舞台上の人生

先日、映画「Diner」を見てきた。

簡単に内容を説明すると、玉城ティナ演じる主人公オオバカナコは「即金30万」欲しさに危険なアルバイトに手を出す。内容そのものは「車の運転をすること」だったが、そこで失敗をし殺し屋たちに依頼主共々捕まってしまう。カナコはその後、元殺し屋のシェフ (藤原竜也)が経営する殺し屋専門の料理店「Diner」で働くことになる。そこでの様々な経験を通して、カナコはそれまでの自分の殻を破り、「本当に自分のしたいこと/自分らしさ」というものを得ている。

その過程で人が沢山死ぬし、生命のあまりの軽い扱いにショッキングな場面もあるが割と楽しめた映画だった。また蜷川実花が監督を務めたということもあって、映画の随所に蜷川の色彩感覚や性癖というものがよく現れていた。多分この映画の細かなディテールは、確信犯的に蜷川の色に染められている。好き嫌いは分かれるだろうが、そうしたどぎつい色彩や小物が人の死に様とも相まって演出される場面が多かった。



私が個人的に印象に残ったのは、ショッキングな殺人シーンではなく映画冒頭でカナコが自身について語る場面である。全体的に暗い色の背景で、無数の人々が行き交う中でカナコは佇む。時に行き交う人々は早送り早戻しするような動きを見せる。

そしてカナコは、「誰も信じなくなった。誰も信じなくなると、みんな私のことも信じなくなった。私の元には誰もいなくなった」と続ける。彼女がそうなったのは、母親が家を出る際に姉だけを連れて、自身は祖母の元で育つという原体験がある。そうした過去の回想シーンがとても興味深い。

カナコは自らを「(母にとっては)いらない子」だったと言い放つが、祖母の前で将来の夢はレストランを持つことだとも言う。それは「いつかお母さんに食べに来てもらうため」だ。

カナコのパーソナリティの基本的な部分は「諦め」である。「いらない子だった」という意識がそれに顕著であるが、一方では「母がいつか自分のレストランに来てくれること」を夢見てもいる。

カナコとこの過去は深く結びついている。カナコは料理を作るのが得意だが、それも「美味しい、と言われると自分が存在してもいいような気がする」からだ。

カナコの過去を回想する場面は、全て「舞台上」で繰り広げられる。母と姉との別離という極めて重要なシーンですら、「設定された舞台上」という形で描かれる。これはカナコの生そのものが、あらかじめ演じられるものとして捉えられていることを示しているのではないか。

オオバカナコという人物は、一般的にありふれた現代の若者であると思う。

自分に自信がなく、人には大っぴらには言えない過去を持ち、無気力であるが自意識過剰で承認欲求に常に飢えている。

そうした生や自己認識というものを、蜷川は「設定され、変化していく舞台上」という形で描いた。皮肉にもカナコはその舞台上では主役であるが、「誰も信じられない」がゆえに最終的に「透明人間となった」。

誰からも求められず、気づかれない存在に至るまでを舞台上で描かれる。

カナコにとって生きる行為というものは、こうした「舞台上で演じられるもの」であったのだ。これは私の恣意的な解釈かもしれない。だが現代の若者にとっての生を「あくまでも演じられる人生」として描いた点は非常に重要であるし、興味深いものだと思った。



私たちは、カナコのように人生を演じているのだろうか。

それは、私たちが果たして本当に主体的に生きているのだろうか、という問いと表裏である。


あらかじめ設定され、行われる舞台。

生きている、のではなく全く「生きさせられて」いるのではないか。


特に自意識過剰で、多感な若い人にとって現代……自分自身を「生ききる」ことは困難だ。私は今自分が生きている事実に対して、そんな風に思う。

これは悲観ではないが、ある種の諦めに近いものだ。

確かに「生ききる」ことは、難しい。だがそこから抜け出るということもまた、それ以上に困難なことではないのか。そんな厄介な、「自分自身として生ききる」ことを抱え込むくらいなら、「設定された舞台として、自分自身を演じて生きる」方が遥かに楽である。

舞台という比喩にこうやって惹きつけられるのも、私がそこに困難さを感じていることの証左に他ならないだろう。



私たちは生きているといえるのだろうか。

もしそうだとして、舞台上で演じられる人生というものが、すなわち「生」であるとも思えないでいる。それは一つの処世であるが、鼻をつまんで通り過ぎて行くことと、何が違うのか。

私がこうして何かを書いて、出すのも一つの舞台であるかもしれない。

例えば、社会という舞台。自意識という舞台。

そこで、私は演じている。好むと好まざるとに関わらず。


誰のことも信じられなくなった、誰も私のことを信じなくなった。そうしたら、気がつくと透明人間のようになっていた。


一つの場所として閉じた存在である劇場とは違い、この舞台というものは皮肉にも双方向なものなのだ。

私も演じているが、また別の誰かも同じように演じている。誰も、「生ききる」ことを全うできないでいるのかもしれない。

それが、双方向的であると思う。

それが、私は「生ききる」ことの一つの希望なのではないかと思う。

カナコの存在は、悲劇でもあり喜劇でもある。

それを消費している私たちもまた、同じように。

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