帰属先、アイデンティティ

アミン・マアルーフ著の「アイデンティティが人を殺す」を読んだ。本書はタイトルにある通り、「アイデンティティ」についてのエッセイという形を取っている。

普通、アイデンティティとは取り替えのきかないものとして近代以降個人にとって極めて重要な概念として機能してきた。それに対し、著者は「たった一つの帰属としてのアイデンティティ」は、狂気的であり事実、歴史上人々の破滅的な行動を引き起こすものとしても機能してきた。そうしたアイデンティティについて、今を生きる私たちと社会がいかに捉えるべきなのかを論じるものである。



アミンによると、アイデンティティとは「他の誰とも同じにならないもの」である。アイデンティティは帰属意識に起因するものだ。それは宗教、民族、言語、国籍、ある特定の集団など無数にあるものから生まれる。もちろんこれらすべてが同じような重要性を持つわけではないが、無意味なものでもない。人格を構成する要素である。アミンは「魂の遺伝子」と呼ぶ。そして、この遺伝子の組み合わせはそれぞれ固有のものであり、2人の人間の間で重なるということはない。そこに私たちの人間としての豊かさ、価値があるのだ。ゆえにアイデンティティとは、ただ一つしかない取り替えのきかないものとなるのである。

アイデンティティと呼べる帰属は、どんな状況にあっても他の帰属に優越する。だからアイデンティティと呼べるのは、こうした優越を持つ帰属だけである。

一方でアミンは、アイデンティティについて生得的なものではないとする。あらゆる帰属は、社会環境の中で意味を付与されていく。アイデンティティとは、一度きりで与えられるものではなく、人生を通して構築、変形していくものなのだ。



だが私たちはこうした社会的に意味付けられたアイデンティティによって、時に傷つく。アイデンティティを基礎単位とする差異によって、曖昧な個人の輪郭はよりはっきりとしてくる。そしてそれは、私たちの行為や意見や恐怖、野心といったものまで形作っていくのだ。アイデンティティとは、通常人格を形成するものであるが、場合によっては癒えない傷となって残る。

ライフステージの中で、私たちの帰属に対する態度や序列を決定するのがこの「傷」なのだ。アイデンティティとは、無数の帰属から形成される。だが、アイデンティティそのものは「一つ」である。私たちはこの「一つ」を全体として生きている。たった一つの帰属に触れただけで、その人の全体が震えるのである。また私たちは、最も攻撃に晒される帰属に自らの姿を認める傾向があるのだ。そして、自らにその帰属を守る力がないと感じるとそれを隠す。そうした帰属はアイデンティティの奥底にとどまり、時として殺人的な行動に及ぶ引き金にもなっていく。

アイデンティティを形成するものとして、歴史や宗教が分かりやすいが、人々が歴史や宗教に与える影響についてはあまり重視されてこなかった。アミンは影響というのは相互的であり、私たちは一側面ばかりを見がちで正しい見通しを得ることが難しいという。さらにアミンは、現代について、近代化とは西洋化をそのまま指すとし、そこに西洋とそれ以外の世界の人々が同化していく流れにアイデンティティの深い危機を伴わずにはいられないとする。



アミンによれば、人類の知の進歩とは3段階を踏んできた。第一に、先史時代にあたる最初期では知の進歩は緩慢であった。この時代の革新は、次の革新がもたらされるまでに世界中に伝播する時間があった。よって、人間社会の進化はどこも同じようなものであった。第2段階においては、この知の伝播がより迅速になり、人間社会の差異が明確になっていく。そして、第3段階が現代といえる。知の進歩と伝播は加速するが、結果として人間社会の差異は小さくなっていく。

