本の実感……装幀について
休みの日、余裕があるときは基本的に本屋へ行く。他にも、暇があると私は本屋へ行く。ウインドウショッピングが私は大嫌いなのだけれど、本屋だけは別格だ。何も買わなくても(時に財布すら持っていないこともある)ただ背表紙たちをぼんやり眺めるだけで、満足する。
何が楽しいのかと言われれば、思いもよらない出会いがそこにはあるからだ。岩波文庫だけで棚を2つも3つも使っているような大きな本屋へ行っても、「これ!」というような本に出会えるとは限らない。そうかと思えば、個人経営の凄く小さなマニアックな品揃えの本屋に、ずっと忘れられない本を見つけたりもする。
私は某チェーン系の本屋によく行くけれど、あまり本を置いているとは言えない。文房具やお菓子やDVDがちょっと幅を効かせ過ぎだと思う。それに不満を持ちながらも、ぼんやり月刊雑誌の棚を眺めていた時だった。
茶色一色のザラッとした背表紙が目に入ってきた。「ユリイカ」の背表紙だった。私は普段「ユリイカ」を読まない。サブカルはよく分からないし、興味もあんまりないから、テーマが面白そうだった時だけ読むという「にわか」読者である。今の時代に、茶色一色、過激な色使いで目を引かせようとする雑誌たちの中にあってそれは却って目立ったのだ。私は迷わずにそれを手に取って眺めた。
12月臨時増刊号で、装幀者の菊池信義の特集らしい。私は菊池の名前をここで初めて知った。彼の装幀の仕事も作品も知らなかった。装幀がどういう仕事なのかはもっと知らない。それでも、この一面に広がる茶色く、ザラッとしたまさに「紙そのまま」の表紙というか装幀に惹かれて買ってみたのだ。昔のCDなんかで言われたような「ジャケ買い」とでもいえばいいだろうか。
通して読んでみて思ったことは、装幀つまりデザインとは単なるパッケージング以上の意味を持つということだ。
ここでの装幀される対象は小説や何かの論であったりする。もっと分解すると、それは文章に形を与えるものである。言葉そのものには、私たちが直接触れるような実体はない。そのままでは、言葉というものはその生産者(作者)の内にある。それが、装幀という体を与えられることによって初めて読者(他)と触れ合うことができるのだ。これは大きなことだろう。
言葉に体を与えるのが本という存在であり、装幀の仕事なのだと思った。
奥坂まやが「輝くブラックホール」というエッセイの中で「パピルス以来、人間が結果的に文字を置くのに最も適しているものとして選択した『紙』。それは決して無機質で透明な文字の背景ではなく、本来生きている植物から作られた生々しい存在なのだということを、触感を通じて思い起こさせる」と書いたのは納得できることだった。
人が書いた先には、必ず本という実体、本になるという実体がある。だが、なぜ人は「本になる」という形を求めるのであろう?
ここに私たちが普段何気なく書いているテキストの秘密があるのだ。「菊池信義という存在」において山形季央は「旧作でなく新作であっても、テキストは装幀家によって本になる。……人がいる限り、テキストは生み出され、本は出現し続ける。つまり、本は人間の生の存在証明なのだ」という。
言葉とは、私たちの中にあって単なる伝達手段、記号としての存在以上の意味を持ってきた。その極地が文学であろう。だが、言葉は言葉そのままでは、そうはなれない。他者と触れ合う体を持ってこそ、そうなれる。
改めて思うことは、言葉が人と人との関係の中においてどのような作用を持っているのかということだ。言葉は他者の中にあってこそ、ようやく体を得るのだ。本来の意味から外れ、ストーリーを与えられ、一人きりで歩いて行けるようになる。偏狭な作者はそれを恐れるが、これは面白いことなのだと私は思う。
私は小説やエッセイを書いている(改めて言うことでもないけど)。そして、たまに感想が来る。その感想には、好意的なものもあれば否定的なもの、時として攻撃的なものもある。私はこうした反応をネガティヴなものも含めて面白いな、と思うのだ。
なぜならはじめ私の書いたものとは、ただ私一人の掌の中にあったものだ。初めから終わりまで、よくいえば「オリジナルなもの」悪くいうならば「予定調和に彩られたもの」だった。解釈者は私ただ一人であるからだ。だが、一度外へ向けて発表されたら、それは勝手に歩き出す。この「歩み」こそが、他者による言葉の解釈である。だから、好意的なものも否定的なものも表層的な問題でしかない。一番大切なのは、私は自身の言葉や小説に他者の中にそれが入って「歩き出せる」だけの力があるかどうかだ。そういう意味で、好意的ものよりも、否定的なものの方が却って面白かったりする。しっかりとした否定は、その裏側に丹念な「読み」があったりするからだ。もちろん全ての否定がそうした積み重ねの末に生み出されるわけではないけれど……。
最近だと、作者自身がおおっぴらに「褒めてくれる感想しか受け付けません」と言ったり書いたりしているのを見るけれど、「つまんないこと言ってるな」と思う。
話しが逸れたので戻すと、菊池自身は著書「新・装幀談義」において、「人は関係性の中で生きる。自と他がぶつかり合い、新たな自や他が生まれる。しかし現実は、関係性を縁取るもの(生産する者)が関係をリードして、消費する者に妥協や屈伏が生じています。書物においても、著者や読書といった記号化された関係では作品が真に読まれることはありません」と書いている。ここに、彼の装幀への想いを十分にうかがえる。
装幀も、ただのデザインを越えて作者と読者、人と人との関係性を描くものだったのだ。
私は改めて、この茶色一色だがよく見ると紙の繊維なのか、茶や白などの点々が銀河に浮かぶ星々のように散らばる表紙を眺める。「ユリイカ」の印字が、これほど素っ気なく見えたこともないなぁとふと思った。この素っ気のなさ、質素さが不思議となにか濃密に見えてくるのだ。言葉はそこにないが、言葉になる前の膨大な意識がそこにある。それが、自然と私にページを繰らせたのだ。
言葉は言葉だけでは存在しえず、本となって、他者の中にあってようやく「生きる」ことができるのだ。
引用「ユリイカ 12月臨時増刊号 装幀者・菊池信義」より
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