日々是雑感 カラヴァッジォ展に寄せて

昨日、名古屋市美術館で開催中のカラヴァッジォ展へ行ってきた。

カラヴァッジォといえばなんといっても強烈な明暗対比の表現だ。フェルメールやレンブラントが自然に発生した光であるなら、カラヴァッジォのそれは舞台の上で展開される人工的な照明だろう。それはあからさまな作為を越えて、鑑賞者をドラマティックな世界へと誘う。それこそが、カラヴァッジォの最大の魅力であろう。

今回の展覧会では聖書に材を取った作品が多く展示されており、カラヴァッジォの技法により聖書のドラマティックな展開とがより強調されていた。

チケットを切ってもらい、順路を進むとまず厚い黒いカーテンが行く手を遮った。それを手で選り分けて、遂に展示会場の中へと私は進んだ。美術館内の照明は極力弱いものにされ、絵画内の「光」を最大限邪魔しない配慮が伺えた。

個人的にはカラヴァッジォのイメージは「強烈さと退廃、放埓、狂気」であった。そんなイメージを抱きながら美術館へ行った私にとって、今回展示されていたカラヴァッジォの作品群は意外なほど「落ち着いて」見えた。もちろん、光の描写は白眉である。自然とキャンバスから光が溢れるような錯覚を覚えるほどだ。

だが聖書の場面であるからなのか、カラヴァッジォの放埓さと狂気さは鳴りを潜めていた。全体的に落ち着いた調和のとれた気分で鑑賞をすることができたと思う。



さて、私の好きなカラヴァッジォの作品は2つある。

まず一つ目は、「バッコス」である。バッコスはギリシャ神話における主要な12の神々(オリュンポス12神)の1柱である。葡萄酒を発明した神と知られ、アルコールの持つ酩酊や狂乱から放埓や狂気、狂騒、また祭祀を司る神とされる。

ギリシャ悲劇には、この神に関する悲劇がある。エウリピデスの「バッコスの信女たち」である。テーバイの王であったペンテウスが、バッコスの教えの虜となった母親とその女たちに狂乱の中で虐殺されるという悲劇である。ギリシャ人たちは、バッコスのもたらす狂乱の恐ろしさ、狂気に気づいていたのであろう。

カラヴァッジォの描いたバッコスは、一見してどこにでもいるようか青年として描かれている。頭にはまるで月桂樹のように葡萄の葉を被り、自ら発明した葡萄酒をなみなみと注いで、「飲めよ」とでも言うようにこちらに差し出す。バッコスの表情はすでに明瞭でなく、明らかに酔ったそれである。手の甲すら赤く染めて、素面でないのは明らかである。仔細にこの絵を見ると、カラヴァッジォの込めたメッセージあるいは狂乱というものに対する見方がよく分かる。

バッコスの被る葡萄の葉、手元に置かれた葡萄の実は瑞々しいものから腐りかけのものまであるのだ。これはいつか狂乱にも終わりの来ること、美しきものも必ず衰えることの証左である。そして、この腐敗こそバッコスの真の恐ろしさである。狂乱には必ず終わりがあり、それに気がつくのは素面になってからである。

カラヴァッジォその人は乱暴者で知られ、後年殺人まで犯している。そして、逃亡中にマラリアにかかって死んでいる。だが絵のことになると常人の及ばぬ才能を発揮し、まさに天才だった。そんな彼が描いたバッコスは、ギリシャ神話のバッコスを越えた狂気そのものである。




さて、もう一つ私の好きな作品は「聖マタイの召命」である。こちらは聖書から材が取られている。

徴税人であったマタイが収税所で机に向かっているところに、イエスが自分に付き添うよう呼びかける場面である。イエスは画面右側におり、マタイを指差している。そして画面中央から左側にかけてマタイを始め収税所に集う複数の人物が配されている。長らくこの複数人いる人物のどれがマタイであるのかは議論があったようだが、現在では1番左側に座って俯く青年がマタイであると決着している。

窓から差し込む光によって、一直線に男たちにスポットライトが当たっているような錯覚を覚える。これこそがカラヴァッジォの持つ「光」である。聖書の一場面をドラマティックに仕上げている。肝心なイエスその人の表情は明瞭でない。そして、マタイ自身も俯いているからその表情を仔細に窺うことはできない。だが、この光で見事な緊迫感が表現されている。光によって、人物たちの心理まで露わにしているのである。



ギリシャ神話と聖書という全く異なる主題を扱っていながら、カラヴァッジォの持つ技法は矛盾することなく見事に活かされている。

そこが彼の天才たる所以であろう。

彼の属したバロックという美術様式は、他にも絢爛たる作品と芸術家の出た時代である。だがその中でもカラヴァッジォの占める位置は特異である。カラヴァッジォの技法に強い影響を受けた芸術家を指す「カラヴァッジェスキ」という言葉まで生まれた。

なにが人々を惹きつけるのか?

それは原始的な狂気と、ドラマティック性である。普段私たちが覆うものをカラヴァッジォは晒すのである。そして憎いのは、そうした主題を西洋絵画の中で極めて伝統的なギリシャ神話や聖書の一場面を借りながらやってのけたことである。

これは意図してなされたことか?

そうでなかったならば、カラヴァッジォこそが狂気そのものであったのだ。そして、現代の私たちもその狂気の渦になすがまま、囚われているのである。

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