に留めるだけではだめなのだ。

そこから、私たちはなにを考えたのか。

それが重要なのではないか。現代では波紋のように、起こった出来事が波及して遠くの国へと渡っていく。国が隔たれるほどに、その波紋は相対化され悲劇はただの「出来事」として消費をされていく。その瞬間に、私たちもまた加害者となっていくのだ。

私はあの2枚ずつ並べられた写真を見て、そんな風に思った。ジェノサイドを悲惨なこと、断罪すべきことだと怒ることは簡単である。だが私たちは見つめるべきなのだ。


「なにが彼らをそうさせてのか?なぜ彼らがそれを体験しなければならなかったのか?」


それは運命であったのかもしれない。あまりに残酷な運命ではあるけれど……。

私はそういうことを考えながら、ページを繰り彼らの顔を見つめ続けた。

そして、レイプ被害にあった女性のこんな言葉に出会ったのだ。


「レイプされた時に抜かれた歯を入れ直して、私を犯した男を尋ねて、『私の人生を壊したつもりか?』と笑い飛ばしてやった」


私はこの写真と、添えられた文章を見て、人の愚かさと同時に真の強さも感じたのだ。そして、こうした両者の狭間にあるものこそが希望なのである。





引用:ニューズウイーク日本版 2019.12.3 「殺戮者の子供と生きた25年」より

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