学びの種類

学生時代に、こんな話しを聞いた。


「翻訳は、3種類ある」


翻訳には3つのタイプがある。第一に、外国語から母国語への翻訳。これが最も一般的な翻訳であろう。第二に、母国語から母国語への翻訳。古文の授業を想像してもらいたい。平安時代などに書かれた古典作品を現代語に訳すこと、これも翻訳である。

ここまでは、翻訳と聞いても納得ができるものだ。だが、最も重要なのは第三の翻訳である。これは、例えば「政治」や「正義」など抽象的な概念を自分の中にある言葉に「翻訳」して、相手に伝わるようにすることである。

これはとてと面白いことだと、今でも憶えている。そして、社会で働く上でこの3つ目の翻訳ほど自らを試すものはないと感じるのだ。



さて、翻訳にも3種類あるように「学び」についても同じく3種類あることに気がついた。

まず1つ目は、必要に迫られて行う実利的な学びだ。資格試験のための勉強などがこれに当たる。学生であればテスト勉強などだろう。

2つ目は、純粋な趣味としての学び、あるいは趣味を補強するための学びだ。例えば歴史の好きな子どもがいたとしよう。彼は知識を増やすために、試験とは関係ないが日々歴史について学んでいる。純粋に「歴史が好き」という気持ちから、自発的に本を読んだり調べ物をしたりしている。これが、純粋な趣味としての学びである。

さて、3つ目はよりアカデミックな色彩を帯びる学びだ。これは終わりのない学び。ライフワークとする学びである。1つの正解のないテーマを、何年と時間をかけて学び続けることをいう。



一般に、2つ目の学びまでは比較的世代を問わず行うことができるだろう。だが、3つ目の学びにまで至るには困難を極める。

まず社会人になると、テーマの掘り下げと、学びを行う時間的な制約があり難しくなる。だから、なるべく時間的に余裕のある学生のうちにこうした「学び方」の型を身につけておく必要がある。

何を学ぶか、学びたいのかという点はまず自己分析を行うことが大切だ。学ぶ対象が抽象的になっていくほど、自分が何を知りたいと思っているのか、自分の興味がどんな所に向いているのかを知らなければならない。

そうした意味で、趣味としての学び、ライフワークとしての学びは自己との対話に他ならない。

学びというものは、続ければその人の生を豊かにする。

だが、より私たちを豊かにしていくのは「ライフワークとしての学び」である。これは研究者の趣に似ている。



私が社会人になってから、特に意識するのはライフワークとしての学びについてだ。ここ数年はずっと哲学について考えたりしているが、掘れば掘るほど考えなければならないテーマが増えて、一向に収まる気配はない。それが、ライフワークとしての学びの特徴だろう。

学問のための学問は、働いている人間にとってはある意味贅沢なものだと思う。こういう金や物に変換できない贅沢さは、とても大切なものであると思う。精神的な豊かさの有無とは、こういう所に起因する。

だが、現代の日本人にはそのための時間が足りない。学びは豊かさであると同時に、心のゆとりである。その豊かさを喪うと、人は貧しくなる。

私は、金銭的な貧しさについてはあまり拘らない。けれど、精神的な文化的な貧しさについてどうにも耐えられない。そうした貧しさは、生きる行為をも痩せ細らせて、倦んだものにさせていくだろうから。




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