実感なき世界の欠けたるところ

想像力の欠如、という言葉について考えることがある。私にとってこの言葉は結構大きな意味を持っている。

現代特有の生きづらさ、というものがある。私は、それは自分が確かに生きている、あるいは生かされているという実感のなさにあると思っている。そういう知覚の中では、自分も他者も曖昧なものに埋没してただ流されてゆくままになる。存在そのものが、漂っているのだ。しかもどこに向かって流れているのか全く分からないままに。

そして、そういう人たちは次第にあるものを喪っていく。想像力だ。だから、「想像力の欠如」というものは重要な意味を持つ。

ここで安易に私は「想像力の欠如」という言葉を用いているが、この点について以前感想欄でこんなコメントが寄せられた。


「想像力の無い人というのは、ほぼ居ないと思うんです。でも、ある何かを認識できていない人というのはいると思います。でも、そういう人でも、その人なりのイメージで世界を観ているんですよね。この部分が重要だと思っているんです(特に対話において)」


想像力が全く無い存在として、私は「欠如」という語を使っているのではない。この寄せられたコメントと、ほぼ似たような意味と範囲で私は「想像力の欠如」という言葉を使っている。

そこで更に重要なのは、「ある何かを認識できていない」という点である。これはかなり問題の本質を噛み砕いた言葉であると思う。

そして、そうした人たちにもなにがしかの「世界観」がきちんとあることも重要なことである。だが、彼ら彼女らには「認識できていない」領域がある。

そこは一体なんなのか?

これが最も重要な問いである。そして、この問いは他者との関係の中で最も顕になるものである。



彼らの認識できていないもの。それは、「今を確かに生きている(生かされている/生きさせられている)という実感」であると思う。

生のリアルな手触りを、現代では持てないでいる。

それは死というものが、身近にないことと密接に関わっているだろう。そして、他者との関係性の希薄さだ。

死と他者というと、一見関係のないものに思われるが、解体していくと両者は「異質性との出会い」というものに還元される。そして、この「出会い」というものは、本質的であると思う。

この2つは、生身の存在つまり丸裸の私たちを削っていくものだ。悪く言えば摩耗させるもの、よく言えば研磨させるものだ。現代の視座から、この2つを眺めるとその摩耗と研磨の質がどのようなものか分からないだろうか。

自分にとって、手に取りたいもの見たいものしか感じずにすむ世界が、用意されていること。それが極端に進んだ世界として、ネットを捉えるとより一層特殊さは増す。

だから、どうしてこんな当たり前のことが特別なことのように持て囃されるのだろうと不思議に思うことが多い。当たり前の視点が違うと言われればそれまでだが、なんだかそれだけでは済まないような根本的な違和を憶えずにはいられない焦燥感が私にはある。

そういう現象を目の当たりにすると、やはり「何かを認識できていない、しようとする意思もない」人たちの存在を改めて感じる。そして、そこにこそ想像力の欠如を思わずにいられない。そこには、実感というものがない。

だが私は自分とそういう人たちとを安易に比べて、自分の方が優れていると感じているわけではない。

実感を持てないでいるのは、私自身もそうなのだとは思う。だが、何かが微妙に異なっている。



私たちは、実感のない世界を生きている。生の実感のない世界は、同時に死の実感もない世界である。そして異質な他者、顔の見えない他者のいない世界でもある。

この世界の最も恐ろしいところは、その極端なまでの狭さと偏りではなく、そこに存在している人々がその狭さと偏りに全く気がついていないことだ。むしろ、そこを広大な「どこか」であると信じて疑わない人たちすらいる。

私は、今の自分が存在している世界の淵を思わずにいられない。端的にいうと、何か重大なものが「欠けた」世界であると思う。

あるもの、ある領域を認識できない人々がいる。それを指して、「想像力」と呼ぼう。

これは結構深刻なことではないかと思う。

生のリアルな手触りといっても、私にもその実際は分かっているとは思わない。だが、確かに生がそのように知覚できるであろう領域があることは「分かる」。

想像力とは、別に突飛なことをあれこれ考える力ではない。自分の知覚を超えたところに、また別の領域の知覚があること。それを、否定も肯定もせずありのままに思ってみること、思いを巡らせてみること。それが、生きる為の想像力であると思う。

物事の是非を下すことは必ずしも正しいことではない。最も高度な認識の在り方とは、あるものをあるがままに、自然にまずは受け止めることだ。水が自然と上から下へと流れていくように、倫理や経験による色づけをせずに淡々とそのように受け止めること。それらがやがて確かな実感となって、私たちの内へと押し寄せてくる。その繰り返しが、生であり時として間違いもするがそれも含めて、「生きる行為」なのだろうと思う。

こうした絶え間のない、気の遠くなるような繰り返しをどれほど私たちは行なっているだろうか。

生の実感は、摩耗している。摩耗させられているといってもいいのかもしれない。そうした場所では、人は成熟した関係性を築けない。創作がコミュニケーションの一手段と位置付けられているのもそのためだ。孤高の存在としてではなく、ごく一般的な手法として、創作は使われる。これは消費の一形態となんら変わらないものだ。そうしたレベルで求められるのは、徹底した共感と承認だ。

私はこうした創作物や、作者に対して不気味だと思わずにいられない。

生身の生を実感できずにいるが故に、人々は根本的な不安からは免れられない。その葛藤は、本質的で宿命的なものだ。だが、そうした不安こそは生の実感であると思う。それはストレスフルなものだが、必ず確かな実感として私たちの中で消えずに残っていく。

今ではむしろ、葛藤も否定もない世界が求められている。

私はストレスを極度に排除し、共感と承認に重きを置く中では虚ろな生をより空っぽにする行為にしか見えない。

現実の生は、矛盾したもののぶつかりで形成される。そうしたぶつかりや揺らぎに耐えられるだけの、想像力を持てないでいる人が多い。子どもではなく、大人の側にそれが備わっていない。そうした大人は、次第に虚ろになっていく。

そうした虚ろさに、ものを書く人間は取り込まれてはならないと思う。この虚ろは、誰にでも備わっているものではあろう。

だが解剖学者が腑分けをするように、それを冷静に見つめなければならないと思う。こうした慎重さを持たずに(持てずに)、表面的な寂しさや虚しさ、空っぽさに拘泥している人は多い。



生きている実感は、何で得られるのか?

それは他者との交わり、自分が必ずいつかは死ぬことを思うことと無関係ではない。この2つは、両方「異質なもの」だ。

異質なものを前にした時、人はどうなるのか?もっと本質的に、生きる行為とはどのようになっていくのか?

そこへの無邪気な無知さ。これこそが、あるものの欠如である。

それを今は「想像力」と言おう。そして、そのような世界は、「実感なき世界」である。そして、こうした「欠如」こそが今私の立っている世界の「欠けたるところ」である。



さて、この文章を読んだ「あなた(他者)」はいかに思ったであろうか……。

これも、異質なものとの一つの対話……摩耗……研磨である。

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