日々是雑感 自慢話について

なんだかとっても、生きづらい。


子どもの頃の大人は、不思議と大きく眩しく見えた。でも自分がいざその大人と呼ばれる立場になると、その幼さというかあまりの小ささに慄然とする。

そういうことを感じる瞬間は無数にあって、最も感じるのは働いている時だ。職場というものは、なんというか「イヤな人間関係の縮図」になっているのが面白い、というか不愉快だ。

イヤな奴ほど上へ昇るし、真面目な人間は潰される。大したことない奴ほど自己肯定感が高くて、自惚れが強い。対照的に誰が見ても仕事のできる人ほど、謙虚で気の毒になるほど自信がなかったりする。人間は、働く上では多少鈍感で気が強く、図々しいくらいが丁度いいのかもしれない。


私はよく「あなたは他人に興味がなさそうだ」と言われる。それが元で振られたこともあるし、今でも陰でそう言われていることがあるらしい。それは一面では本当で、でもまた別の面では表面的にしか私のことを捉えきれていない、ということになる。

私は誰かのご機嫌をとる事や、媚を売ることには興味がない。人に気に入られるのも処世術だと言われればそうかもしれないけれど、本当にこの類のものには全く興味がない。そんなものに熱心な人を、心底下らないことをしているな、と本気で思うほどに。

だが見方を変えれば、この「媚を売ること」だって他人への観察眼によってなっているのだ。何が相手を心地よくするのかを知らなければ媚は売れない。そういう意味では、お追従も才能の一種なのだろうか?

だがともかくも、私はこの種の人間観察については下らないと思っている。こんな瑣末なことに気を取られるくらいなら、嫌われた方がマシだと思う。

こういう考えの人間が、組織に属して心地よい気分でいれるはずがない。だから、「あなたは会社勤めが合いませんね」と言われたこともある。自分でもそう思う。

誰かを出し抜こうとしたり、上の人に媚びたり、人と比べたりして一喜一憂する人を見ることが何よりも苦痛だと感じる。瑣末なことに囚われていて、それでいて自分では何か大きなことをしているような気でいる人間は山ほどいる。その「山ほど」の集積が組織の人間である場合は少なくない。そこへいると、「あぁ、私は一体なにをやってるのだろう」と考え込みたくなる。

本当に自分の手に入れたいもの、必要なものは決して他人からは与えられない。ましてや、会社や組織が与えてくれるわけがない。それなのに、もう過去の神話となったそれらにしがみついて離れられないまま、歳を取った「いい大人たち」が、得意げに若い私たちを見下していることが、どうにも私には耐えられないでいるのだ。


なんてバカらしい。

なんて生きづらいのだろう。


私は職場の「大嫌いな人たち」を見るたびにそう思う。私は、自分の瑣末な経験だけをもってあんなに偉そうにできる精神が理解できない。こういう一切を、もう少し話しの分かる「大人たち」にしても、「まあ、そんなもんだから」と流される。

経験は登山に似ている。そこへ至らないと見えない景色があるように、ある時期にならないと至れない境地があるのだろう。頭では分かっているが、私はこうした彼らのニヒリスティックな反応も好きにはなれない。小狡い諦め。

結局こういうなにかを押し流すようなニヒルな反応は、最終的にはあの踏ん反り返った遺物たちを助長させることにしかならない。物分かりの良い大人の「ふり」をしているだけだ。

これは一見すると善人のように見えるがために、より悪質である。

書くだけで苛々とさせられる。私の一番嫌いな言葉は「自己欺瞞」である。ちなみに、二番目に嫌いな言葉は「欺瞞」だ。

本質から遠ざかること、それを知っていながら欺くこと。そういう人や行為を、私は愛さない。



さて、少し話しが逸れてしまったので戻すが本来は自慢話について書きたかった。

これもまた職場の延長だが、役職のある人ほど大概話しがつまらない。どうしてそれがつまらないのかといえば、その大半が自慢話であるからだ。もっといえば、そういう人たちの興味関心が全く自分自身にしか向けられていないからだ。話しは同心円状に広がることはなく、パーソナルスペースを抜けることはない。

難関資格を持っているだの、どこそこで勤めてきただの、まあ本当に下らない。資格や会社で、お前の人間性が担保されるわけもないことをその歳になっても分からないでいるのかと大嗤いしたくなる。

そう思うと、組織に属することは個人の意識をこんなにも強化していくものなのかとゾッとする。そして、なぜ人に教養というものが必要なのか身に染みて分かるような気がしてくるのだ。

大伴家持の父親の大伴旅人は酒と旅を愛したことで知られている。彼はその酒好きが高じて面白い歌を残している。曰く、「利口ぶって酒を飲まない人の顔は、なんと猿に似ていることよ」。全くこれとおんなじで、つまらない自慢話ばかりする人の顔はなんて猿に似ているのだろう、だ。私の頭にはそんなことが始終駆け巡る。

そんなことはおくびにも出さずに、適当に調子を合わせる時のつまらなさ。これだったら、一人でぼんやりと青空を馬鹿みたいに口を開けて眺めている方がずっと有意義だ。ちゃんと生きている心地がする。



私は自分自身の端っこについて、考える。端っことは、つまり限界のことだ。私は万能ではない。自分を単純に卑下するわけではなく「瑣末な存在」であると知ることはとても大切なことだ。

なんでもできる人というのは、存在しない。その多くが環境によってそうなっていることを、人は知るべきなのだと思う。

私は自分をなんでもない人間だと思う。けれど、その「なんでもなさ」が生かされている意味を思うのだ。そうすると、不思議なことだが周りのものに「ありがたいなぁ」という気持ちが興ってくる。それが謙虚さなのだと思う。

私はそういうものを持ち続けられる人でありたい。

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