誰にもコントロールできないこうした動きは、短期間で私たちの知識や行動を変えさせていくだろう。アミンは人間社会が他との差異を強調しつつ、自他の境界線を引くために作り上げてきたものが、その差異を減らし境界線を消そうとする力にアイデンティティが従うことになるだろうとする。こうした前例のない働きが、衝突なしに行われることはありえない。調和と不調和の下で、私たちはかつてないほど多くのものを共有している。そうであるがゆえに、私たちは差異を強調する。加速するグローバル化が、反動としてアイデンティティの欲求を強くしているのだ。

これまでの伝統的な帰属は、宗教よりも偏狭で制限的であった。それらは時として人の命を奪う行為にすら、私たちを駆り立てさせる。アミンはそこで、より巨大で完璧な人間主義的なビジョンを持った帰属を目指すほかないとする。



私たちは生きている間は、この世界に一体感を感じられるようになるべきだ。そのために私たちは、個人であるか集団であるかを問わず対話者に対して振る舞いと習慣を身につけなければならない。私たちはアイデンティティを様々な帰属の総和として思い描けるようにされるべきだ。だがアイデンティティをただ一つの帰属先であると思うと、それは途端に排除の道具となってしまう。

そして、社会もまた多数の帰属をわがものとして受け入れるべきである。そうした多数の帰属が社会のアイデンティティを作り上げてきたのだから。社会は目に見える形で多様性を受け入れていることを示す努力をしていくべきだ。




要約すると以上のようになるが、アイデンティティとは社会の中にあって特殊なものだ。先進国に見られるのが、「私は少数派だ、疎外されている」と感じる人の多さだ。それがたとえ欧米社会における白人であったとしても、そうした感情は珍しいものではない。アミンが指摘するものの中で特に目を引くのが、アイデンティティの負の側面である。アイデンティティとは私たちに固有の「帰属先」である。それを「魂の遺伝子」と形容するアミンは正鵠を射ている。なぜ人々は憎しみ合うのか。そのメカニズムはアイデンティティを通して理解され得る。

私たちの間で、アイデンティティとは代わりのきかない、そして変化することのないものとして認識されている。こうした前提こそが、私たちを憎しみへと向かわせる。そうであるからアミンはアイデンティティを「総和として捉えよ」と主張するのだ。

私たちの生きる時代、この場合はアイデンティティの拠って立つ時代は複雑である。私たちを確固たる個人として意識させるものは実に多様だ。アミンは、社会に対してその多様を引き受けその努力を見える形にせよと言うが、むしろ世界はそれとは逆の方向へと向かっているようだ。これまでアウトサイダーであった移民やLGBTがアイデンティティを形成する一端として意識され始めたが、皮肉にもそれはこれまでの伝統的な帰属に対する境界を明確にした。そして、そこに自らのアイデンティティを認める人々は「疎外されている」と感じている。

なぜ、彼らが優遇され私たちが疎外されなければいけないのかと感じる。だがこうした感情もアイデンティティの性質から見ると理不尽なものではない。理想的な在り方ではないかもしれないが、アイデンティティとは「そのようなもの、そのように感じるもの」である。

個人とは、「私」とは自分で認識する以上に曖昧で不確かなものである。アイデンティティとは、それに輪郭を与え感情を形作る。そうであるから価値があり、その価値とは取り替えのきかない固有性にある。だがこれまで多くの人の中にあった共通する固有性 (民族や宗教、言語など)は薄らいでいっている。アイデンティティはより細切れに多様化する。

そうした時に、私たちはいかにして「私」を認識できるのか?

鏡なしに私たちは自分の顔を覗くことはできない。他者の中で、あるいはアイデンティティという写し鏡の中でそれを認識しないでは、曖昧で不確かな不安定な自己を「見る」ことはできない。

アミンは「総和として見よ」と言った。

私は「私」の総和である。実に多様で、ライフステージによって変化しうる、複雑でこれもまた掴み難い帰属……アイデンティティである。






参考・引用「アイデンティティが人を殺す」アミン・マアルーフ 小野正嗣訳 ちくま学芸文庫

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