日々是雑感 正倉院展に寄せて

今日、正倉院展へ行ってきた。

京都がすでに京都ではなく、「Kyoto」であるように、奈良もすでに「Nara」なのだなぁ、と思った。

奈良国立博物館には初めて行った。だらだらとした前置きはすまい。端的に言って、私は人の多さにうんざりとした。件の正倉院展は入るまでに長い行列で、平日でこれだと土日祝はどうなるのだろうとゾッとした。後ろを振り返ると、行列を捌くためのポールがずらりと向こうにまで続いている。

幸いにも行列の歩みは意外と早く進み、展示場へは30分ほどで入れた。最もうんざりとしたのはこの展示場である。行列をくぐって来たのだから人がいることは分かっている。それでも人人人、展示物どころではない。

どこのショウウインドウにも、人だらけ。人の合間を縫ってショウケースを覗き込んで、ふとガラス張りの向こう側にも同じような人たちがわんさかいることに気がついた。頭の上に吹き出しを付けるとすれば、「うわー」とでもなるような顔と仕草。そして図々しく観ているこちらの脇腹を押しのけて自分の場所を確保しようとする人の多さ。

私の関心は次第に正倉院の宝物から、そうした人たちの振る舞いへと移っていった。ガラス張りの向こう側の人たちの図々しいさまを見ると、私も向こう側から見ると同じようなものかもしれないと思い当たった。それで、すっかり展示品を観る気が失せた。我先にと駆け寄って、少しでも隙間ができると無理やりに自分の体を突っ込む。隙間に収まった後でも満足せず、顔をガラスすれすれにまで近づけて、ぐずぐずといつまでもそこを動こうとはしない。その後ろでは同じように待つ人々がうずうずして待ち構えている。

私はそうした振る舞いを、なんと浅ましいことだろうとなんとも言えない気持ちで眺め続けていた。そうした光景が、国立博物館の至る所で起こっているのだ。その全体を眺めていて、まるで角砂糖に群がる蟻んこのようだとつくづく思った。

こうした人たちは、およそ価値のあるものだと本音では思えないものですら、権威のある誰かが判を押せばこうやって大挙して行くのだろうかと思った。ここに、文化財に対する一貫した想いや敬意は感じられない。あるのはひたすら、我欲である。

正倉院の宝物は、これとは同列には語れないが今日見た光景は皮肉だとすら思った。美しい調度品や美術品を眺めている大勢の人々の振る舞いは、およそ洗練や敬意からはかけ離れたものとして展開されていたからだ。宝物たちは、こうしたガラスの向こうの現代の鑑賞者たちをどのような眼差しで受け止めたのであろう。そういうものをも含めて「歴史」であると、包含していくのであろうか。私はそこまで考えて、なんとも言えない気持ちになったのだ。鬱陶しい人々の多さに初めは怒りを覚え、次いで哀しくなった。美術や文化や歴史というものは、他人を押し退けて感ずるものではない。そして、そのための場所がそんなことが展開される場所であってはならないはずだ。

芸術とは、一つの思想や時代の結晶である。それが私たちに感動を覚えさせるのは、そこに普遍的な人の在り方を垣間見るからだ。人の存在は限りあるものだ。そうした生物としての基本を越え出て、美は現代の私たちの前に顕現する。それが美術品の尊い価値なのであり、その感動は理屈ではなくなるのだ。それが自然と敬意になり、それを成した祖先への畏敬の念へと結びつく。

だが誰もそんなことは考えていない。そこに文化財や美術品に対する敬意はなく、ただの商業主義と自己中心的な鑑賞者の大群とがあるだけだ。この薄ら寒い嫌悪は、簡単に言葉にはできない。安易にそんなことをすべきでないのかもしれない。

とにかく、そんなことを終始思いながら私はろくに観ることもなく足早に展示場を後にした。

入館料は1100円であった。なんとなく、それだけ払っているのだから観なけりゃ損、といった根性をあの人々から感じたのかもしれない。私はそうした根性も好きになれない。個人的には美術館や博物館の料金というのは寄付に似たものであると捉えている。入館料は巡り巡って、美術品の維持や保護へと当てられるだろう。目先の料金だけ見れば、割に合わないかもしれない。だがその1100円で次の世代にまで素晴らしい美術品が遺されるのであれば、決して高くはないだろう。だから、人を押し退けてまで無理やり展示物を観るくらいなら、いっそのこと何も観ないで出てくる方が私はすっきりとした。

こういう考えはスタンダードではないだろう。人に強制するつもりもない。だが今日見た光景はとても皮肉なものだった。

美しい展示品を鑑賞する人々の、およそ洗練とはかけ離れた振る舞い。あれを私は忘れることはできないだろう。



ものの「価値」とはなんだろうか。

なにが私たちに価値を思わせるのだろうか。文化や美術が、私たちにとって無駄ではないのなら、それはどうしてなのだろうか?時間の集積や、権威だけでそれは決まるのだろうか?なぜ人は、金やモノではないものの存在に「精神的な豊かさ」を感じずにはいられないのだろうか?

人の普遍的な在りようは、ある時代の中に遺されたあるものたちの中に静かに宿る。その堆積が歴史となり、文化となる。一歩踏み込めばそれが尊い揺るがしようのない価値あるものとして遺されていくのだ。

そして、それを決めていくのは今を生きている私たちである。それを思うにつけ、あの騒々しく浅ましく図々しい振る舞いと、微動だにしない宝物との対峙が思い起こされる。これが強烈な皮肉でなくて、何なのだろうと私は思うのだ。

正倉院の宝物は、これからも価値あるもの、正に「宝」として間違いなく受け継がれていくだろう。正倉院展だって、今後も続けられていくに違いない。その度に多くの人々が奈良国立博物館に大挙して訪れるに違いない。それ自体は良いことだと思う。



だが私の中には、なにか居心地の悪いざらっとしたものだけが残っている。

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