ある、というレッスン。ない、というレッスン。

街の本屋が消えていく、と言われて久しい。

私は本屋よりも古本屋の方が、気がつくとパタッと消えているような感覚がある。もう何年も前に近所にあった古本屋が潰れて、認可保育園になっていた。あそこを古本屋があった場所だと覚えている人はどのくらいいるだろう。

どうして本屋が消えていくことが問題になるのか、ということについては色々なことが言える。

私は端的にそれは「出会いの希薄化」にあると思う。私たちは欲しいものはなんでも手に入る世界にいる。Amazonでも楽天でも、好きな時間に好きなだけモノでも映画でも音楽でもだ。

けれどこうした「出会い」とは、あくまで自分の趣味嗜好から見える範囲の出会いに限定されていく。現代の滑稽なところは、自分たちでは広大な自由の地平にいると思いながら、その実極めて限られたシマの中にあるものだけを消費しているという姿だ。

それはネット書店にも言えることで、基本的に目当てのものしか表示されない。「あなたへのおすすめ」も、私の趣味嗜好の範囲からは逃れられない。

けれど街の本屋へ行けば、色々なものが目に入る。そういう「ながら歩き」をしながら、新しい出会いがある。時には買う予定のなかったものを買い、それが一生手元に置きたいものであったりするから不思議だ。

昔、「思いを持っていれば目標の方からこちらに歩いてやって来る」というようなことを聞いた。私は本も同じではないのかなと思う。

本の方からやって来る。

そういう「出会い」が、街の本屋にはあるのだと思う。そうした積み重ねが多分教養になっていくのだろう。



ちくま文庫から出ている鷲田清一の「想像のレッスン」は、私にとってはそんな本だった。ちくま文庫の書籍はどこの本屋に行っても絶対に探して見る。でも本書は最近初めて手に取った。ぱらぱらとめくるとエッセイ集であることが分かる。


へぇ、なんだか面白そう。


私が本を買う時の基準はとても単純で、「面白そう」と思えるかどうかだ。そんな軽い気持ちで私は本書を買って読んだ。

それがどうだろう。「あぁ、そうだ」と頷けるようなことがさらっと書いてある。

鷲田の取り上げるテーマは多岐に渡って、雑多だ。ただ、一貫しているものがある。

それは「目には見えないもの、あるいは見えて存在するものに対する冴えた視線」だ。そうした視線を通して、鷲田は様々なものを捉えていく。

言葉について、感情について、社会について、世界について。



「『感情』とは、原理的に『ことば』が届くことのできない、身体の広大な経験領域に対して、私たちが恐る恐る貼り付けたラベルにすぎない。……だが、既成のことばから離脱しようとあがきながら、なおも、私たちに与えられたこの『ことば』を使うことに賭けなければ、なにひとつ始めることもできない」



例えば、どうして私たちは他者に語りかけるのか?そのことに普段疑問を持つことはない。私たちの中にある原始的な部分、それが感情と呼ばれる。言葉はそうした原始的なものを持ち合わせた私たちをかろうじて繋ぐものだ。

こうして私が誰に届くか分からないまま、文章を書き連ねるのも感情という形のない見えないものを、「確かにある」ものとするためなのかもしれない。



私が本書を読んで最も好きな言葉が以下のものだ。



「私たちが生きる上で大切なことは、わからないものに囲まれた時に、分からないままにそれらとどう向き合うかということであろう。それに、人間にあっては、近いもの、大事なことほど、見えにくいものだ。言葉にはなり得ないもののうちにそれでも言葉を駆使して潜り込んでゆくこと」



分からないものは、私たちを怖気つかせる。そして時に私たちはそういったものを憎み、排除してきた。鷲田の言う「分からないままに」というのは、とても大切なことだと思う。

「分からないまま」、だがそれは「分かろうとしない」ことでもない。

私たちの生きる社会は、これまでなかったほど「多くの顔が見える」社会になった。外国人、性的少数者、障害者……沢山の顔がある。そういった雑多な人々を、言葉は一つの記号として枠を作り、そこからさらに様々なステレオタイプが生まれていく。そういった終わりのない、絶え間のない揺らぎの中で、私たちは存在している。本質的にそれは言葉にはなり得ないものだが、それでも私たちは言葉でしかそうしたものたちに近づくことはできない。

鷲田の言葉は、そうしたことを静かに語る。

鷲田はまた、現代の社会についても鋭く書く。




「『自己実現』とか『自分探し』という形で、より確固たる自己を求める人が、同時にひりひりとても傷つきやすい存在であるように見えるのは、無償の支え合いという、この『気前の良さ』へと放たれていないからかもしれない。『支え合い』の隠れた地平、つまり家族や地域といった中間世界がこの社会で確かな形を失いつつあるがために、『自立』が『孤立』として受容されるようになってきているのかもしれない。自分の弱さに向き合うことから始める、それが、回り道のように見えるかもしれないが、一番必要なことなのではないか」



中間世界の形が失われつつあること。

そこから個人が現れる。だが、鷲田は「ひりひり傷つきやすい存在」であるという。そこには孤立と背中合わせの自立があり、他者の存在が希薄である。

私たちは、弱い存在である。その弱さを、私たちは見ているだろうか。そうして、その弱さとは私たちにある種の不寛容さをもたらしている。これは不都合な真実だ。

私は自分が思っているほど、強くも賢くもない。それが、「私」あるいは「私たち」の輪郭だ。

また本書のタイトルにある「想像」について、鷲田はこう書く。



「想像というのは、ここにあるものを手がかりとして、ここにないもの、つまりは不在なものを手繰り寄せる、あるいは創り出すという、精神の営みのことだ」



そしてこの「想像」とは、鷲田が一貫して見つめる「目には見えないもの、あるいは見えて存在するもの」について不可欠なものである。

目には見えないが、そこにあるもの。

そして、あるように見えるがないもの。

それは心であったり、政治であったり、宗教であったり、美しさであったりする。

それらに迫ってゆくのが、言葉である。

だが鷲田は一方でこう説くのだ。



「逆にまた、警戒した方がいい。言葉が『事実』を作り上げるのを。言葉は、存在しないもの、現にある以上のものを、存在させもするからである」



そして鷲田は現代の社会に蔓延るものについて、こう書く。



「意味するものと意味されるもののちぐはぐさ、そこにきちんと目を据えていないと、この『ない』ものに弄ばれる。誰もが同じように語り出し、誰も正面切って反対できないこと、例えばクリーシェ(常套文句)、それがこの社会にどれほど蔓延し、人々を思考停止に陥らせていることか。『普通』という名の思考停止、それからどう脱出するか………」



私たちの存在は様々なものによって、削られていく。そこから立ち現れるものはなにか?

鷲田が言うような、意味するものとされるものとの間にある「ちぐはぐ」さ。

私たちは、果たして鋭敏であれるのか?

鷲田のいう「この社会」とは、クリーシェに溢れ「普通」というものが、新たな思考を堰き止めようとする。

心や意識、そして自己とは目には見えないが「ある」ものだ。だがもしかすると、「あるように」見せかけられているだけで本当のところは「ない」ものなのかもしれない。

知性や教養とは、本当は何のためにあるのか表層的なものは何もそれについて教えてはくれない。

想像とは、そうしたものへのささやかな試みであり私たちは時としてそれをためらう。



参考・引用 「想像のレッスン」鷲田清一 ちくま文庫

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