人と人との間にあるもの

孤独は独りきりの中にあるのではない。人と人との間にある。私がそのことに気がついたのは、20歳を越えた頃だった。それまで孤独というのは、たった独りきりの人間の中にあるものだと私は信じて疑わなかった。

だから、私は思春期の頃に自分のことを孤独だと思っていた。今思えば、これは傲慢なことで、まだ守られている「子ども」としての甘えも垣間見える。

孤独は、人と人との間にあるもので、そういう孤独がいっそう哀しい。

周りが雑音で満ちている時ほど、人は自分の小ささや輪郭をはっきりと知覚する。こういう時が最も心細く、惨めだ。

他人は自らの鏡とはよくいったもので、だからこそ私たちは他者を徹底的に排除することはできない。それどころか、「硬くお互いの手を握り合ってさえ」いる。この握り合いも、物理的なものではなくて人と人との間にあるものだ。



人が大人になること。それを単に年齢だけで定義することは馬鹿馬鹿しいことだ。人と人との間には、目には見えないけれど無数の矛盾や繋がりで溢れている。敢えて言葉で表現すれば友情や、愛情や絆、嫉妬や憎悪といった言葉になるだろう。

だがこういった微細なことは、なんだかとても「どうでもいいこと」のように思われている。それは、友情や愛情といった人と人との間にある要素に対してではなく、それを成立させているような、「人間同士」というもの、環境そのものへの「どうでもよさ」である。これは最も深刻なニヒリズムではないかと私は思う。

人と人との間にあるもの。そういうものに、鈍感になること、そこで飛び交うある種の欺瞞に対して気にしなくなること。もっと言えば、こういった深刻なニヒリズムに対して、補強をするような立場になってしまうこと。これが私にとっての「大人になること」だ。

そうした意味で、大人というものに私はなりたくないとすら思う。そういう鈍い人たちはとても多い。人と人との間にある極めて微細な、けれどとても尊い在りようについて鈍感な人と私は分かり合えないと思う。分かり合いたくないと思う。

そういう人たちが、何について最も鈍感かといえば「人の心の痛み」についてだ。

自分の言うことや、することで別の誰かが傷つくことに恐ろしいほどの無頓着さ。そうやって生きている人が、本当の意味で貧相なのだ。

孤独とは、表層的に捉えれば私たちが分かり合えないことのはっきりとした知覚と、諦めだ。だからそれは空っぽに感じるし、冷たくも感じる。

人と人との間にあって、初めて私は自己の輪郭というものを対象的に描ける。それは好ましいものの時もあれば、そうでない時もある。そして、必ず誰かと共有できない領域がどんな人にでも存在していることを思い知らされる。だから人は独りきりであるし、それを知っているから誰かの手を握ろうとする。それが、孤独だ。


人が寂しさを感じる時、「私は誰とも交われない」と思うことは、傲慢だと思う。だがこういう人は、ある意味では自己の輪郭を描いてみせようとしている。

鈍感な人たちは、それすら見ようともせずにただ生きている。自分が何であるのかを、別の誰かがどんな存在であるかを、彼らは本当には知らないでいる。知らないでいることすら、知らないままでいる。



人と人との間には、目には見えない色々なものがある。それは、人と人の間にしかないものだ。それを見ようとすること。見ることができること。

こういうことを持って、「成熟」というのではないかと私は思う。大人というのでなくて、成熟というのだ。






僕らは自分をはっきり知らないように他人をはっきり知らない。また知らない結果、社会の機構の中で互いに固く手を握り合っていて孤立することができない。


小林秀雄

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