趣味としての宗教


前回、宗教について触れた。

私は宗教について、そう鋭い視点を持っているわけでもないし、盲目的に何かを信仰しているというわけでもない。

ただ、宗教というものが人々にとって特別なのは人が世界を認識していく段階の最初期に存在するのが宗教であるからだ。その意味で、哲学と宗教は消して対立するものではなく根っこは同じものである。

宗教が「聖なるもの」や、人の知見では測ることのできない「なにものか」によって世界を認識しようと試みたものであるのに対し、哲学は史上初めて、「理性」を用いて世界を認識しようとしたものだ。だから、まず宗教的な観念なしに、哲学的な観念というものは生まれなかったと私は思う。

それは生きることの不思議さであったり、死んでいく運命への畏怖を含むが、こうした命題というものは長く哲学でも同じように扱われてきた。

宗教とは、とりわけ現代においてどのような存在だろう。最近では欧米でも教会離れ、「神を信じない」という若年層が増えているそうだ。宗教というものは、社会の中で最も古く、最も権威のあった存在であった。それらは近代以降に、次第にその存在意義を問われなにか別のものに取って代わられたような感じがする。前回ではそれに代わる存在として「美の感覚性」について考えてみたが、今回はまた別の視点から書いてみたい。



ピーター・L・バーガーは「聖なる天蓋」で、とても興味深いことを書いている。


「……宗教が独特の近代的形態の下に、つまり一種の強制されない顧客によって自発的に採用された正当化の体系として立ち現れている。……日常的な社会生活の私的領域に位置付けられていて、現代社会におけるこの領域の非常に独特の性格がそれを際立たせている。その基本的な特性の一つが、いわゆる個人化である。その意味するところは、私化された宗教が事実上共同の結合的資質を欠いて、個人または核家族の選択や趣好の問題だということである」



私は個人的にこれまで宗教が担ってきた社会や集団内での支柱が、個人と理性によって取って代わられたと考えている。だが、宗教というものは無くなることはない。もっと一般化してみれば、「宗教的なもの」「宗教擬き」なものである。そういったものは、未だ古臭くなく、私たちの間に存在している。

伝統的な宗教ではなく、宗教的なもの。

理性では説明できないけれど、非科学的だと切り捨てることのできない微妙な概念や現象である。それらは、バーガーの言うように「選択可能」なものとして現れる。選択する主体が存在しているのは、極めて私的な領域、心の領域だ。そして、その心の領域に私たちの外縁を取り囲む社会がある。その社会の流れが、その選択を補強していくのだ。

バーガーはそこで「個人化」を指摘する。宗教はここでは選択可能なもの、趣味嗜好と同じような存在になるというわけだ。

宗教というものは、個人によって手軽に消費される。宗教とは呼べないような、カルト的なものですらも個人にとってそれが居心地の良いものであれば社会の中で受け入れられていく。

病んでいるのは、宗教かはたまたそうした藁にもすがりつきたい自意識か……。



現代において、大っぴらに神が信じられる現象はかつてほどない。

その代わりに私たちが信じているのは、社会という存在であり、理性という存在だろう。私たちは、誰もが自分自身が理性を用い、適切に物事を処理できると信じている。そして、社会の方もまたそれを私たちに要求し続ける。人の情動という部分に目を向ければ、私たちがそれほど理性的な生き物ではないことが分かるはずだ。私たちは昆虫などにも広くみられる原始的な奉仕精神や母性愛をベースとして、理性に拠らない情動によって多くの物事を処理している。それに理性は枠を掛けたものだが、その領域というものは限定されている。だが、私たち自身はそのように認識してはいない。

理性を第一に、世界を認識しこの人生を生きていると信じて疑わない。

これが、現代の宗教であろう。教祖も教義も聖典もないが近代以降固く信じられてきたものである。



私たちは理性的な存在であり、理性というものは奔放な情動と違い、間違いなく私たちを結論へと導いてくれる。



伝統的な宗教は、あくまで選択可能な存在としてとどまるのみだ。

私たちが有無を言わせず入信しているこの理性とは一体なんなのか。かつての社会集団の代わりに私たちを押し込めるこの個人意識とは、一体なんなのか。

癒し難い矛盾と不安は、相変わらず私たちを覆っている。

とても大切な問題がある。

哲学が現代に近づくほど問題にしたのは、他者であり社会であった。自らの内へ内へと思索の刃を研いで行くのではなく、その外へと関心の目を向け始めたのである。これはとても大切なことだ。


私とまた別の存在は、いかにあるのだろうか?

また、あるべきなのだろうか?


このことに、近代以降の哲学は次第に意識を向け始めた。宗教は伝統的に一つのことを説いている。


「あなたの隣人を愛しなさい」


自分以外の他の存在を気にかけること。また、自分を愛するように、また他の存在を愛すること、赦すこと。

これは、理性を越えた生物の普遍的な在り方……分かりやすくいうと、「心の在り方」である。

この辺りに、私たちが近代以降に患ってきた病理とその処方箋が隠されていそうだ。

理性は私たちを救えるのだろうか。

また、理性的な人間は果たして救われるのだろうか。

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