社会の理不尽さ

「社会に出てからの理不尽さは、こんなもんじゃないけどね」



大学4年の終わり頃に、仲の良かった教授に送られてきたメールの中に要約するとこんな感じの文章があった。それは嫌味でも、説教でもなくさらりと折り込まれたものだった。

例えるなら、新聞の真ん中に折り込まれたチラシのようなもので強いてそれを眺めることはないけれど、なんとなく「目について見てしまうもの」だった。


「そんなこと、言われなくても分かってるのに」


反発するわけでもなく、私はそれを見たときにそう思った。そして、同時に身構えた。

私にとってその先生は、色んなことを経験して考えて、それなのに私たち学生の感性と遠いところにいるのでなく「分かってくれる」存在だった。そして、大学教授の名に負けない知的な人だったと思う。

そういう人からさらりと投げられた「社会の理不尽さ」という言葉は、理解できるようなできないような存在だった。



まだ青いと言われるだろうけれど、私は今年の4月に社会人2年目になった。

職場は社会福祉の分野とだけ、言っておこう。もちろん組織の中には色々な人がいる。一生懸命な人、仕事をしない人、小狡い人、媚を売る人、色んな人が集まっている。

一説によると、組織の中で一生懸命仕事をする人というのは、全体の2割ほどだそうだ。そして、4割の人というのは、「仕事をしない人」。つまり、サボる人たちということだ。

これは人間の集団だけでなく、働き蟻の集団でも同じようなことが起きている。怠ける「働き蟻」がいるというわけだ。

さて、こうした現象がすなわち「社会の理不尽さ」だろうか?

そうかもしれない。



組織の中には、必ずマネージメントをする人間がいる。管理職、上司と言われる人たちだ。

そこにつく人たちは、必ずしもその職務に適性のある人たちばかりではない。さらにその上の経営層に媚を売るのが上手い人が管理職に収まっていることだって、珍しくない。

明らかに適性がなくても、責任の伴う役職につけることはできる。

こうした事実も、社会の理不尽さだろうか?

そうかもしれない。



もう少し卑近な例を引くとして、自分の今している「仕事」について考えてみよう。

社会福祉の仕事、「生活支援員」とカテゴライズされる仕事は世間のイメージよりもきつい。それは排泄や入浴や食事など、人が生活をする上で最も基本的な部分全てをカバーする職域の広さや、求められるマルチタスクさにあるわけではない。(あくまで私の場合はね)

同じ人間 (利用者や家族、時として同僚や上司など)との関係性が、やはり最も「しんどい」と思う。

つまり人間関係のことだけれど、常識が通用しない相手、自分の持っている価値観を共有していない相手との関係性が、最も厄介だ。語弊を恐れずに言えば、その相手が障害を持っていたり、なんらかの課題を抱えている場合は、「非常識さ、理不尽さ」というものは、倍増する。

当たり前のことが、通用しないこと。自分は悪くないのに、指導をされること。時に怒鳴られたり、虐められたりすること。

これも社会の理不尽さだろうか?

そうかもしれない。



だが、最近思うことがある。

今なんとなく挙げてみた例というものは、確かに理不尽なものだけれどそれは表面に現れた理不尽さだ。


「非常識が常識に成り代ること」


これこそが、「社会の理不尽さ」ではないか。

これは、何も社会福祉の仕事だけではなく、一つの組織に所属して長いことそこから給料を受け取ること……を通して必ず起こることであると思う。

人というものは、必ず染まっていく生き物だと思う。私にとって、それはとても怖いことだ。

そして、同時に許せないと思うことでもある。

明らかにおかしいことに対して、何も言わないこと、言えないこと。

その中で順応していくことが、理想の社会人だろう。知らず知らずのうちに染められて、馴らされていくこと。それを、「社会人」という単語で覆い隠して憚らないこと、無自覚にそれを他者に強要すること……。

そういうものも含めて「理不尽」だと思う。



どうして、そういう「理不尽さ」は私たちの周りにあるのだろうか?

その一つの原因は、思考の「絶対化」であると思う。物事を、「絶対的にしか」見れなくなること。比較対象を、喪ってゆくこと。

「これしかない」という思考は、たとえ非常識なものでも、その集団内で通用するのであれば非常識さを採用していくことに導かれていく。

だから、物事を「相対化して、相対的に見てゆくこと」はとても大切なことだと思う。

「これもある」という思考は、組織の中の矛盾や理不尽さ、非常識さに対する一つのブレーキだ。



これは、生き方についても同じことが言える。

自らの経験や主観の絶対化は、意図せず私たちの視界を曇らせ、寛容さを失わせる。

私の持つものと、あなたたちの持つものをお互いに持ち寄り、考えること。

この「考えること」ができるのか、できないのかで、私は今私たちが生きているこの社会の「生きやすさ」というものは、随分変わってくると思う。

よく考えれば、6歳から22歳の16年に及ぶ教育課程の最終段階で、しゃにむに正規職員という進路のみを選択しようと血眼になること自体が、「理不尽な」ことではないか。多様性をいうのであれば、色々な進路が奨励されてしかるべきなのに、みんな同じ道へ一直線に向かっていく。

金子みすゞの詩の中に、「不思議」という題名のものがあるが、そこには「当たり前」を問い続ける文章が並ぶ。


なぜ、誰も言わないのに花は一人で開くのか。


そして、最後にみすゞは、「私は不思議でならない。誰に聞いたって、そんなの当たり前だと笑うのが」と締める。

これは非常にレベルの高い「相対化」であると思う。こういう考えを、私たちの一人一人が持てれば見えてくる世界が変わる。

見える世界が変わるということは、これから私たちが作っていく世界も自ずと変わるということである。

口だけで綺麗なこと、誰かに好かれることを言うことは簡単だ。そして、「ふつう、当たり前」というものにしがみついて、ついていくことも簡単だ。それは形を変えた思考停止でもある。

考え続けることは、同時に怖いことでもある。

私は時に金にも物にもならないことを考えながら、ふと自分がいかに矮小でつまらない存在なのかを嫌というほど意識することがある。それでも、そうすることやそういう風に自覚することの中に、決して私たちが忘れてはならない「人間らしさ・心」というものの働きがあるような気がする。



私たちは、極端に合理化された先進的な社会のただなかにいる。その集団の中でなんとか適応して、生活を営んでいる。それも当たり前だのことではなく、それは同時に私たちの持っている能力が並以上のものであるからこそう成し遂げることができるのかもしれない。そして、そういう人材を送り続けている安定した社会資源というものを考えるにつけ、私たちのこの社会というものは、とても豊かなものなのかもしれない。

だが、人というものは万能ではない。そして、その人の作るあらゆる集団や社会もまた万能ではない。

ゲーテは、「自然は常に正しい。そこに誤謬や過失があれば、犯人は人間である」と言った。私たちを取り囲む自然は、そこに理性の働きはないのに淡々と流れていく。

その流れは、当たり前なようで、当たり前でない。

それを、当たり前だと笑ってしまえるのが果たして本当に人間なのだろうか、大人といえるのだろうか。

自分ではない、異なる他者について思うこと、考えること。起こりうる様々なことに対して、なんらかの意味を見つけ出すこと、価値や倫理を検討してみること。

それが、人に出来ることであり、人にしか出来ないことだと思う。そうした種を持って、「作られた」社会、あるいは集団組織の中で働くこと。

その中でのみ、「社会の理不尽さ」というものは乗り越えられるものとなるのではないか。

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